1882(明治15)年7月14日金曜日、横浜居留地の海岸通り20番地のグランドホテルはフランス国民祭(日本では後に「パリ祭」と呼ばれる)を祝う約80名の着飾った紳士淑女らで賑わっていた。
その大半はいうまでもなくフランス共和国民である。
当時フランスは第三共和政の時代であり、フランス国民祭は2年前に祝日として制定された共和国最大の祝祭であった。
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その頃、横浜居留地の欧米人人口のうち約半数を英国人が占めていた。
1883年の神奈川県横浜居留地国別人口統計を見ると、英国618名、米国255名、ドイツ161名、フランス118名。
清国を除く外国人1,358名のうちおよそ45パーセントを英国勢が占めており、フランス国民はわずか9%に過ぎなかった。
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しかし、本日この場においては、女王陛下に膝まずくジェントルマンではなく、「自由・平等・博愛」の理想を高く掲げるシトワイヤン・シトワイエンヌ(市民)が主役である。
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人々の笑いさざめく声につつまれたディナーの後、駐日フランス公使アルチュール・トリクー氏が杯を手にして立ち上がった。
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わが共和国の建国を祝う祝典にこのように多くの同胞が集うことは誠に喜ばしく、この場において司会を務める栄誉を与えられたことに謝意を示します。
ここにいる全員を代表して愛国心を表明できることを誇りに思い、遠く離れたこの極東の地において、皆が心を一つにして故国のために身を捧げることを希望します。
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公使はこのように述べると、ジュール・グレヴィ大統領の健康を祝して杯を掲げた。
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次にこの催しの委員を務める建築家、ポール・サルダ氏がトリクー公使の健康を祝して乾杯の音頭を取った。
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続いて現れた米国総領事トーマス・ヴァン・ビューラン氏の来賓の挨拶は、居留地の共通語、すなわち英語で行われた。
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公使及び紳士諸君、貴国の言葉でお話しできないことは痛恨の極みであります。
私がフランス語で話しても皆様は理解できないでしょうし、先ず私自身が理解できません。(笑)
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この素晴らしき饗宴、日本の地におけるフランス人諸君の熱情に溢れた集まりにおいて、フランス共和国の存在とフランス人民の平和と繁栄を互いに歓呼のうちに迎えるための集まりにおいて、私から簡単なサクソン語(古英語)でお祝いを述べさせていただきたい。
また、この場において司会者を務める極めて優れた紳士、貴国公使が皆様と共にあることと、(大歓声)フランス領事の職責を見事に務めている私の貴重な同僚が賓客のうちにいることについて祝意をおくります。
そして皆様が毎年この素晴らしい祭典を催し、記念日の回を増すごとに人数を増し、愛国心がますます熱情を帯びること(もしその余地があればですが)をお祝いします。
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とりわけ喜ばしく思うのは、年を追うごとに皆様の政府が安定性を増していることです。
共和政は単に生み出されただけではなく、生きているのです。
打ち立てられているのです。(大歓声)
その木はフランスの地に深く根を張り、枝は力強く広がってゆきます。
季節が巡るごとに。
森の中のオークの木のように、それは生長し、広がっていきます。
何世紀もかけて。
いかなる嵐に見舞われても、公平公正なる法を宝冠としてフランス人民の繁栄と幸福を守るのです。(長い歓声)
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共和国たるフランス人民に祝意を贈る権利において、太平洋を挟んだ偉大なる共和国の人民を超える者などいるでしょうか。
米国人はフランス人民のやさしい思い出を大切にしています。
我が国が存続と自由のために戦っていた時、同情のみならず、価値ある援助を与えてくれたのはフランスでした。
フランス人が私どもの国で生命を賭し、我われのために資金を投じてくれたのです。
それゆえ私たち米国人はあなた方と熱い握手を交わすでしょう、このフランス国民の記念日に、そしてあなた方に心からの思いを伝えます。
自由と繁栄が続きますように、あなた方の愛する広大な領土の隅々に至るまで。
三色旗を掲げる人々にとって、星と縞模様を関連付けるのは自然なことです。
なぜなら赤、白、そして日本の美しい空の青、それらを日本の星の天蓋の中にちりばめるためだからです。
神よ、フランスを祝福し給え―フランス共和国を、フランス国民を。(大歓声)
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自由、友よ、このことばは往々にして誤って理解されています―きわめて頻繁に不正に乱用されています。
私は、いかなる政府をも批判する意図は持っておりませんが、真の貴い意味における自由というものが、この地上で勢力を増していることを祝いたいのです。
法によって認められ、保護され、見守られている自由。
この驚異的な進歩の時代において、コミュニケーション手段は驚くべき発展を遂げつつあり、地上の人びとは互いに融合し、学び合っています。
私は神に感謝します。
真の自由、すなわち人類すべての権利を抱合する自由というものが成長し、強化され、世界に広がりつつあることを。
紳士諸君、フランス国家と「美しきフランス」の国民の皆様のために盃を捧げます。
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ビューラン氏が盛んな拍手喝さいのうちに挨拶を終わると、フランス領事がその心のこもった言葉に対し心から感謝の意を表した。
領事はまたこの祝典に米国人コミュニティーの第一人者を招待したことについて委員会に謝意を示すとともに、このことは二つの偉大な共和国の市民の心が通じ合っていることを十分に証明するものであると述べた。
次に領事はトリクー公使に対し、祝宴の司会を務めることに同意してくれたことについて出席者を代表して感謝を伝え、フランス共和国代表の健康とフランス人の一致団結、さらに米仏両共和国の団結を祝して杯を掲げた。
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場が大いに盛り上がる中、サルダ氏が再び現れて今度は外国人出席者の健康を祝して乾杯の音頭を取ると、それを受けてオランダ人医師ヘールツ氏が返盃を呼び掛けた。
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その後、天皇陛下の健康をはじめ祝意を表す杯がいくつも重ねられた。
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港を望む屋外会場は美しく整えられ、イルミネーションの輝きが華やかさを添えていた。
花火は横浜でこれまでに見られた中では最高と思われる素晴らしさであった。
短い間隔で次々と打ち上げられ、ひとつひとつが変化に富んでおり、同じものが続いてうんざりするというようなことはなかった。
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3年前に正式に制定されたフランス国歌、ラ・マルセイエーズが高々と響き渡り、いくたびか繰り返されたのち、ダンス好きのためにカドリール、ワルツ、ショティッシュ、ポルカが演奏された。
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深夜、ついに提灯の火は燃え尽き、バンドの疲れも明らかとなった。
最後までダンスに興じていた人々もいつしか地に伏して、祝祭の日はようやくその幕を閉じたのである。
図版:Charles Wirgman, The Japan Punch, July, 1882
・(トップ)「フランス国家の祭り/アメリカ共和国/フランス共和国風の」(仮訳) *画中、左側の熱弁をふるっている人物が米国総領事トーマス・ヴァン・ビューレンと思われる。
・「7月14日の祝祭/著名な画家であるヴェラスケス・ジゴ(羊腿肉)は/彼の有名な豚を描いた/装飾のために。メニューをご覧ください。(台詞)こりゃ面白い」(仮訳)
参考資料:
・The Japan Gazette, July 24, 1882
・太政官 公文別録「神奈川県ノ部外国人関係ノ件」(『甲部地方巡察使復命書』明治十六年 第八巻)
・川崎 晴朗「明治時代の東京にあった外国公館(3) 」(『外務省調査月報No.1』2013所収)