横浜・元町から谷戸坂を上がり山手本通りを歩いていくと、外国人墓地の入口を過ぎたあたりで、大きなヒマラヤ杉の枝の合間に英国風の石造りの聖堂が見えてくる。
山手聖公会である。
関東大震災以前、この教会は近隣に住まう英国人たちからクライストチャーチとして親しまれていた。当時はひときわ高い鐘楼が目を引くレンガ造りの建物であった。
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1922年(大正11年)7月15日土曜日の午後。
薄い雲が初夏の日差しを遮るあいにくの空模様だが、クライストチャーチの教区民室に集まった人々は一様にお祝いの雰囲気に包まれていた。
主役のエドウィン・ウィーラー医師もまた、トレードマークの豊かな頬髯をなでながら目を細めていたのではないだろうか。
これから彼の80歳の誕生祝いが開かれるのだ。
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北アイルランド出身で、1869年英国海軍付きの医師として来日し、1876年(明治9年)横浜外国人居留地97番地に居を構え、1879年(同11年)7月からは山手82番地のゼネラルホスピタルに勤務。今も首席医師として現役で働いている。
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40数年間、一度もこの地を離れることなく、急病人が出れば夜中でも往診し、愛する者を失い悲嘆に暮れる人には温かい言葉をかけてきた。
来日以前イタリア独立戦争に身を投じたという武勇伝もあり、若い頃はスポーツマンで、火事や事故などの緊急時には真っ先に駆けつけ人命を救助した。
懇親会では滑稽な歌を披露するという愛すべき一面を持つ一方、人望厚く、横浜のクリケットや競馬のクラブの代表を歴任。
故国を離れ、文化も習慣も全く異なる極東の地に暮らす人々にとって誠に心強い存在であり、誰もが彼に親しみと深い尊敬の念をいだいている。
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会の冒頭、古くからの友人、ゼネラルホスピタルの役員で食品輸入商のモーリス・ラッセル氏による祝辞に続き、「ドクターの赤ん坊」―その数500人は下らないと言われるドクターが取り上げた子どもたち―からのプレゼントが贈呈された。
この日集まった1歳から40歳までの「赤ん坊」の中で最年少と最年長の二人(フランシス・ヴァージニア・ネルソン嬢とJ. E. モス氏)が代表して「W」のモノグラム入りの銀製カクテルシェーカーセットを披露した。
そのトレーには「80歳の誕生日を迎えたドクター ウィーラーへ 彼の赤ん坊たちより 1922年7月15日」と刻まれている。
今もクラブで昼下がりのシェリー酒1杯を欠かさない彼にぴったりの贈り物に、ドクターは心からの感謝を述べた。
私もようやく大人になり、分別ある年齢に達しました(笑)―そして今日この日、このように多くの友人たちに囲まれてとても幸せです。
ラッセル氏の発声による三度の乾杯のあと、いつもの祝いの歌“彼はいいやつだ”が教区民室に高らかに響きわたった。
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1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により横浜は壊滅的な被害を受け、居留地の歴史とともに年を重ねたウィーラー医師の生涯もそこで幕を閉じる。
その約1年前、故国を遠く離れ異郷の地に暮らす人々の、心和む一日のことであった。
図版:
・(トップ)手彩色絵葉書
・エドウィン・ウィーラー肖像(The Japan Gazette, July 15, 1922)
参考資料:
・The Japan Gazette, July 15, 1922
・『横浜貿易新報』1912年7月17日