1890(明治23)7月8日火曜日、今日はヴィクトリア・パブリックスクールの今学期最後の日である。
夕方4時過ぎ、ブラフ(山手町)179番地の広い教室では、学期末恒例の表彰式を前に生徒たちが父母らの到着を待っていた。
この式が終わればいよいよ夏休み突入である。
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会場にはヴィクトリア女王から贈られた女王の肖像画が恭しく置かれ、色とりどりの各国旗が壁面に飾られている。
午後5時、ビカステス英国国教会主教、エンズレイ英国領事、法律家カークウッド氏ら来賓の顔も揃い、いよいよ式典が始まった。
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最初の挨拶を述べたエンズレイ領事に続いてヒントン校長が登壇し、今期の特筆事項は父兄の希望により音楽の授業を開始したことであると述べた。
横浜でトニック・ソルファ(字韻記譜法)を用いた音楽教育を行っているパットン夫人にヒントン校長夫人が師事し、学校にこのメソッドを導入した。
その成果はこのあとの発表会でお確かめいただきたいとのことである。
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さてその発表会の演目は次の通り。
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1.朗読 ワーズワース「三月」…幼年クラス
2.朗読 ヴェルギリウス「牧歌III」…プール(兄)
3.歌唱 「美しき六月」(六部輪唱)ほか…歌のクラス
4.朗読 セシル・フランシス・アレクサンダー「モーセの埋葬」…L. アンダーソン
5.歌唱 和声・変調ほか…歌のクラス
6.論文発表…L. アンダーソン
7.朗読 サー・エドウィン・アーノルド「8月」…ウィーラー(弟)
8.歌唱 「天使はささやく甘く優しく」(二重唱)、「笑うのは誰」(三部輪唱)…歌のクラス
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古代ローマの詩人、ヴェルギリウスの詩を朗読した「プール(兄)」は、ブラフ89番地Aに邸宅を構えるO. A. プール氏の長男、ハーバートである。
1877年に米国シカゴに生まれ、父が横浜の製茶貿易会社に移ったのを機に1888年に家族で来日。
同年の夏学期に3歳年下の弟、チェスターと共にヴィクトリア・パブリックスクールに入学した。
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日本在住の英国人詩人、サー・エドウィン・アーノルドの作品を朗読したのはブラフ97番地に住む英国人医師E. ウィーラー氏の息子ジョージである。
1880年生まれのヨコハマ・ボーイで、兄シドニーとともにヴィクトリア・パブリックスクールに通っている。
プール家とウィーラー家は兄たちも弟たちも同い年で共に同じ学校の生徒、その上住まいも近所であることから、家族ぐるみで付き合う仲であった。
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この学校で学ぶ少年たちのほとんどが横浜の欧米人居留民の子弟であり、プール兄弟やウィーラー兄弟のように兄、弟ともに通っている生徒も多い。
今学期の全生徒数45名の3分の1、すなわち15名7組が兄弟であった。
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校長のヒントン氏もまたブラフに住む英国人である。
校舎の一画が校長一家の住まいになっており、妻のメアリー夫人も教鞭をとっていた。
教師陣としては、ほかにスイス人のファーデル教諭と日本人の河島敬蔵氏を数えるのみ。
人数こそ多くはないものの、およそ8歳から17歳と年齢の幅が広いために6クラスに分かれている全校の授業を担当するには人手不足気味で、この1年間は年長の優等生であるエドワード・クラークに生徒兼先生として幼年クラスの指導を任せていた。
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発表会に続く学業優秀者の表彰式では各クラスの首席が表彰されたが、ジョージ・ウィーラーもその一人であった。
エドワード・クラークには学校からの感謝のしるしとして多くの書籍が贈られた。
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表彰式が終わるとエンズレイ領事が再び登壇し、生徒たちにこう語りかけた。
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生徒諸君、君たちにたくさんの賞品を贈ることができたことをうれしく思います。
この1年は非常に満足に値するものでした。
その締めくくりにあたり、君たちの幸福に常に関心を抱いている者たちの代表として君たちを祝福します。
諸君全員の精勤と勤勉さは、きわめて称賛に値するものであるという報告を受けて、うれしい限りです。
今回たくさんの賞品が贈られたという事実が、そのことを物語っています。
しかし諸君も周知のとおり、全員が前に出るということはできないのです。
今回表彰に与らなかった諸君の気質は寛大で思いやりに満ちており、幸運にめぐまれた生徒をうらやむようなことはないだろうと私は確信しています。
この機会に諸君が学んだ教訓は、忍耐することです。
教職員も諸君も休暇に入ろうとしています。
骨の折れる仕事に励んできた教職員にとっては当然の休息であり、生徒諸君にとっては楽しい気晴らしとなるでしょう。
どうか心ゆくまで楽しんでください。
そうすればリフレッシュしてまたここに戻り、いわば若い巨人のように、学校で成果を上げるためだけではなく、将来の繁栄への希望に向かって再び励むことができるでしょう。
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この表彰式からわずか4年後の1894年12月、ヴィクトリア・パブリックスクールは経営困難のため7年間の短い歴史を閉じる。
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表彰式で朗読を披露したハーバート・プールとジョージ・ウィーラー、その兄弟たちもその頃にはすでに学校を去っていた。
プール兄弟は実業の道を選んで貿易会社に勤め、ウィーラー兄弟は英国にわたって学業を続け、その後シドニーは銀行に就職し、ジョージは英国軍人となった。
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チェスター・プールは後年著した回想録に、第一次世界大戦のさなか、旅行の途中でメソポタミア(イラク)のクートを訪ね、英国陸軍グルカ銃隊の隊長として駐屯していたジョージ・ウィーラーに再会し、旧交を温めたと記している。
彼らがヴィクトリア・パブリックスクールで過ごした日々は決して長くはなかったが、そこで育まれた友情は生涯を通して消えることはなかったのである。
図版(上から):
・ヴィクトリア・パブリックスクールがあった山手町179番地付近を山手本通り側から見た現在の様子。右側の道の右手奥に位置していた。写真左側の建物はフェリス・ホール。
・チェスター・プール(写真中央)が勤務していた横浜のドッドウェル商会の外国人社員たち。1919年撮影。
チェスターの正式な名前はオーティス・マンチェスター・プール。1923年、横浜にて関東大震災に被災し、その時の体験記を‟The Death of Old Yokohama”として1968年にロンドンで出版した。写真はその日本語版(O. M. プール『古き横浜の壊滅』有隣堂 昭和51年)より転載。
・ウィーラー医師一家。左よりウィーラー医師、次男ジョージ、長女メアリー、長男シドニー、ウィーラー夫人。撮影時期不明だが、背後の建物は一家の自宅(ブラフ97番・現在の横浜市アメリカ山公園)と思われる。(Peter Dobbs氏所蔵)
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参考文献:
・The Japan Weekly Mail, 28 April, 1888
・The Japan Weekly Mail, 19 May, 1888
・The Japan Weekly Mail, 12 July, 1890
・「麻布の軌跡 麻布の家-1 米国人画家の来日」(『ザ・AZABU 28号』2014年6月26日所収)
・Poole Genealogy http://www.antonymaitland.com/ompoole1.htm
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