華の会

日本文化を考える

宗左近「私の憲法論」

2006年06月25日 | 憲法
詩人の宗左近さんが亡くなりました。
宗左近といえば詩集「炎(も)える母」を読んだ時の印象が強烈でした。
その他にも、作曲家の三善晃さんと協力して、
新しい形の校歌を作った事でも有名です。
愛とか、夢とかの言葉を散りばめた象徴的な詩を書かれました。
その詩の奥には常に戦争で亡くなられた人々への
鎮魂の思いが込められているように思います。

詩集「透明の芯の芯」2000年から

  青い空
花は不透明 でも 私が見つめているとき 花は透明
  宇宙が見える
私は不透明 でも 花から見つめられているとき 私は透明
  夢が見える
透明とは 運動 おそらくは祈りの
  そして
不透明とは 終点 きっと宇宙を作った光の
  そのために
花から見つめられているとき 私の奥 痛んでいる
  だから ごらん
花を折れば 私が折れる 青い空を噴(ふ)いて

宗左近 本名・古賀照一さんが6月19日亡くなった。
87歳だった。1919(大正8)年、福岡県生まれ。
仏文学者で、多く翻訳書・美術評論書を出した。
大学で教鞭を執りながら多数の詩集を発表。
 1945(昭和20)年5月の東京大空襲で
母と逃げまどい、母が火の中に残り、
自分だけ火の中から転がり出るという体験を描いた
詩集『炎(も)える母』で68年に歴程賞を受賞した。
 宗左近の名は戦争中に死線をさまよった時の
「そうさ、こん畜生!」の言葉から取ったと言う。

 宗左近さんは2005年5月16日の東京新夕刊に
「私の憲法論」を書かれました。
難しいのですが私なり要約してみました。

地球上で日本人だけが桜の花に狂乱するのはなぜだろうか?
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と
梶井基次郎はエッセイ『桜の樹の下には』で書いた。
桜の樹は先祖の屍体を吸って、桜の花を咲かせるのである。
先祖の魂が、私たち子孫の魂を鎮魂させる為に咲かせるのだ。
戦争で死んだ若者の屍体の生命の液体を吸った桜は
非戦の誓いである「憲法9条」を咲かせた。
桜が咲くと死んだ母が蘇って、私たちの苦しみと悩みを解き放ってくれる。
だからこそ、みんなが桜に狂い、踊る。歌う。酔っぱらうのである。
だからこそ、私は叫ぶ。「咲けよ初夏にも日本の桜」と

下記に宗左近さんの「私の憲法論」の全文を載せます。

宗左近「私の憲法論」東京新聞2005年5月16日夕刊より
『宗左近詩集成』 日本詩歌句協会(北溟社) 2005年
777ページ

 宗 左近 《詩集成》 覚書から、

『 まず、次の文章をお読みいただきたい。
 すぐには納得いかないねえ、といわれるお話を申し上げる。お許しいただきたい。

 先刻ご存じの通り、ほとんどの日本人は、桜に狂う。踊る。歌う.酔っぱらう。
でも、これは地球上で日本人だけ。いつたい、これはどういうことなのだろうか。

 十五年戦争の始まる頃に書かれた梶井基次郎のエッセー『桜の樹の下には』を、
十五年戦争が終ってのちに読んだ.驚嘆した。抜き書きする。
 「桜の樹の下には屍体が埋まっている!
  これは信じていいことなんだよ」
 「屍体はみな腐乱して蛆が湧き、堪らなく臭い。」
 「桜の根は、貪婪(どんらん)な蛸(たこ)のように、それを抱きかかえ、いそぎ
んちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて、その液体を吸っている。」
 「何があんな花弁を作り、何があんな蕊(しべ)を作っているのか、俺は毛根の吸
いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがっ
てゆくのが見えるようだ。」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/427_19793.html

 わたしは「きけ わだつみ」の世代の生き残りである。この屍体は、そのまま、わ
たしたちの友人たちのものだと思った。やがて、新憲法が発布された。非戦の誓いの
憲法第9条は、友人たちの屍体の生命の液体を吸って咲き出た桜の花に他ならない。
だからこそ、じつに悲しく、この上なく美しい。

 しかし、、わたしのなかには、なお、問題が残った。なぜ、世界中で日本人だけが
桜の花に狂乱するのか、そこには、きっと深い謎がある。でも、判らない。

 ところが、啓示を受ける事件が起こった。
 昨年、沖縄忌第二回俳句大会の選者の一人となった。そして、次の玉井克輔の作品
に強い衝撃を受けた。

   日本忌のなきは沖縄忌のあればこそ

 わたしのなかを、不意に感動が走った.次の二句が生まれた。

   憲法第九条あるは沖縄忌あればこそ
   日本忌の無きは桜狂いあればこそ

 第一句の発想は当然であって、付け加えることはない。第二句には、付言が必要で
あろう.桜狂いは、日本の被支配層すべての共有する民間宗教なのだと、わたしは思
いついたのである。でなければ、あれほどの浸透の深さと広さはありえないのではな
かろうかと。

 ただし、この民間宗教には、じつに強い特色がある。それは、先祖の(つまり死者
の)魂(すなわち、桜の花)は、子孫のわたしたちの魂から鎮魂されるのではないと
いうこと。先祖の魂が、子孫のわたしたちの魂を鎮魂するのである。だからこそ、わ
たしたちの生者は嬉しくなって踊り狂うのである。

 そして、この土俗宗教の書かれなかった教義を文字にしたものこそ、「国権の発動
たる戦争と(中略)武力の行使は(中略)永久にこれを放棄する」という憲法第9条
なのではないだろうか。

 それなら、いわばこの桜教の神は、何なのだろうか。
 岩波文庫『きけ わだつみのこえ』の最後尾には、敗戦後シンガポールの刑務所
で、
連合国の軍事裁判の誤審によって刑死した木村久夫の処刑前夜の短歌が載っている。

  おののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔をいだきてゆかむ

 じつに日本人庶民特有の、いわば桜教の神さまは《母》なのではなかろうか。死ん
だ母が蘇って咲き出て、生者のわたしたちの苦しみと悩みを、解き放ってくれるので
ある。だからこそ、みんなが、踊る。歌う。酔っぱらう。すなわち、憲法第九条を生
んだ産みの母は、外ならず、桜なのである。
 だからこそ、わたしは叫ぶ。「咲けよ初夏にも日本の桜」と。』

『宗左近詩集成』 日本詩歌句協会(北溟社) 2005年
777ページ