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遺品を整理中に発見した母の自分史 (そのⅡ)

2012-11-17 06:15:29 | 日記
母が里子に出されていたことは、今回はじめて知りました。

この自分史は、母が81歳の時の作品で88歳で死を迎えるまでこの事実を語ることはありませんでした。
来年は13回忌を迎えます。



いくちゃんの七五三とお雛様②


年が明けて寒さが少しゆるみはじめると、桃の節句が巡ってくる。

いくちゃんは実に見事なお雛様を持っていたのだった。

そのお雛様は大きな茶箱に収納されていて、手狭な家の片隅の天井近くにしっかりとした綱で吊り下げられていた。

まるで欲張り婆さんの重いつづらのようだといくちゃんは思った。

桃の節句にその大きな木箱が引き下ろされる時のうれしさ。

埃を払って蓋をあけると中には整然と桐の小箱が詰まっていて、その中からは目もまばゆいばかりの、お雛さま達がぞくぞくと現れてくる。

お雛道具も何から何までそろっている。
手描きの桜をあしらった金屏風が一双。
雪洞(ボンボリ)が一対。
あたりは置場もないほどだ。

その頃、つまり大正の初め頃は子供が生まれると、その家の親戚・知人らが競って初節句を祝ってくれたものだった。

一組、一組の人形には周囲の人々の愛情がこもっていたのだった。

その当時までは雛人形は京都で作られ、東京の日本橋には雛人形の専門店が軒を並べて、人々は一流品の人形を買いに皆日本橋まで出かけていったものだった。

他人が贈った人形にくらべて退けを取らぬように、下町の職人気質で、借金質に置いても是非上等の人形をと贈ってくれるような、まだまだ江戸っ子の気風が残っていた下町づきあいがあったのだった。

六畳の部屋にお雛壇を飾ると家族が寝られなくなるので、母親の思い付きで箪笥一棹を全部空にして、その抽出しを逆さに差しこんで、そこに緋毛氈をかけて雛段を作りあげた。

そうすると大分場所をとらなくなるのだった。

お雛かざりが出来上がるまでには結構暇がかかったが、いくちゃんが誰にもさせないで自分一人で受け持つのは、お内裏様の一対だった。

その臈たけた男雛の公家風に結いあげた黒髪に冠をかむらせ華奢な白い指に笏を持たせた。

御佩刀(オハカセ)は品よく反りを打って、抜けばすらりと光る細身の刀身の美しさ、いくちゃんは何度抜き放って見たことか。

女雛の豊かな髪にも、玉飾りのピラピラさがった冠をかむらせ、両手の間に桧扇を開いて持たせて五色の飾り糸を指で梳くようにして垂らせ、女雛の気高いお顔を覗きこむのだった。

一対の内裏様はいくちゃんの手にかかってとてもご満足のように見えた。

三人官女、五人囃子、みな品よく美しく可愛かった。

左右の大臣も三人上戸の仕丁たちも、それぞれの風格を持って実によく出来ていた。

稚児姿の五人囃子も上座に笛、鼓、大鼓、太鼓、瑶方などの並ぶ席順もいくちゃんはよく心得ていた。

やはり、祖父が千代田城内でのお能の席ではお笛方をつとめていた、との話などを日頃聞いたことがあったからであろう。

雛壇の下には大壷に菜の花や桃の花を活けて、菱餅・あられ・はぜ・白酒その他なまぐさ物の蛤や栄螺(サザエ)などを供えて、畳二畳分はお雛祭の間中は占領されてしまうのだった。

内心それを一番苦にしていたのはいくちゃんの母親だった。

そんなときにお雛様にも新しい流行が出てきて、御殿付きの小型雛が登場してきたのである。

いくちゃんの母親は一も二もなく新式の御殿雛に買替えることにして、二月中旬のある日、あの大箱ごとそっくり、古道具屋へ売り渡してしまった。

そしてその代金に、いくらか追加して、早速新しい御殿雛一式を買い込んだのである。    
(つづく)

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