真実に対し勇敢に真摯に向き合うべきである。
重大な事実を覆い隠すことからは何も得られない。
そしてその事実とは、私たちと同じ空気を呼吸している人々の間で恐ろしい感染が起きており、彼らが私たちのドアの間近に住んでいるということである。
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1877(明治10)年9月19日付のジャパンガゼット紙はコレラ流行の兆しをこのように伝えた。
「同じ空気を呼吸している人々」とは横浜に住む日本人のこと。
彼らの中で発生したコレラはすでに外国人居留地の間近に迫っていると警告したのである。
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海外から人々や物資が盛んに出入りする横浜は、常に疫病流行のリスクを抱えていたが、1863年(文久3年)以降大きなコレラの流行はなかった。
その後15年近くを経て清国で発生したコレラがいよいよ横浜に上陸したのである。
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日本人の間で最初の患者が出たのは9月5日。
居留地3番地のウォルシュ・ホール製茶会社の工場で働く女性であった。
厦門から輸入した商品が感染源と推測されている。
同じ工場の女性13名が次々と発病し、その後、戸部、伊勢山、桜木町へと感染が広がっていった。
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当時はまだ避病院がなく、神奈川県が管理する野毛の十全病院がコレラ患者を引き受けることとなった。
腹痛や下痢を訴える患者が1日に7、8百人が詰めかけたこともあったという。
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十全病院で治療の指揮を執ったのはアメリカ人医師シモンズ。
1859年に来日したシモンズは1863年のコレラ流行の際の経験を生かして対策を講じることを期待されていた。
シモンズ
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外国人居留地ではコレラ患者は出ていなかったが、横浜で疫病の発生が明らかになったことを受けて、5名の外国人医師が自発的に居留地内の衛生状況について調査し、一部の地域が危険な状態にあることを外国領事達に報告した。
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医師らの報告を受けた領事たちは、9月18日火曜日の夕方、居留地(バンド)172番地のジャーマン・クラブに集まり、疫病流行に対する最善の防止策について検討した。
対策チームとして組織された健康保安局のメンバーにはシモンズ医師をはじめ、外国人対象の病院であるゼネラルホスピタル(ブラフ82番地)のエルドリッジ、横浜司薬局のヘールツ、ともに開業医のウィーラー、トライプラーの各医師が指名され、彼等は無報酬でこの大役を引き受けた。
ウィーラー
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本来、感染症対策は居留地を含め神奈川県庁の責務であったが、外国人たちは県にその力がないと考えたため、居留地内の対策は各国領事団の判断にゆだねられたのである。
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健康保安局には外国人居留地のすべての家屋に立ち入って視察し、衛生対策が必要と思われるケースがあれば適宜領事に報告する権限が与えられた。
翌19日の午前中に行われた会合において、シモンズ医師が議長に、エルドリッジ医師が書記に選出された。
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健康保安局には9月20日までにゼネラルホスピタルのフランス人医師マッセ、米国人宣教医ヘボン、米国人医師ランサムのほか、米国海軍病院のコール、英国海軍病院のランバートの5名の医療関係者が加わった。(当時山手には英米独それぞれの海軍病院があったが、通常一般人の患者を受け入れていなかった)
ヘボン
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医師以外にもブラント、アーレン、フォン・フィッシャー、デグロンの各氏が参加し、総勢14名となった。
局員らは毎日会合を開いてコレラ対策を着実に進めていった。
(後に業務が組織的に整理されると会合は一日おきとなる)
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9月17日付のジャパンガゼット紙には、健康保安局書記エルドリッジ医師による感染防止のための注意喚起の記事が掲載された。
内容は極めて具体的である。
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誰でも実行可能な感染拡大防止のための注意点について以下に簡潔に述べる。
1.各人の屋敷内を徹底的に清掃すること。溜まった汚物廃棄物を取り去り、これらを覆い隠している植物があればすべて刈り取る。すべての排水溝、下水溝、汚水溜めは中の汚物を取り除く前に以下の方法で消毒したのち徹底的に清掃する。取り除かれた汚物は可能であれば焼灼すべきである。やり方は簡単で費用もわずかなものである。もしこれが現実的でない場合の次善の策として、汚物を湾内の岸からある程度離れた沖に廃棄する。
2.すべての汚水溜めと便所を毎日徹底的に清掃すること。
3.井戸及びその他の水の供給路に路面の排水溝や下水溝や汚水溜めからの流れを受ける恐れがないようにする。このあたりの土壌は水がしみやすく、排水が地中深く、遠くまでしみ通ることを忘れてはならない。この状況下ではろ過した雨水が疑いなく最良のものであるが、それもまた他の水と同様、飲用する前に徹底的に煮沸しなくてはならない。
4.完璧に健康的で適切な食事は常に差し支えない。健康維持のための通常の規則にかなうものであれば、コレラの流行時だからといって生活習慣を極端もしくは急激に変えてはならない。完熟した新鮮な果物は適切な量であれば有害ではない。新鮮で一般的に健康によい野菜も同様だが、サラダその他生で食することを除く。なぜなら日本の農業で用いられる物質や方法は生野菜をコレラ感染の活動性キャリアにしやすいからである。
5. 一家のひとりひとりが清潔を心がけ、家屋、厩、すべての所有する建物の換気を徹底すること。
6. 消毒のためには特に石炭酸を利用すること。消毒用の酸を3対100の割合で水に薄め、液体用のポットを使って必要な時に使用すること。十分行き渡る量をたっぷり使用すること。亜硫酸溶液はどこの薬屋でもいつでも安価で売られており、消毒液として望ましいものであるが、混じりけのもないものを用いらねばならない。それらに続く消毒液としては、クロラルム、塩化亜鉛(バーネット液)、硫酸鉄、さらし粉、石灰であるが、それらがない場合は、一般の消毒薬を大量に用いること。
7.多くの場合コレラの初期症状に下痢が見られる一方、すべての感染において、多くのケースで下痢が伴うため、このような症状が見られた場合、感染の可能性を強く疑い、直ちに治療しなくてはならない。これは必須である。なぜならコレラ流行化下において、下痢はたとえ軽症であっても深刻な症状の兆候もしくは、さらなる感染拡大の引き金となるかもしれないからである。その場合、極めて深刻で致命的な病状をもたらすという最悪の事態もありうる。このよう観点から、屋敷で雇っている日本人や中国人が彼らの不潔な習慣もしくは下痢やコレラの兆候を隠すというような無益な用心をしないよう見張らなくてはならない。
8.いかなる家においても下痢もしくは確実にコレラだとわかる症状が見られた場合には、患者の排泄物はすべて濃い(5~10%)炭素水またはその他の消毒薬の入った容器に入れなければならない。その後可能であれば濃厚な酸もしくは火で処理する。また患者が使用または接触特に排泄物のついた衣類や寝具は洗濯の前に徹底的に消毒しなくてはならない。その方法は、煮沸もしくはコールタール溶液もしくは亜硫酸に浸すか、さらしてから密閉した箱の中で硫黄を燃やした煙にひたすか、華氏250度を超える温度のオーブンで焼く。これらの用心は必要なものであり、汚染された布1枚が、洗濯に携わった人だけでなく、洗浄の際に触れた他の選択ものをも汚染するかもしれないからである。以上に述べた方法は、医師の到着を待たずできる限り迅速に行う必要がある。
適切に指名され、知識を備えた健康保安局もしくは施設委員会が活動する際、一人一人がよき市民として委員会からの命令や要望の実行に極力協力しなければならないことは言うまでもない。
医学博士 スチュアート・エルドリッジ
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健康保安局が結成されてから間もない9月25日、外国人の最初の死者が報告された。
地元民の町の一角に住んでいたジョーダンという船長で、罹患した翌日に亡くなった。
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その4日後の9月29日、本町通りに住む夫婦の妻が発病し2、3時間のうちに命を落とした。
感染をもたらしたのは通いで働いていた日本人の使用人だった。
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コレラは患者の治療に当たっていた医師をも襲う。
10月7日日曜の昼頃、健康保安局のメンバーであるマッセ医師の体調に異変が起こった。
エルドリッジ、ヘールツ、シモンズ、ウィーラー医師らが二人ずつ交代で病床に付き添ったが、10月9日早朝、マッセ医師は遂に帰らぬ人となった。
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外国人居留地においても猛威を振るうかと思われたコレラ感染は11月の中旬になって終息した。
結果的に当時の外国人居留民の人口約2400名のうち、感染者12名そのうち死者は4名。
一方、居留地を除く横浜の感染者は1,128名で、そのうち635名が亡くなっている。
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同僚の死という尊い犠牲を払いながらも、コレラと戦った健康保安局の医師たち。
10月10日付の仏語新聞エコー・デュ・ジャポン紙は、感染の危機を冒して公共の福祉に献身し、尊い命を落とした同胞の死を悼むとともに、患者から一瞬たりとも目を離すことなく、最後まであらゆる手を尽くした医師ら4名の名を挙げて謝意を示した。
彼らの献身的な働きは居留地の人々にとってまさに尊敬と感謝に値するものであった。
図版:
・Charles Wirgman, The Japan Punch, Octover, 1887
・シモンズ肖像写真(筆者蔵)
・ウィーラー肖像写真(ピーター・ドッズ氏蔵)
・ヘボン肖像写真(筆者蔵)
参考資料:
・The Japan Gazette, Sep.17, 1877
・The Japan Gazette, Sep.19, 1877
・The Japan Gazette, Oct.11, 1877
・L’Echo du Japon, Oct.10,1877
・D.B. Simmons, Cholera Epidemics in Japan, 1879(https://books.google.co.jp/books?id=bwg1AQAAMAAJ&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false)
・『横濱毎日新聞』明治10年9月19日
・大滝紀雄「神奈川のコレラ」(『日本医史学雑誌第』38巻1号 平成4年1月30日所収)
・市川智生「近代日本の開港場における伝染病流行と外国人居留地」(『史学雑誌』117巻6号 2008年6月)