ハーバート・アームストロング・プールは1877年、父オーティス・オーガストス・プール、母エリノア・イザベラ・プールの長男としてアメリカ・シカゴに生まれた。
茶の輸入商社に勤めていた父が一家で日本に移住することを決意したため、1888年、両親と妹エリノア、弟マンチェスターとともに来日し、横浜山手で生活を始めた。
後年、米国に帰国したハーバートが横浜の思い出を著した手記の一部を以下に紹介する。
なお題名は、弟オーティス・マンチェスター・プールが出版した関東大震災の体験記『古き横浜の壊滅』にちなんで筆者が仮に付したものである。
*写真は1897年、ハーバート20歳の頃に撮影
(本稿にはハーバートの記憶違い等から事実と異なる記述も含まれていると思われますので、その旨ご承知おきください。またカッコ書きは筆者によるものです。)
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私が10歳になる6か月前に、父は日本に移住することを決心しました。
その前の2年間、父は1年のうち7か月の間中国と日本に滞在し、残りの5か月間は茶の注文取りのために米国内を旅行していました。
私たちと一緒に過ごせたせたのはクリスマスの2週間だけだったのです。
そこで父はシカゴの家を売り、荷物をまとめて家族全員で横浜に移ることにしました。
1888年4月のことです。
今でも時々、あの時シカゴに残っていたらどんな人生を送っていただろうと思うことがあります。
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私たちはオマハを経由してサンタフェ鉄道でサンフランシスコに向かいました。
振り返ってみると、客車、寝台車、食堂車は当時からほとんど変わってないようですが、速度と照明は別です。
その頃の照明はピンチガスを用いていました。
サンフランシスコに到着し、パレスホテルに宿をとるまですべてが順調に進みました。
古いホテルで中庭があり、そこに車が入れるようになっていました。
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あと5日で出航というときに弟のチェスター(マンチェスターの愛称)が猩紅熱にかかりました。
そこで弟と母親は留まって、私たちよりひと月遅れて「ゲーリック号」に乗船することになったのです。
父とエリノアと私はメトカルフ氏が船長を務める「オセアニック号」で出航しました。
ホワイトスターラインからパシフィックメールスチームシップ社によってチャーターされた約3千トンのスクリュースチールボートです。
乗客は約90人で、船には石油ランプが備えられていました。
唯一のラウンジは下のダイニングサロンの吹き抜けを取り囲む楕円形の狭い通路でした。
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4本のマストに張られた四角い帆は順風を孕み、船は驚くべき速さでのめるようにして進み続けました。
船は横浜に直行し、16日間で到着しました。
当時、ホノルルは米国に属しておらず、立ち寄ったのは4人に1人ぐらいのものでした。
これらの汽船には冷蔵装置がなく、牛や豚、羊、鶏が前甲板で屠殺されていました。
私たちはそれをこわごわ見守ったものです。
食堂の各テーブルに航海士がつき、目の前の大皿から私たちに取り分けてくれました。
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スクリューの代わりに外輪のみがついたボートではなく「オセアニック号」で航海できたのは幸運なことでした。
海が荒れると、そのような小さな汽船は航海に十分な量の石炭を運ぶことができず、横浜にたどり着くために、時には小屋や木製品を大量に燃やしたり、小笠原諸島に立ち寄って石炭を手に入れたりしなければならなかったのです。
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グランドホテル
横浜には埠頭も桟橋もなかったので客はサンパン(平底の船)に乗り換えて上陸しました。
グランドホテルに数週間滞在した後、ブラフ89番地に住居を構えました。
その家にはその後30年間住みましたが、1923年の大地震で倒壊しました。
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バンガロー風の家屋(プール家ではありません)
家は木造のバンガロー(建物の周囲にベランダを巡らせた木造家屋)で、応接間と食堂のほかに寝室が4つありました。
バスルームがひとつありましたが、水道は通っていませんでした。
居留地には水道が設置されていましたが、ブラフにまで拡張されるのはその10年後のことです。
父は屋外にふたつ浴槽を備えた小屋を建てました。
水はすべて100フィートの深さの井戸からくみ上げていました。
飲料水は、居留地の水道からバケツに入れて運んでいました。
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照明には灯油ランプが使われていましたが、1900年頃にガスが導入され、その数年後には電灯が設置されました。
地震が頻繁に起こり、部屋の隅の壁紙にはいつもひびが入っていました。
二部屋を除いて全室に暖炉がありました。
横浜は冬でも温暖で氷点下になることはめったになかったのでそれで十分暖かく過ごすことができました。
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谷戸坂をブラフへ向かう人力車。急勾配を上がるために人が後押ししている
ブラフの道は2マイルほどで、丘の尾根に沿って曲がりくねっており、外国風の家が立ち並んでいました。
日本家屋はありませんでした。
一部の住民は馬車を持っていましたが、通常の交通手段はリキシャ(人力車)でした。
居留地に続くすべての道路に人力車のたまり場がありました。
居留地への道は急勾配の上り坂だったため「アトシ(後押し)」が必要で、1回押すごとに5銭でした。
居留地内ならどこへでも1回わずか10銭払えばリキシャで行けました。
車夫は驚くべき速度で丘をかけぬけ、振り落とされることもしょっちゅうでしたが、怪我をした人はいませんでした。
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横浜は素晴らしいまちでした。
75マイル向こうにそびえたつ標高12,365フィートの富士山を、どこからでも望むことができました。
東側の断崖の下には湾が広がっていました。
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毎年100回以上の小さな地震が発生し、時にはかなりの被害をもたらしました。
1891年には家の屋根瓦が全部落ちてしまいました。
煙突もしばしば倒れましたが深刻な災害はありませんでした。
しかし1923年には街全体が破壊され、ブラフの大部分が瓦解して湾に流れ落ちてしまいました。
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道路は砕石で舗装されていました。
往来によってすり減るので年に1、2回砂利が敷かれ、通りには手押し車で水がまかれていました。
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良い使用人を安価で雇うことができました。
料理人が月15円、ボーイは12円、アマ(女性の使用人)なら8円です。
彼らは自分たちで食事をとっていました。
台所と使用人の宿舎は家の外と決まっていました。
当時、横浜は約80万人の都市であり、外国人は中国人を除くと合わせて2,000人程度でした。
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日本人はたとえ裕福でもブラフに住むことはなく、街の北西の丘に住んでいました。
言語やさまざまな習慣の違いが壁となっていたため、社会的なつながりはほとんどありませんでした。
英国人が優勢を占めていたので、まちはその影響を色濃く受けていました。
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英国の駐屯軍は私たちが来る前にすでに撤退しており、当時外国人は皆、領事館のもと、それぞれの国の法律によって司られていました。
司法権は各国の領事館が有していたのです。
これは事態を複雑にしました。
なぜなら、どの国民も自分が属する国の領事裁判所でしか訴えられることがなかったからです。
市には日本の警察組織がありましたが、事件が起こると領事裁判所に引き渡さねばなりませんでした。
1900年頃、治外法権は撤廃され、すべての外国人が日本の法律の下に置かれることになりました。
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外国人所有の土地はすべて、開港後の1860年から70年の間に日本政府によって永久貸与されたものでした。
固定資産税は途方もなく低かったのです。
それ以外の税金については、外国人は日本政府にも自国の政府にも払っていませんでした。
日本人はこの開港時に交わされた条約の遺物に憤慨していましたが、締結した当時は日本人にとって非常に有益なものでした。
ペリー提督のために不本意ながら開国して以来、大名行列が街路で外国人を殺傷するという事件が何度か起こりましたが、それまで使われていなかった町はずれの狭い場所に外国人を隔離することによってそのような事態を避けることができたからです。(中略)
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1891年のことでしたが、来日してから3回目の夏を箱根の湖のツイヤホテルで過ごしました。
ドッズ家とジェームズ家ともに3家族でホテルを占拠しました。
当時、私たちは汽車で国府津に行き、そこから湯本まで馬車で8マイル行き、薩埵峠を越えて駕籠に乗って湖畔を訪れました。
湖から富士を見晴らす景色は素晴らしく、日本でそれ以上の場所は望めないと思われたほどでした。
箱根は横浜から近く、外国人も行くことができたのでその頃非常に人気がありました。
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横浜での最初の10年間はとても楽しいものでした。
日本のこの上なくすばらしいいくつかの都市や寺院、山のリゾート地などへの数え切れないほどの旅行、そしてボート、水泳、セーリング、ツーリング、テニス、運動会、ダンス、コンサート、素人芝居といった社交とスポーツ・・・横浜と東京の外国人コミュニティが絶頂期にあったころで、日々の暮らしはとても充実していました。
素人芝居もしくは仮装パーティー
図版(上から)
・ハーバート・A. プール肖像(Poole FAMILY Genealogy, http://www.antonymaitland.com/poole001f.htm)
・グランドホテル写真絵葉書 撮影年不明(筆者蔵)
・ブラフ写真絵葉書 撮影年不明(筆者蔵)
・谷戸坂手彩色写真絵葉書 撮影年不明(筆者蔵)
・エドウィン・ウィーラー(写真左端)ほか写真 撮影年不明(Peter Dobbs氏所蔵)
参考資料
・Poole FAMILY Genealogy, www.antonymaitland.com/poole001f.htm
・O. M. プール『古き横浜の壊滅』有隣堂 昭和51年
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