1972年、相模原市で勃発した戦車搬出阻止闘争に、現在、小田急相模原駅前葬祭場建設反対の会の運動員である正一は参加していた。
ベトナム戦争さなか、相模原米軍補給厰に送りこまれ損傷した戦車を修理し現地へ搬出されることを反対した相模原市民たちは全力で闘争した。世に言う相模原戦車闘争である。
当時、高校生だった正一はヘルメットをかぶり現場に到着したところいきなり機動隊に取り囲まれ、棍棒で打ちのめされた。
周囲には、参加した市民の男性の口腔内に棍棒を掻き回す機動隊、まさに阿鼻叫喚の世界が繰り広げられていたという。
正一は正義感強い男で熱血漢である。だから、2020年、3月に発足した小田急相模原駅前葬祭場建設反対運動も本当に純粋な気持ちで運動員となった。
私は、もしかしたら、正一だけが純粋な気持ちで参加しているのかもしれないと時々思うことがある。
正一は、老人が可哀想だと言う。ついのすみかである老人ホーム前に葬祭場が建設されて
私は、可哀想だという心は少し麻痺をしているかもしれない。みんなが可哀想だと言ったから、きっと可哀想なのだと思う。
地域で高名なオンブズマンは、相模原市の斎場設置指導基準に著しく反している面があるから、これはおかしなことだと反対の会のメンバー、近隣住民、そして市役所にて主張した。
いくら訴えても指導基準には罰則も効力もない。だから、近隣住民は諦めてそれでは、建設を受け入れ協定を結ぼうと模索した。
だが、オンブズマンは、ただ一人諦めず、指導基準書のありかたの意義を唱え続ける。自分自身の主張を曲げずに、ひたすらに
正一は、純粋に近隣住民のことを考えた。このままでは、近隣住民にとってさらに最悪なケースとなる。建設は阻止できなくでも、少しでも配慮を交渉しなくては、
オンブズマンは自らの主張、指導基準書のありかたの筋道を通すためには近隣住民の犠牲も致し方ないとした。
しかし、正一はひたすらに、近隣住民にとり、老人ホーム入居者にとり、より良い道を模索する。
さて、私が小田急相模原駅前葬祭場建設反対の会の運動員になった理由であるが、、、
わからないのである。
私は、葬祭場の前に住んでいるわけではない。
ある日、 身よりのない老婆と小田急相模原にたどり着いた。そして、葬祭場前の老人ホーム経営者と知り合いとなった。我々の事情を理解してくれた老人ホーム経営者は、私の相棒老婆を引きとってくれた。
つまりは、老人ホーム経営者は我々の恩人
濁流の如く押し寄せる流れに足を取られ、私は、今何処にいるのだか自分でもわからなくなってしまった。
今、私は何処にいるのだろう
サン・ライフファミリーホールさん、せめて、何度も、何度も要請した地域住民説明会さえしてくれたら、こんな思いしなくてよかったよ、
なぜなら、地域住民説明会の交渉は私に課せられた最大の任務だったから
これが果たせないまでは、ブログにせよ、通信にせよ発信し続けなくてはならないのだから
それは、まるで戦後何十年も経過してから南方のどこかで発見された日本兵のように
2021年6月、既に建設された小田急相模原駅前サン・ライフファミリーホール葬祭場の前に私は佇んだ。