華の会

日本文化を考える

季節はずれに咲く桜

2006年10月28日 | 
Ⅰ 季節はずれの「エドヒガンザクラ」  中日新聞から
桜の名所が見ごろ?    
季節外れの花を咲かしたエドヒガンザクラ=日立市で
 桜の名所として知られる日立市で、
エドヒガンザクラが季節外れの花を咲かせ、地元の人を喜ばせている。
 見ごろを迎えているのは、同市神峰町の市営高松台団地脇にある10本。
5年前、団地の前に市道ができたことを記念し、
住民グループ「中小路を住みよくする会」などが植えた。
毎年、春には薄ピンク色の花を楽しめるが、
今月に入って突然、開花したという。
 植樹に携わった男性(69)は「なぜこんな時季に…」と驚きながらも、
うれしそうな様子。通りかかった子どもたちは「見て、見て!」と、大はしゃぎだっ
た。 
(生島章弘)
http://www.chunichi.co.jp/00/ibg/20061026/lcl_____ibg_____003.shtml

Ⅱ 秋に咲いた桜には古代史に有名な話がある。
仁徳天皇の息子で、第17代履中天皇は履中元年(400)に即位し、
都を大阪から、磐余(現在の大和桜井町の近く)に移し、宮殿を新築した。
即位の翌年11月(現在の12月)、宮殿が完成したので、落成式をした。
落成式の余興に、天皇は宮殿の前の池に舟を浮かべて楽しんでいたら、
何処からともなく、桜の花が飛んできて、盃に花びらが舞い落ちたと言う。
天皇は時ならぬ桜の花に吉兆だと喜び,完成した宮殿を「稚櫻宮」と名付けた。
あとで、桜の花が舞い落ちたのは宮殿の建設に従事した役人の一人が
山に咲いていた桜の枝を採ってきたからだと判り、
天皇は桜の枝を採ってきた役人に、「稚櫻部造」という号を賜ったという。
後に「稚櫻部造」は志摩と若狭の国司となったので、
「稚櫻部造」の名前から、若狭の国の名前が生まれたと言われている。

履中天皇は各地に国司を置き、各地の歴史を編纂させた事でも有名な天皇
大阪,堺市にある日本で三番目に大きい古墳に葬られている。
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/017/index.html
http://megasite.cool.ne.jp/Mega/Kodaishi/kodai05/Mozu/Map_Mozu.jpg

天皇の盃に舞い落ちた桜は現在の「十月桜」ではないかと言われている。
前にも書いたが,秋に咲く桜は現在の日本には大きく分けると4種類ほどある。
どの桜の花が天皇の盃に舞い落ちたかのか現在ではわからない。

Ⅲ 晩秋に花を咲かせる桜がある理由
第一の理由は日本の桜の先祖返りである。
日本の桜の先祖はヒマラヤ地方に咲いている桜だと言われている。
ヒマラヤ桜は秋に咲く桜なので、秋に咲く桜が日本に存在しても不思議はない。

「ヒマラヤザクラ」について
幹の直径50cmにもなる落葉高木.
ヒマラヤからインド,中国,タイ北部に分布し,
日本では11月から12月頃まで開花する.
現在、東京大学の構内に咲いている「ヒマラヤザクラ」
 http://www.geocities.jp/ir5o_kjmt/kigi/sakrhima.htm

ネパールのサクラと日本の桜は両国の友好の架け橋
-2006年日本・ネパール国交樹立50周年に思う-
パルーンのサクラ  元東京農業大学教授 染郷 正孝
  http://www.nichine.or.jp/sakura.doc


第二の理由は狂い咲きである。
植物は秋になり、日照時間が短くなると,冬に芽が出ないように、
葉が根元に休眠を促す物質(成長抑制ホルモン)を作る。
その作用で、芽は葉や蕾が翌春まで開かないように休眠する。
害虫に葉を食べられたり、台風で葉を取られてしまうと
葉の成長抑制物質が作られないので、
季節はずれに若葉が出たり、桜の花が咲いてしまう事がある。

私の経験でも、6月、家の桜に「アメリカシロヒトリ」の害虫が発生した事がある。
ちょうど、木に掛けてあった巣箱に「シジュウカラ」の雛が孵っていた時であった。
沢山の毛虫は孵った雛の餌になると思い、殺虫剤を撒かないでいた。
やがて、桜の木は葉を食いつぶされ見事に丸坊主になってしまった。
梅雨が終わる頃、若葉が芽吹いたが何本かの枝に花が咲いた事がある。
又、秋の台風の影響で葉が散った桜の枝にも、
寒い日が続いた11月の末に桜が咲いた事がある。
今年の秋は我が家の桜も、毛虫が大発生したのか?
葉のない枝が沢山ある、今年は11月下旬に花が咲くかもしれない。
                                      
私は履中天皇の盃に舞い落ちた桜の花びらは現在の「十月櫻」「冬桜」ではなく、
宮殿建設の突貫工事の影響で、葉を落とされてしまった桜の枝が
初冬の暖かい日差しのなかで、春がきたと錯覚して,
桜の花を咲かせたのではないだろうかと思っている。
以上


サクラ異変,葉っぱ虫食い丸坊主

2006年10月16日 | 
昨日(10月14日)の朝日新聞の夕刊に
「サクラ異変 葉っぱ虫食い丸坊主 毛虫大発生か」
という記事がありました。
私が東京の桜の木の葉の桜の虫食いに気がついたのは
今年の6月の中旬頃からでした。
自分なりに原因を調べても、
アメリカシロヒトリの毛虫のようではないように思いました。
記事のなかで、葉を落とした原因を
『「ただ葉脈状にしたのはハバチの仲間かもしれません」。』
という文章を見て何となく納得が行きました。
来年の東京の公園の桜は綺麗に咲くか,心配しています。


2006年10月14日
「サクラ異変 葉っぱ虫食い丸坊主 毛虫大発生か」

 都心の街路樹や公園のサクラの木が、落葉を前に次々丸坊主になっている。葉脈だけを網目のように残した葉ばかりがついている木も多い。例年なら10月下旬に散るはずが、今年はいったい何が起きたのか。

 オフィス街にある日比谷公園(東京都千代田区)には、150本以上のサクラの木がある。例年なら10月下旬ごろに散るはずなのに、今年は9月上旬から中旬にかけて、数本が早々と丸坊主に。公園管理所の職員は「あっという間の出来事だった」と驚く。

 異変は、サクラ800本を持つ都立神代植物公園(調布市)でもみられた。パンフレットにも載せているサクラの名木「神代曙」が9月に、丸坊主になった。別の木でも葉脈だけが網目状に残ったサクラの葉が目立つ。

 都道を管理する都建設局によると、練馬区ではこの夏、街路樹のサクラの一部でやはり葉脈だけの葉が目立った。

 「どれも虫食いの被害です。今年は例年より食べられてますね」。立川市の農業試験場内にある都病害虫防除所の担当者沼沢健一さん(55)は言う。

 沼沢さんによると、サクラの葉を食う主な病害虫としては、外来のアメリカシロヒトリ、シャチホコ形に反り返る黒い毛虫モンクロシャチホコが知られている。「この秋、木を丸坊主にしているのはモンクロシャチホコでしょう。ただ葉脈状にしたのはハバチの仲間かもしれません」。ハバチはハチの仲間だが、ミツバチのように刺したりすることはないそうだ。

 日本昆虫協会会長の奥本大三郎・埼玉大教授は「今年は毛虫が多いのでしょうね。その理由は我々にもわかりません」と首をひねる。

 「でも、今年毛虫が大発生すれば、同時に天敵が大発生して来年、毛虫たちはぐんと減ります。自然の摂理です。毛虫が葉っぱを食べるのは自然なことで、そのままにしておけば、来年はきっときれいな花が咲きますよ」
http://www.asahi.com/science/news/TKY200610140201.html

このような私のコメントに対して,知り合いの専門家から
次のような点を指摘して頂きました。
記事にはない問題点
1、自然保護、農薬禁止運動の高まりで公園の樹木に大量の農薬を撒くとを非難される
2、予算削減により,公園の樹木に農薬を撒く回数が少なくなっている。
3、そのためにアメリカシロヒトリなどの虫の被害が増大している。
4、各地の桜並木に「トラカミキリ」という虫が入り込み被害が増大している。

私はこの他に今年の異常な夏の暑さも原因があると思っています。
以上です。

金利の考え方が違いすぎます。

2006年10月15日 | 政治
日本では 大臣も党幹部も貸金業界とズブズブ
今年のノーベル平和賞は小額無担保融資 グラミン銀行

 秋の臨時国会で貸金業規制法改正の行方が注目されているが、
安倍内閣は火ダルマになりそうだ。
閣僚や党三役、幹部が献金漬けなのである。
                 略
甘利は04年の全政連の定時総会に来賓として出席。
業界団体広報誌では「上限金利を引き下げると、
信用度の高い人にしか融資できなくなる。
はじかれた客はヤミ金に行く」などと業界寄りの発言を繰り返してきた。
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2572299/detail

小額無担保融資 グラミン銀行が、ノーベル平和賞  2006年10月14日

今年度のノーベル平和賞はバングラデッシュのグラミン銀行と
創設者・総裁ムハマド・ユヌス氏が受賞した。

グラミン銀行は貧困層相手の小額無担保融資専門銀行である。世界でも最貧国で
あるバングラディシュの庶民金融が受賞した意義は大きい。

グラミン銀行は設立以来9割以上の返済率を維持。
現在は借り手320万人、融資総額42億ドル、返済率98%に達した。
住環境や衣料などから独自に策定した貧困ラインで判断すると
「借り手の46%は貧困層から脱却した」という。(日経アジア賞資料)

富裕国である日本では消費者金融が高利をはんでいるのと対照的である。
(嶋田/東京)
http://www.buyers-agent.or.jp/blog/10141768/

これでは無理

旧大蔵・財務幹部ら23人、消費者金融5社に天下り
朝日新聞  2006年10月15日14時20分
 大手消費者金融5社に、業界を監督していた旧大蔵省と財務省の官僚OB23人が役員や顧問として天下り、うち4社に5人が現在も在籍していることがわかった。旧大蔵省銀行局長や印刷局長など本省の幹部経験者のほか、業界を監督する全国の財務局の元幹部も含まれている。大手消費者金融の関係者は「監督官庁の天下りを受け入れることでパイプをつなぎ、銀行から安定的に融資を引き出せた」と話している。
http://www.asahi.com/national/update/1014/OSK200610140090.html

永井路子「女帝の流れを受けついで」

2006年10月14日 | 文学
先日、永井路子さんの講演会に行って来ました。
永井さんのお話はラジオやテレビで何度も聞いているので、
その語り口は知っていましたが実際に聞いて見ると、
話は大変にうまく、内容もしっかりしています。
時々、冗談を話されるのでラジオやテレビとは違う親しみが感じられ、
永井さんの歴史文学とは違う面白さでありました。

演題「女帝の流れをうけついで」
10月10日(火) 新宿住友ビル7階 朝日カルチャーセンター

奈良時代、道鏡を愛した孝謙(称徳)女帝の死を最後に女帝は永い間消えてしまう。
江戸時代、二人の女帝が出現するが、彼女たちは歴史の主役にはなれなかった。
では女帝が消えてから、日本の女性は政治の場から遠ざけられたのか、
全く無力だったのかと言うと決してそうではない。
母系、双系社会から、平安時代に父系制社会が確立すると、
歴史の表舞台から、女性が姿を消したように考えるが、それは間違いである。
第一に天皇の母としての「国母(こくも)」が歴史に重要な役割を果たした
第二に幼い天皇の養育から成人後の政治・政略に預かる「乳母(めのと)」として、
歴史の表舞台に影響を与え、女の歴史はしっかりと続いていた。
①「国母」の例として、第64代円融天皇に嫁いだ
藤原兼家の娘 詮子(せんし)女御を取り上げた。
皇太后詮子は長兄の関白藤原道隆が死んだ時、
順当なら、道隆の息子伊周(これちか)が関白になるのに、
当代一条天皇の母として、息子に助言、次兄の藤原道長を推薦した。
道長が関白の位に就き、伊周は左遷された。
②第66代一条天皇のお后には藤原道隆の娘、定子と藤原道長の娘、彰子がいた。
皇后定子には清少納言、中宮彰子には紫式部・和泉式部が教育係として仕え、
平安文学が花開いた。
③紫式部は大変な教育ママで、夫藤原宣孝との間にもうけた一人娘を
最初、中宮彰子に仕えさせた。彰子の妹嬉子が親王を生むと乳母を務め、
高階成章と結婚した。25年後、親王が後冷泉天皇に即位すると、
夫高階成章は太宰大弐という大宰府の次官に就任した。
太宰大弐という役職はお金の儲かる職位で、大金持ちになって都に帰ってきた。
以上