On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■道ならぬ恋とクーン商会の結末

2023-01-29 | ある日、ブラフで

横浜居留地時代にバンドと呼ばれていた現・山下町のウォーターストリート(水町通り)あたりには、当時、外国人相手に日本や中国の骨とう品などを商う店が軒を並べていた。

横浜港を望むホテルに投宿する観光客たちが、いかにも東洋趣味な陶器や漆器、みごとな蒔絵の表紙付きのアルバムなどに目を楽しませながらそぞろ歩く。

§

サミュエル・クーン氏の営む店もこの通りの一角、バンド57番地―現在の神奈川芸術劇場の近くにあった。

クーン氏の父、モンタギュー・クーン氏はオーストリア帝国の首都ウィーン近郊で生まれたユダヤ系の骨董商で、1869年に東洋の美術骨董を扱うクーン商会をはじめた。

§

一人息子のサミュエル・クーン氏は1879年に上海で生まれ、その後横浜に移り、11歳ごろヴィクトリア・パブリックスクールという外国人子弟のための学校に入学した。

この学校は英国人居留民が設立したもので、授業は英語で行われる。

大学などに進学する生徒のためにラテン語などの古典の授業も行うが、生徒の多くは算数や歴史等一般的な教科を学ぶと学校を去り14、5歳で実社会に飛び立つ。

クーン氏もその一人で、1895(明治28)年、15歳になるやならずやで父の店を手伝い始めた。

§

5年程後にはその父も亡くなり、クーン氏が店を引き継ぐことになった。

日本人の従業員が3名おり、なかには父の代から10年以上働いている者もいる。

§

1903年1月、クーン氏は23歳で同じ横浜に住むソフィー・ドウェット嬢というベルギー国籍の女性と結婚した。

彼の母も、またソフィーの両親も猛反対したが二人は愛を貫き、翌年3月にはアニータというかわいい娘も生まれた。

仕事・家庭ともに順風満帆と思われる青年実業家クーン氏だが、1904年11月29日、その姿は横浜地方裁判所法廷の被告人席にあった。

暴行事件の加害者として起訴されたのである。

§

事件の被害者はフレデリック・S・ボイス氏。

バンドに事務所を置くサミュエル&サミュエル商会に勤務している。

クーン氏の妹がボイス氏の弟と結婚したことから二人の間で交際が始まった。

妹夫婦は上海におり、夫とクーン氏は商売上の付き合いもあった。

§

水町通りの店舗は自宅を兼ねていたが、クーン夫妻は根岸にも別荘を持っていた。

バンドやブラフ(山手町)といった外国人らの生活圏からほど近く、素晴らしい眺望に恵まれた根岸湾は英語でミシシッピ・ベイと名づけられ、そのほとりの緑豊かな一帯は絶好の息抜きの場であった。

§

7月、クーン夫妻は生まれてまだ半年もたたない愛くるしい娘とともにこの別荘を訪れ、そこにボイス氏を招いた。

義理の兄弟とともに和やかな時を過ごすはずだったが、クーン氏は何やら穏やかならぬものを感じた。

妻のソフィーとボイス氏の間に必要以上の親密さが漂っているように思われたのである。

確たる証拠はないものの、クーン氏はボイス氏に帰宅を促し、もう来ないでほしいと伝えた。

§

ボイス氏はバンドのクラブホテルに一人住まいをしている。

ある日曜日の朝、ダイニングルームで朝食を終えて部屋に戻ろうとするとそこにクーン氏の姿があった。

そしていきなり「うちに来るとはどういうことだ!?」と彼に詰め寄ったのである。

「プライベートな話なら部屋で」ボイス氏はそう言って場を移した。

§

「うちに来るなといったはずなのに、なぜ来た」

「君の奥さんに招かれたからさ」

クーン氏はボイス氏のあしに飛びつき、転倒したところにのしかかる。

助けを呼ぶボイス氏。

廊下を通りかかったホテルの支配人が慌てて止めに入ると、クーン氏は憎い相手に拳固を2,3発お見舞いして去っていった。

§

8月、クーン夫妻は日光金谷ホテルを訪れた。

風光明媚な避暑地で家族水入らずの時を過ごすはずであったが、そこでもまたクーン氏は不穏な気配を感じる。

ボイス氏が金谷ホテルに滞在していて、しかも割り当てられた部屋を変更してクーン夫妻に近い部屋に移って来たというのである。

怒り心頭に発したクーン氏は、ホテルの部屋にボイス氏を訪ね、殴り合いになった。

§

この間、クーン夫妻の間にどのようなやり取りがあったのか。

夫は妻を問いただしたのか、ならば妻は不義を認めたのか、それとも潔白を主張したのか。

それは当時の新聞からは読み取れないのでここでお伝えすることはできない。

しかし次に起こった大スキャンダルには、英字新聞ばかりか日本語新聞さえも紙面を割くことになった。

§

10月12日午前8時過ぎ、クーン氏はサミュエル&サミュエル商会にボイス氏を訪ねる。

コートを羽織っていたが、それは肌寒さを避けるためだったのかは定かでない。

その下に1本の木の棒をしのばせていたのだから。

§

ボイス氏は執務中だったが、やむを得ず訪問者を自分のオフィスに招き入れた。

するとクーン氏はポケットから手紙を取り出した。

「これに見覚えはあるか?」

「返せ、泥棒野郎!」

ボイス氏は手紙を奪おうと相手の右手にとびついた。

§

それはクーン氏が昨夜、妻のたんすの引き出しに見つけたものであった。

そこにあった手紙のどの文面にも熱烈な愛情があふれていた。

例えば…

§

私のかわいい人

たった今、あなたの手紙を受け取りました。

それは私の心の琴線に触れるものでした。

というのも、あなたから連絡がないとき、いつも何かわけがあるのではないかと不安でたまらないものですから。

もし、あなたが外出することを彼に気づかれれば、あなたを監視するに違いありません。

私はそのような事態をつよく恐れています。

だからあなたがそこにいなくても、理由はわかっています。

でもできることならあなたに会いたい。

それが私には必要なのです。

あなたの姿を時折でも見ることができなければ、私にとって人生は耐え難いものになってしまいます。

私の恋人、ああ、私はあなたを愛しています。

それが遅すぎたとは言わせませんよ。

明日、話し合いましょう。

かわいい愛しい人よ、キスを贈ります。

あなたのフレッドより

これは破り捨ててください。

横浜 1904年10月5日

 

別の手紙にも思いがあふれている…

 

私の最愛の人

今届いた走り書きで、あなたがこれなかったわけが分かりました。

もともと雨が降ったら約束できないとのことでしたから、希望を抱いてはいなかったのです。

でもやはり残念だった。

ただ一人でチョコレートを飲むしかありませんでした。

あなたは知らないかもしれないけれど、あなたがいるだけでどんな場所も完璧なものになるのです。

宮殿にいると思っていたのに、あなたが去ったとたんに俗っぽい避暑地の部屋にいることに気づいたとき、私はそのことを知り、胸をうたれました。

もうすぐあなたの誕生日です。

その日を思うと私の心は感じやすくなり、胸の鼓動は高まるばかりです。

あなたは私の女王であり、私の愛であり、私の人生です。

もしもあなたに会えない日があったら、私の代わりに赤ちゃんの唇にキスをしてほしいのです。

§

サミュエル&サミュエル商会の一室で起こった乱闘事件はクーン氏がボイス氏の顔面を棒で殴打し、被害者が左目を失明するという惨事に至った。

そして加害者はその罪を問われて今法廷に立っているのである。

調書によると被告は棒を持参した理由について質問されて次のように答えている。

「もしボイスに暴力を振るわれたら殴ろうと思って持っていきました」

§

ボイス氏の事務所で彼に罵倒されたのですか。

「彼は怒り狂って私のことを『ユダヤ人め』とか、馬鹿野郎とかなんとか言いました」

§

ボイス氏は被告人を罵倒したことはないし、手紙をみようとしたらいきなり被告人に襲われたと言っています。

「いいえ、私は罵倒されたから殴りかかったのです」

§

12月14日、横浜地方裁判所において判決が下された。

「被告人サミュエル・H・クーンを15か月の禁固刑に処す」

§

当時の新聞を追うと、クーン氏は判決を不服として控訴したとあるが、これが認められたかまでは残念ながら記録が見つからない。

§

翌年夫妻は離婚し、クーン氏は店をたたんで横浜を去った。

米国を経由してカナダに向かい1910年に再婚。

その後、家族で英国に移住して二人の子供に恵まれた。

上海に移り住んだこともあるようだが、日本を訪れたという記録はなく、没年は不明である。

 

図版:(トップより)
・クーン商会手彩色絵葉書(筆者蔵)
・クーン&コモル商会手彩色絵葉書(筆者蔵)
・クーン&コモル商会店舗内風景写真(筆者蔵)
*横浜のクーン&コモル商会は、クーン商会で一時働いていたアーサー・クーンとジーグフリード・コモルがバンドで営んでいた骨とう品店。クーン商会の写真が入手できなかったため参考までに掲載した。

参考資料
The Japan Gazette, Dec. 2, 7, 14, 1904
The Japan Weekly Mail, Dec. 3, 1904
The Japan Weekly Mail, March 23, 1905
The London and China Telegraph, June 19, 1905
・『横濱貿易新報』明治33年10月12日、同14日、11月18日、12月1日、同4日
・『時事新報』明治33年10月13日、同14日、11月18日
・Samuel Henry Kuhn及びMontague Montague Moritz Kuhn経歴(https://www.ancestry.com.au)


コメント    この記事についてブログを書く
« ■花は手向けずとも―37年間墓... | トップ | ■1870年代横浜の二重の悲劇―... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。