1899(明治32)年4月19日、横浜外国人居留地の空は明るく晴れわたり、その一画105番地にあるクライストチャーチの堂内は、水曜日というのに大勢の外国人たちで埋め尽くされていた。
男性陣の黒い正装に混じる婦人たちの色とりどりのドレスと微笑が、春の日差しに華やかさを添える。
今まさに結婚式が始まろうとしているのだ。
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新郎は香港上海銀行に勤務するジョージ・C・マリー氏35歳。
新婦は横浜外国人コミュニティで誰一人知らぬものはない英国人医師ウィーラー氏の一人娘メアリー・ウィーラー嬢。
横浜生まれの彼女は先日24歳の誕生日を迎えたばかりだ。
ウィーラー夫妻への尊敬とその愛娘の美しい花嫁姿への期待から参列者の数はおびただしく、席を得るどころか、堂内に入れただけでも幸運、多くは建物の外で、マリー夫妻とその家族らの姿を待つほかはないというありさまである。
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1863年(文久3年)10月に建てられた教会の内部は、30数年という歳月をそれなりに感じさせるものの、今日、その祭壇にはまばゆいばかりの白い花が生けられ、内陣の仕切りはつややかな緑の葉に覆われ、繊細にあしらわれたピンクの八重桜が、四季に恵まれたこの極東の国の春たけなわを告げていた。
足台、腰掛、窓、ガス燈その他、建物内部にも華燭の典にふさわしいしつらえが施され、見事な鉢植えの植物が入口から内陣まで置かれている。
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2時30分きっかりにオルガンの音が響きわたった。
会衆の目は祭壇に向かうアーウィン師ではなく、堂の入口に集中する。 その中をウィーラー医師が真っ白なドレスに身を包んだメアリーと並んでゆっくり足を進め、やがてその腕は父から夫となる人へと渡される。
アマチュア音楽家でクライストチャーチのオルガニストであるJ. T. グリフィン氏が自ら編んだ快活なオルガン曲に誘われるようにふたりは揃って祭壇へと歩み寄った。
花婿はフロックコートに身を包み、白のタイを帯びた花婿は口ひげを蓄え、堂々とした男ぶり。
花嫁はといえば、ほっそりとした身体をシフォン製の真っ白なシュミゼットと長く裾を引いたサテンのドレスに包み、ベールは軽やかなチュール、わずかに添えられたオレンジの花の彩が、純白の乙女の初々しさをいっそう際立たせている。
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花嫁の付き添い役を務めるのは友人のトマス嬢、ライス嬢、スミス嬢、プール嬢、ジェイムス嬢、モリソン嬢、ミッチェル嬢の7名。
彼女らのドレスは白いシフォンのフリルのついた薄い緑のサテン地で、ドレープを寄せた身ごろとシンプルなスカート、白い羽とシフォンをたっぷりとあしらったレッグホーン・ハットをかぶり、胸には新郎の故国スコットランドを表すアザミと新婦側のそれでそあるアイルランドのシャムロックをかたどった金色の飾りをつけ、白いランと白いバラのシャワーブーケを手にしていた。
さらにスコットランド高原地方の衣装を身に着けた幼い男の子が2人、花嫁に付き添っている。
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花嫁の母であるウィーラー夫人は、細い金糸の縞模様の緑色のサテンのガウンにクリーム色のサテンのシュミゼット、帽子はターコイズブルの縁取りのついた緑色のボンネットという装い。
新郎のベストマンは香港上海銀行横浜支店での同僚のリード氏で、同じく同僚のライアス、フレイザー、マッカーサー、ホールの各氏が付き添い役を務めている。
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ふたりが署名のためにペンをとると、グリフィン氏はオペラ「ローエングリン」から「婚礼の合唱」を厳かに奏でた。
続いてかの有名なメンデルスゾ-ンのウェディングマーチの華やかな旋律が響き渡り、喜びの式典が無事幕を閉じると、新郎新婦とその家族や友人からなる一団は披露宴会場であるブラフ97番地のウィーラー医師宅へと向かった。
新婚旅行先は日光、夫から新妻にエメラルドとダイヤの指輪などが贈られたと当時の新聞は伝えている。
図版:
・写真2点(Peter Dobbs氏所蔵)屋外集合写真の撮影場所はブラフ97番の自宅(現在の横浜市アメリカ山公園)と思われる。なお幕末から明治にかけて活躍した英国人外交官で、この頃、英国公使を務めていたアーネスト・サトウは日記にこの披露宴に出席したと記している。この写真に写っているとすれば、風貌から推して花嫁のすぐ右後ろに見える人物か。
・英国民国外結婚届1628-1969年(UK, Foreign and Overseas Registers of British Subjects, 1628-1969)
参考資料:
・The Japan Weekly Mail, April 22, 1899
・The Kobe Weekly Chronicle, April 26, 1899
・E・サトウ著、長岡・福永訳『アーネスト・サトウ公使日記』(新人物往来社、1991)
・山手聖公会ウェブサイト http://anglican.jp/yamate/