On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■日本ラグビー史上に残る一戦! YC&AC対慶應義塾

2023-04-26 | ある日、ブラフで

JR根岸線を山手駅で降りて10分ほど坂を上った住宅地の一角に、広い駐車場を備えた低層の白い建物が見えてくる。

ヨコハマカントリー&アスレチッククラブ-通称YC&AC。

今も英語が公用語というこのスポーツクラブの歴史は古く、明治初年に英国人居留民らによって今の横浜公園のあたりに設立されたヨコハマクリケットクラブにさかのぼる。

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1900年頃にはヨコハマクリケット&アスレチッククラブ(YC&AC)へと名称を改めた。

英国人のみならず他の外国人も加わってクリケット以外の野球、ラグビー、陸上競技などを共にプレイするようになった。

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1887年にブラフ(山手町)にヴィクトリア・パブリックスクールが開校すると、クラブは生徒たちにグラウンドを貸すようになる。

そこでクリケットや陸上競技で競い在った少年たちの多くが卒業後、会員として慣れ親しんだグラウンドに戻り、幼馴染やご近所同士といった気の置けない仲間たちとスポーツを楽しんだ。

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当時の新聞はクラブのメンバーがプレイした様々な試合のようすを頻繁に伝えている。

「ヨコハマボーイ(横浜生まれの外国人子弟)」対「それ以外」、「独身者」対「妻帯者」、「パブリックスクール卒業生」対「それ以外」といった条件を設けてチームに分かれて対戦した。

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1901年12月7日。

この日行われたラグビー試合のチームは異例の顔ぶれだった。

YC&ACに挑むのは東京からやってきたから慶應義塾の選手ら。

すなわち日本ラグビー史上初の日本人チーム対外国人チームの対決である。

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慶應チームを率いるのは、同校で教鞭をとるE. B. クラーク。

冬の間何もすることがないように見えた三田の学生たちに英国のスポーツであるラグビーを紹介した人物である。

クラークに頼まれてチーム育成に力を注いだ田中銀之助もメンバーとして参加。

クラークと銀之助はヴィクトリア・パブリックスクールで首席を争った秀才同士、その後それぞれケンブリッジ大学に進み、帰国後はYC&ACのメンバーとなっていた。

写真上より E. B. クラーク、田中銀之助

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迎え撃つ外国人チームの選手のうち少なくとも4名もまたヴィクトリア・パブリックスクール出身者である。

シドニー・ウィーラーの父はゼネラル・ホスピタルに勤務する医師エドウィン・ウィーラー。

ジョージ・オールコックは生糸検査人の、ジョアン・ドゥラムンドは日本郵船の船員であった。

(残る1名モスは兄弟が多いためファースト・ネームが特定できない。父の職業も不明)

シドニー・ウィーラー

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さてこの日本ラグビー史上に残る対決はどのようなものであったのか。

『慶應義塾体育会蹴球部百年史』に詳しいので引用する。

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キックオフ=慶應

レフリー=J. H. バスゲート氏

試合の得点表記は当時の得点方式による

[前半]

① 開始早々モスがトライ。スチュアートのコンバートは失敗。(Y:3 慶:0)

② 続いてウィーラーがトライ。スチュアート再びゴールに失敗。(Y:3 慶:0)

③ ドゥラムモンドがトライ。 自らコンバートに成功。(Y:5 慶:0)

④ ドゥラムモンドが再度トライ。ゴールを決める。(Y:5 慶:0)

⑤ キルビーがトライ。ドゥラムモンドのコンバートならず。(Y:3 慶:0)

⑥ 慶應が1トライ(塩田賢次郎)を返す。クラークのゴール成功。(Y:0 慶:5)

前半;T:3、G:2=(Y:19 慶:5)

[後半]

① ドゥラムモンドが3本目のトライ。スチュアートのゴール成功。(Y:5 慶:0)

② ウィーラーがトライ。 再びスチュアートがコンバートに成功。(Y:5 慶:0)

③ クロフォードがトライするもキックに対して販促のコール。(Y:3 慶:0)

④ クロウがトライ。クロフォードのゴールキック外れる。(Y:3 慶:0)

⑤ オールコックがトライ。スチュアートのコンバートは失敗。(Y:3 慶:0)

⑥ 再びオールコックがトライしたが、スチュアートがゴール失敗。(Y:3 慶:0)

後半;T:4、G:2=(Y:22 慶:0)

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この後、両チーム話し合いのうえで日本人と外国人を半々に分けて混合チームで対戦することとなった。

残念ながら日本人対外国人では勝負にならなかったということである。

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慶應チームのメンバーは、クラークと田中を除いて全員が普通の靴を履いてプレイしたため、頻繁に足を滑らせ思うように動けなかったことが災いした。

しかし決定的な敗因は体格と体力の差であった。

試合についての新聞記事は、日本人チームは試合運びの知識も勇敢さも持ち合わせていたとしているが、それをもってしても身体能力の違いは遺憾ともしがたかったのである。

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さて試合を終えて東京に戻る汽車の中、ラグビー発祥の国の人々との圧倒的な力の差を思い知らされた日本の若人らの胸中やいかに。

悄然として言葉もなかったかと思いきや、いつの日かの雪辱を期して次のような決議をおこなったという。

すなわち"現在の踵をついてしゃがむやり方は足の成長を妨げる傾向があるので、将来の世代のために、我々が結婚して父親になったら、妻や子供には椅子に座るように主張する"と。

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その後、慶應義塾ラガーマンたちはいよいよ練習に励み、YC&ACに挑み続けた。

そしてついにYC&ACに勝利を収めたのは初戦から約7年を経た1908年11月14日のことであった。

 

図版
・YC&ACグラウンド 手彩色絵葉書(筆者蔵)
・田中銀之助肖像写真(Wikipediaより転載)
・E. B. クラーク肖像写真(京大英文學研究會『Albion』第二巻第一号 昭和9年)
・シドニー・ウィーラー肖像写真 (ピーター・ドブズ氏所蔵)

参考資料
The Japan Weekly Mail, Dec. 14, 1901
The Japan Gazette, Nov. 1, 1904
・『慶応義塾体育会蹴球部六十年史』(昭和33年)
・慶應義塾体育会蹴球部黒黄会編『慶應義塾体育会蹴球部百年史』(慶應義塾大学出版会2000年)


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