1月11日2時22分 呼吸停止2時33分心肺停止 でした。
私事で、申し訳ないですが、今回は、母のことについて、書かせていただきます。
母は、今年のあたり年丑年 1925年5月20日 大正、昭和、平成、令和と生き抜いてきました。幼い時から、貧しい家庭で、苦労して育ちました。 そのことは、叔父、叔母、親戚の皆さんから、いろいろと聞いています。
高知の山奥で、生まれて、物部村大栃というところで、私 そして、兄を生み、昭和60年ごろまで、食料品店を、父と営んでいましたが、田舎にも、スーパーマーケットができ、ダム特需景気も、終わり、父が、叔父のいる、神戸に、移住 1961年。
車のセールスマンをはじめ、私たち家族を呼び寄せました。1962年
それからは、祖母、祖父の面倒を見るために、高知市内に、戻るまでの間は、神戸におりました。
父母たちは、1978年までの16~17年間 神戸にて、私たち兄弟を育ててくれました。その後、父母を見取り、1984年ごろ 今の住まい 香南市に、居を構えました。
すでに、37年目です。
父が旅立ちしたのが、2007年 その時に、私たち夫婦は、拠点をパースから、高知に、移し、その後、13年にわたり、妻が、メインで、私の母の面倒を見てくれていました。
私は、年間、半年ほどは、海外に、おり、高知には、半年、盆と正月に、おりました。
今回、幸運にも、私が、高知にいるときに、母が旅立ち 不幸中の幸いでした。
お別れは、思ったよりも、あっけないものでした。
昨年、5月に、虚血性腸炎を発症して、その時に、CT,MRなどの検査で、腹部に、5~6cmの大動脈瘤があるとことがわかりましたが、95歳の高齢ということもあり、切除する手術は、負担が大きすぎるということで、経過観察にしておりました。
今回は、それが、体の中の炎症が起こり、大動脈瘤の壁が破れ、漏れ出し、主なる原因は、大動脈破裂でした。 夕方、腹痛を訴えて、緊急で、高知市内まで、車で、高知日赤病院に、監査検査で、真夜中ごろまで、そのころは、そのまま入院だと告げられて、11日の朝、改めて、手続きをしに、いらしてくださいと いうことだったのですが、MRをもう一度取りますと告げられて、その数分後、容態が、急変。そのまま、約2時間半後には、旅立ちました。
痛み止めを点滴に入れながら、眠るように、穏やかに、旅立ちました。
95歳のため、また 大動脈瘤のこともあり、ある程度は、覚悟はできておりましたが、思ったよりも、急で、妻も、少しショックでした。
コロナということもあり、家族葬で、12日葬儀は、済ませました。
高知に、来ていただいて バカラのお話をした方々、母と一緒に、庭で、一緒に撮影をされた方々、生前は、いろいろとお世話になりました。
故人の遺志により、すべての お供え物など、ご辞退いたしております。
生前のご厚情を、ここに、故人に代わりまして、厚く、お礼申し上げます。
神道なので、来る十日祭を終えて、五十日祭で、納骨いたします。
私は、大丈夫です。 また、これからの私の予定などは、後日、書きたいと思います。
今日は、母の旅立ちのことについて 書かせていただきました。
今頃は、天後の入り口でまだ、PCR検査を受けて、この世に、自主隔離で、いることと思います。
皆様も、お体、ご自愛ください。
鰹