マルクスの初期の疎外論は後期の物象化論に解消されたというのは、どうもそんな単純な話ではないようだ。この歳になって『経済学・哲学草稿』や『ドイツ・イデオロギー』を読み返そうとしているが、いっこうに進まない。ただでさえ進まないのにあれやこれや思いもかけぬ参照項がまとわりついてくる。
「全自然を、じぶんの<非有機体的肉体>(自然の人間化)となしうるという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、自然の<有機的自然>たらしめるという反作用なしに不可能であり、この全自然と全人間の相互のからみ合いを、マルクスは<自然>哲学のカテゴリーで<疎外>または、<自己疎外>とかんがえたのである。」(吉本隆明『カール・マルクス』光文社文庫2006年,p.21)
「マルクスの<自然>哲学のなかに人間と自然の相互関係を表象するものとしてあらわれる<疎外>または、<自己疎外>の概念は、本質的な、それゆえ不変の概念であり、社会がかわればかわるというふうには考えられていない。しかし、現実の社会の経済的なカテゴリーとして表象される<疎外>(疎外された労働)は社会がかわれば消滅することもでき、またそれを人間社会の自己目的としうる概念としてあらわれている。」(同p.23)
「全自然を、じぶんの<非有機体的肉体>(自然の人間化)となしうるという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、自然の<有機的自然>たらしめるという反作用なしに不可能であり、この全自然と全人間の相互のからみ合いを、マルクスは<自然>哲学のカテゴリーで<疎外>または、<自己疎外>とかんがえたのである。」(吉本隆明『カール・マルクス』光文社文庫2006年,p.21)
「マルクスの<自然>哲学のなかに人間と自然の相互関係を表象するものとしてあらわれる<疎外>または、<自己疎外>の概念は、本質的な、それゆえ不変の概念であり、社会がかわればかわるというふうには考えられていない。しかし、現実の社会の経済的なカテゴリーとして表象される<疎外>(疎外された労働)は社会がかわれば消滅することもでき、またそれを人間社会の自己目的としうる概念としてあらわれている。」(同p.23)