今にして思えば、ヴィクトリア・パブリックスクールに一緒に通っていたころから、彼の心の中に軍人になりたいという気持ちが芽生えていたのかもしれません。
ブラフ97にある彼の家の広い庭で、僕たちは彼のお兄さんのシドニーと一緒に塀の周辺に要塞のようなものを作って、何の罪もない通行人を、まめ鉄砲やパチンコで攻撃したものです。
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かつての学友は横浜居留地出身者初のヴィクトリア十字勲章受勲者であるジョージ・C. ウィーラー少佐の少年時代のやんちゃ坊主ぶりを感慨深げにこう語った。
ブラフ97番地には少佐の父、横浜外国人居留地の医師として古くから親しまれているエドウィン・ウィーラー医師夫妻が今も住んでいる。
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横浜生まれのジョージは山手のパブリックスクールを卒業後、英国に渡り、ベッドフォードスクール、ウーリッジ王立陸軍士官学校、さらにサンドハースト王立陸軍士官学校へと進んだ。
英国陸軍東ヨークシャー連隊に入隊後は、順調に昇進を重ね、勇猛で知られるグルカ兵から成る第37歩兵旅団第9グルカ隊を率いてインドに駐留していた時に、第一次世界大戦が勃発した。
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1916年(大正5年)12月8日、英国軍はメソポタミア(イラク)、クート再占領を目指して攻勢を開始。
敵はオスマン帝国軍約1万である。
1917年2月23日、チグリス河沿岸シュムランにおいて、ウィーラー少佐はグルカ兵9名と共に河を渡り、猛火に阻まれながらも敵の塹壕に突撃した。
かなり離れた土手に足場を得た途端、猛爆撃を受けたが、少佐は直ちに突撃。
その際、銃剣により頭に重傷を負いながらも敵を撃退し、自らの陣地を固めたのである。激戦の末、英国軍はクートを占領し、バグダードを目指してさらに進撃を続けた。
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この並はずれた勇敢な行為によって、ウィーラー少佐は英国及び英連邦国の軍人に与えられる最も名誉ある勲章、ヴィクトリア十字勲章の栄誉に輝くこととなったのである。
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翌々年3月17日、少佐は半年間の休暇を利用して妻子と共に、懐かしい両親と妹メアリーの待つ横浜に戻ってきた。
前年、香港上海銀行厦門支店に勤めていた長男シドニーを肺炎のため失った一家にとって、この再会はいっそうしみじみとした、心癒すものとなったことであろう。
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彼の帰郷を喜んだのは家族や友人ばかりではない。
それどころか地元の英国人協会はこの英雄のために叙勲祝賀会を大々的に催したのである。
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1919年(大正8)4月23日、春らしいの日差しに恵まれた水曜日、ブラフの社交場であるゲーテ座の賑わいは、横浜居留地の英国人コミュニティがそのまま移動して来たかのようであった。
セント・ジョージの日のしきたりに従い、人々の襟には赤いバラが飾られている。
東京から訪れたアルストン英国代理公使、駐在武官ウッドラフ准将、シャルマース英国総領事、ホーン英国大使館商務官などそうそうたる顔ぶれが、彼らにこの集いをいっそう誇らしいものに感じさせていた。
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午後4時、いよいよ祝賀会の始まりである。
壇上、左右に英国旗、中央にウィーラー家の故郷・アイルランドの旗が広がり、その鮮やかな緑の地にはウィーラー一族の忠誠を表す王冠、その下にトマス・ムーアの「かつてタラの広間に竪琴は」という詩句が金色で描かれている。
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ボーイスカウトとガールスカウトによる儀仗に続き、名誉ある招待客であるウィーラー一家が壇上に姿を見せた。
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式は極めて手短に行われた。
英国人協会会長R. T. ライト氏がウィーラー 少佐のヴィクトリア勲章受章に至った功績を紹介し、「勲章は、この横浜に生まれ、横浜を故郷とする青年に与えられるのです」と述べると、人々の中から大きな歓声が湧きあがった。
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「英国人コミュニティの名において、尊敬と、横浜の英国人としての誇らしさのささやかなしるしとして」と刻まれた金製のシガレットケースが贈呈されると、ウィーラー少佐は横浜の友人たちの心のこもったプレゼントとライト氏の祝辞に対して言葉少なに感謝を述べた。
それは、自分は義務を果たしただけであり、前線に長くとどまれず、それ以上のことができなかったことを残念に思うという、とごく控えめな言葉で締めくくられた。
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英国国歌「ゴッド・セイヴ・キング」が流れ、一同、高らかに歌い上げると、式は終わりラウンジでの楽しいティータイムとなった。
小さなテーブルのそれぞれに、バラ色のランタンと、クジャクシダをあしらったピンクのバラ、つつじ、チューリップの花を活けた真鍮の背の高い花瓶が飾られ、婦人方が全員で用意したおいしそうなお菓子が良い香りを漂わせている。
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ギャラリーではバンド演奏に乗せてダンスが始まり、1時間ばかり踊りを楽しんだ後、ウィーラー医師夫妻のための乾杯で歓びの宴は締めくくられた。
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両親のもとでくつろいだ日々を過ごしたのち、5月16日に少佐は横浜を後にした。
バッキンガム宮殿にて国王ジョージ5世より勲章を授けられるべく家族と共に旅立ったのである。
写真左から:
・エドウィン・ウィーラー The Japan Gazette, July 15, 1922
・ジョージ・ウィーラー The Japan Gazette, April 24, 1919
・ジョージの息子 The Japan Gazette, April 26, 1919
参考資料:
・The Japan Gazette, Sep. 1, 1917
・The Japan Gazette, April 24, 26, 1919
・The Japan Gazette, May 17, 1919