- 二 外圧に従う
ごまかし的行動の原因の第二は、日本が占領され、昭和二十六年九月サンフランシスコ講和条約により独立国になった(参加していない国も多くあったが)のであるが、片方で国民に占領・独立を意識させないように独立記念日も設けず、もう一方で大日本帝国から日本国に変わり、天皇主権から国民主権に変わったことを意識させていることであり、また、外国に対しては、戦前も戦後も日本は一貫して同じ国である様な態度(外務省も戦前戦後変わることがなかったために平成十四年には機密費問題・亡命問題・本来公務員であるはずの外交官が海外では特権階級のような生活をしているなど様々な問題が噴出してきた。)でありながら、自国に対する自信の無さと米国の占領政策によって、米国を始め近隣諸国の外圧が加わればそれに従う国と思われている。この様な内・外・内外それぞれの矛盾を修正していく努力をしなければ、米国の財布としてしか存在意義を認められないであろう。
外圧の中でも中国と朝鮮半島に対しては複雑な問題がある。特に大きなものが南京問題と戦後補償問題と歴史認識問題である。南京問題は、極東国際軍事裁判の法廷から証拠付きで信憑性の高い報道をするラジオ放送「真相箱」で報道されたもの(南京で三十万人を虐殺したというもの)で、日本人を自己嫌悪に陥らせた最たるものである。この問題は様々に論議されてきているが、私は、原爆の投下により一般市民を大量虐殺した米国の責任をぼかすために考えられたものだと思う。南京陥落直前の昭和十二年十二月十三日にいた人口は田中正明氏著「南京事件の総括」日本軍捕虜張群思少佐による十万人・日本軍捕虜で後に汪兆銘政府軍官学校長による二十万人・ライフ誌による十五万人・フランクフルター紙の特派員の「南京脱出記」による十五万人・松井大将による十二万人と、すべて当時の証言であり凡そ十から二十万人が住んでおり、守備軍は公文書で五万人(実際は三万五千人)で全員殺されても三十万人にもならず、戦争が迫ると金持ちは逃げ、退去しない市民の保護(食料の支給も行っており人口の把握もかなり行われていた。)に欧米人中心の南京安全区国際委員会当たっていた。それに依ると陥落後一ヶ月後の人口は約二十万人で更に一ヶ月経つと五万人増加している。日本軍による治安状況で避難民が帰ってきていることは日本軍による治安への信頼以外の何物であろうか。極東国際軍事裁判の証人であるマギー牧師が「日本兵の歩哨が一人の中国人を呼びとめたが逃げ出したためにそれを撃った。」一件しか目撃していなかったこと、AP・UP・ロイターなどの通信社が南京陥落当時一切打電していなかったことからも南京大虐殺はあり得ないことである。しかし未だにこれを問題とし、自虐行為を続けている日本人がおり、政府も曖昧模糊とした態度をとっているのは信念の無さを示している。
戦後補償(戦争責任については極東国際軍事裁判でA級戦犯とされた七名絞首刑・十八名終身禁固刑などに処せられ、軍事裁判で九百二十名が死刑に処せられたことで解決している。しかし、この裁判は連合国の訴因である①平和に対する罪、②通例の戦争犯罪、③人道に対する罪によるものであるが①・③は四十五年八月に米英仏露四カ国合意の「ロンドン憲章」で示されたもので、法律の出来る前に起こした犯罪は遡って罪に問われないという原則から、更には、連合国が一方的に裁き公平性を欠き、原爆投下もシベリア抑留・強制労働も「通例の戦争犯罪」、「人道に対する罪」に該当し、それを追求しない点からも極東国際軍事裁判等の判決は無効と言わざるを得ない。)については、サンフランシスコ講和条約で連合国四十八カ国と調印しそれらは賠償請求の放棄をし、フィリピン・インドネシア・ビルマ(ミャンマー)・南ベトナム(当時)とは賠償協定を結び賠償金を支払い、中華民国(台湾政権)・印度とは平和条約を結んで賠償を放棄した。韓国とは昭和四十年の日韓条約で千八十億円の無償資金と七百二十億円の借款供与で解決をした。中華人民共和国とは昭和四十七年の日中共同声明で賠償請求権を放棄した。北朝鮮のみが解決せず国交が成立していない。これが戦後補償の状況であるにも拘わらず、日本が彼らの歴史認識と異なったことを行うたびに個人の賠償請求が平成に入った頃から韓国人残留者・元従軍慰安婦・軍人貯金の未払い等々出ている。日本政府は、国家間の賠償は解決済みとするが「女性のためのアジア平和国民基金」を設立するなど補償に変わる措置をとっている。国交がないにも拘わらず北朝鮮に対しての人道援助による米の大量支援も理屈が曖昧で傍目にはごまかし的行動に映る(拉致問題をもし信じていて行ったとすれば許し難いことであるし、信じていないで行ったとすれば非常識としか言いようがない。)。
ナポレオンは仏蘭西では英雄であるが、英国では非道な人間としているように歴史の認識は各国それぞれに有っていいはずである。喧嘩をしたときそれぞれの言い分を聞くとどちらが先に手を出したが何が原因か殴ったか殴らなかったか等々水掛け論になる場合が多い。納得できるのならばよいが、納得できないことの方が多い為に誰かが仲裁に入ったりするのである。世の中には勧善懲悪のケースなど滅多になく、どちらもが正義である場合もあるしどちらもが悪である場合もある。問題は、外国に対して自分たちの歴史認識が正しいからそれに代えるよう訴えることである。これは明らかに内政干渉であり、思想信条の自由を奪うことになる(奪っている側は、自分たちの思想信条の自由を奪われていると感じている。)。日本は独立主権国であり、国内問題は、国民で決め、対外問題は筋道を立て、しっかりと国益を考えて取り組まなければならないのであるが、どうもそのように思えない。
一 日本国憲法
戦後の日本は何事に付けてもごまかし的な行動をとり続けている。と言うよりもそうなる状況が存在している。その大きな理由の一つは、日本国憲法にある。日本は昭和二十年八月十五日ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をした。宣言は、軍国主義勢力の排除、民主主義の確立、言論・宗教・思想の自由、基本的人権の尊重などを指示していた。それに沿って、治安維持法の廃止、労働組合結成奨励、農地解放などの政策を行っていった。日本国憲法もそれに沿って作成されていった。十月四日のGHQ司令官と近衛文麿の会談の時点から始まっていくが、米国務省からA級戦犯容疑者を作成の中心に据えることへの批判が出て近衛文麿は解任され、幣原喜重郎に作成が委託された。同じような敗戦国である独逸では独立後に憲法を作成しているが、日本では連合国の占領下(幣原内閣の時)に作成されたのである。この時GHQは、間接統治を目指し、日本の自主性になるべく任せる態度をとっていたが、その「憲法改正要綱」の草案では、天皇の不可侵、天皇による軍の統帥、議会の協賛を持って天皇が戦を宣言したり和を講すると言った明治憲法とほとんど変わらない内容(共産党などを除いて他の民間研究団体や政党から出された案もほとんど差異がなかった。)で、GHQ内部で草案作成の決意をした。GHQは司令官の「天皇は社交的君主としての国家元首」・「国権の発動による戦争の廃止」「封建制度の廃止」を三原則とし、一週間で草案を作成し、吉田茂外相・松本憲法担当相らに「憲法改正要綱」を拒否し、自分たちの草案を突き付けた。政府は抵抗するもののほとんど変更することなく「憲法改正草案要綱」として、吉田内閣の時、明治憲法改正の手続きに従って(明治憲法七十三条「将来此の憲法の条項を改正するの必要あるときは勅命を以て議案を帝国議会の議に付すべし」)帝国議会によって(一部訂正は有ったものの)改正された。問題の第一は、時期が占領下であること、更に一度でき上がったとき占領軍にお窺いを立て、訂正をされ、占領軍の了承を得ていることで、とても日本国の意思が反映されているとは言えない。また、明治憲法の改正手続きによっているのに、「名称」を換え、「改正手続き」を民主的なものにはしたが、非常に困難なものにしてしまったことである。このことは、連合国の意思のまま改正できず従い続けなければならないことを意味する屈辱の憲法である。改正が難しい為に多くの政治家・学者が解釈という方法で現状にあった服を着せようと努力をしている。素直に読んだ場合とは正反対な意味を示す場合すらある。これがごまかし的行動の原点である。
この憲法の中でも「戦争放棄」・「信教の自由・政教分離」は特に多くの問題を含んでいる。「戦争放棄」については憲法第九条に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とあり戦力を持てないことになっているが、昭和二十五年六月二十五日に朝鮮動乱が始まり、司令官は、国内治安維持の名目で警察予備隊・海上保安庁の増員を指示してきた。GHQは「戦争放棄」をさせておきながら僅か三年で態度を一変させてしまったのである。そして、昭和二十六年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印されると、警察予備隊は、保安隊と改組され、昭和二十九年には、防衛庁設置法・自衛隊法を公布し、防衛庁、陸・海・空自衛隊を発足させている。その後も「集団的自衛権」を認める云々など様々な解釈論で着替えをしている。これこそ、解釈によるごまかしの最たるものである。また、国内的には「自衛」目的であるが、軍事技術・予算から世界有数の軍事力保持国になり、外国語では「ARMY(軍隊)」である。
「信教の自由・政教分離」について憲法二十条に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権利を行使してはならない。何人も宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」とある。しかし、そもそも日本国憲法を作成した米国では、合衆国憲法修正一条に「連邦議会は国教の樹立を規定したり、宗教の自由な礼拝を禁止する法律を制定することは出来ない。」と規定しているが、「国が宗教に敬意をもち、宗教上の影響を拡げようとすることに反対するどのような憲法上の制約もない。」という判決を主としている。大統領の就任式の時「天の祝福あれ」と聖書に誓う行為を見れば、米国が(他国に政教分離をさせていながら)政教一致の国であることが解る。別の例として、英国では、国教会を置きつつ、他の宗教・宗派に対して信教の自由を保障している。これは明治憲法の信教の自由と同じである。独逸に至っては、公立小学校で正規の科目として「宗教」を設置し、すべての宗教・宗派を国家によって保護・優遇する方針をとっている。逆に仏蘭西では公機関から一切の宗教性を排除している。米国から押し付けられた形が日本に合致していないことは、様々な訴訟を生んでいる点・無秩序な新興宗教の多発を見ても明らかである。しかし、憲法は簡単には改正できないのである。世界中のほとんどの文化や伝統は宗教の影響を受けており、受けていない文化や伝統は薄っぺらな印象を受ける。日本国民として日本の伝統文化を守り、発展させていくことは、宗教を守ることと一致する部分が大きく、宗教を守らないことは、伝統文化を衰退させることに他ならない。このジレンマを解消しない限り、日本は自国に対して、自国の伝統文化に対して誇りを持つことは出来ないであろう。また、自国に対する自信の無さと米国の占領政策(紳士的な部隊を駐屯させ、豊作による余剰の小麦・脱脂粉乳等与え戦時中よりも敗戦後の方が素晴らしいものとの印象を植え付けた)は、自国の文化を否定し白人文化こそが上等でありそれを取り入れることが豊かな生活をもたらすと信じ込むことになっていった。その結果として、国のため、家のため、親のためなどの観念が消失し、自分さえよければということになってしまった。このことは、本来日本人が道徳規範としていた「祖先に顔向けできないようなことはするな。」とか「神様だけはお見通しだぞ。」というものを「ご近所に知られたら。」という過程を経て「誰がどう思おうと知ったことか。」という所まで落としてしまっているのである。そして、無気力・無関心・無感動・無責任等々に陥り、ついには面倒には係わりたくない大衆を生み、強い主張に対しては流されるだけの存在になってしまっている。
次に神社の立場から戦後の状況を考えてみたい。当時は神社について、公的(皇室の御安泰と、国家・国民の繁栄を祈る国家性)・私的(民衆・大衆の信仰に基づく宗教性)の両面を有し、この両面の均衡がとれてこそ、神社の繁栄が期せられるものと考えていたが、昭和二十年十二月十五日にGHQは「神道指令」(〔条文の抜粋〕○神道及神社ニ対スル公ノ財政ヨリノアラユル財政的援助並ニアラユル公的要素ノ導入ハ之ヲ禁止スル。而テカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル。○従来部分的ニ、或ハ全面的ニ公ノ財源ニヨツテ維持セラレテイタアラユル神道ノ神社ヲ、個人トシテ財政的ニ援助スルコトハ許サレル。○神道ノ教義、慣例、祭式、儀式或ハ礼式ニ於テ、軍国主義的乃至国家主義的「イデオロギー」ノ如何ナル宣伝、弘布モ之ヲ禁止スル。而テカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル。○伊勢ノ大廟ニ関シテノ宗教的式典ノ指令、並ニ官国幣社ソノ他ノ神社ニ関シテノ宗教的式典ノ指令ハ之ヲ撤廃スルコト。○内務省ノ神祇院ハ之ヲ廃止スルコト。而テ政府ノ他ノ如何ナル機関モ或ハ租税ニ依ツテ維持セラレル如何ナル機関モ、神祇院ノ現在ノ機能、任務、行政的責務ヲ代行スルコトハ許サレナイ。○日本政府、都道府県庁、市町村ノ官公吏ハ、ソノ公ノ資格ニ於テ新任ノ奉告ヲナス為ニ、或ハ政府乃至役所ノ代表トシテ、神道ノ如何ナル儀式或ハ礼式タルヲ問ハズ之ニ参列スル為ニ、如何ナル神社ニモ参拝セザルコト。)を発し、日本政府に対して、神社と国家の分離並びに、国家が定めた祭祀制度の廃止を命じ、神社を一つの宗教とし、これを信奉する人々によって運営することは認める旨を指令した。これにより神社の公的面は悉く除去され、神社の本質、祭祀の在り方を、著しく歪曲されてしまったように思える。翌年二月二日官制廃止となり、神社は国家の管理を離れ、宗教法人として宗教法人令、更には宗教法人法に依つて運営されることとなっている。この状況をどう認識し、どうすることが将来の神社のあるべき姿かをこの章の四で考えていきたい。
また、最近靖国神社に変わる施設の設置が問題になっている。靖国神社は明治二年に維新の戦没者慰霊のために東京招魂社として創建され、明治十二年に靖国神社と改称され、他の神社と異なり陸海軍省に所管されていた。つまり、戦没者や遺族の気持ちに対して国が創設した存在である。それが戦後の「政教分離」の立場で靖国神社参拝が難しくなったために戦没者や遺族の気持ちの間での苦肉の策としてごまかしのために打ち出したものと言える。そもそも、靖国神社はナショナリズムと戦意の昂揚のために国に利用されていたと見るべきで、そうすると政教分離とは国に対して特定・非特定の宗教の違いに関係なく霊の存在を認め、霊を祀り、霊を礼拝することを禁止する法と解釈すべきである。故に、礼拝施設を設けて、祝詞の代わりに弔意・不戦を表した文章を読み上げ、玉串の代わりに花や花輪を捧げることは神道形式で無いからと言って行ってはならない。この事は、八月十五日に戦没者の霊の木塚を設けて行っている儀式に政府関係者が参列することと全く同義であり、特定・非特定の宗教であることの違いを除けば靖国神社に参列することとも政教分離からは同義と言える。寧ろ靖国神社参列を毅然と戦前からの慣習という立場で行うことこそ政教分離の中で行いうる行為と言える。
キリスト教徒などの「靖国神社に祀って欲しくない。信教の自由が侵されている。」との言い分に対して、「祀りたい者の信教の自由はどう保護されるのか。」と反論することもあるが、神社神道にとって、伊勢神宮の分霊を祀りたいからといって、何処にでも認めることが出来るのか、またそれを掘り下げていくと、大麻を天照大神の分霊と解釈しても良いのではないかという意見も出てくることになるだろう。国がごまかし的行動をとっている限り神社界も矛盾から開放されないだろう。
A級戦犯についても、日本国のことを思い様々な経緯の結果戦争に突入し、敗戦したからといって、戦争の責任が一方的に敗戦国にあるはずが無く、日本国のために苦労された方々を日本人が祀って悪い理由は何処にも存在しない。逆に、極東国際軍事裁判のように、戦勝国側の主張のみを押し付けられた結果を国民の多くが納得している事実こそが日本のアイデンティティーを歪め、外国からの圧力に弱い国と言うレッテルを貼られる原因になっているのではないだろうか。
四 戦時下
昭和十年に貴族院で美濃部達吉の天皇機関説が国体に反するとされたことを発端にして国体明徴運動が生じ、教学刷新評議会が設置され、「国体の定義」「教育の見直し」が検討され、日中戦争が始まり、戦勝祈願や祈祷が行われ国民精神総動員運動が組織されると、国民の精神的統合のために集団参拝の励行など神社・神道が重要な役割を担うことになった。そして、昭和十五年神社局を改組して神祇院が設立され、全国神職会も教化機能を強めた日本神祇会に改組され、国民教化の推進を果たさなければならなくなった。
進出した朝鮮や満州に神社を創建し、人々に礼拝させていったが、神社本来の祖先崇拝や自然崇拝は影が薄く、欧米列国がキリスト教に依って植民地支配を促進していったことを手本に、「国家の宗祀」として、天皇に人々の尊崇を集約し、臣民としての意識を植え付ける目的であったことはその時代としては当然のことであったろう。しかし、キリスト教のような国家・民族を越えた宗教と性質を異にしており、元々の日本国民以外の者に「天照大神の生まれた国で、三種神器・天地無窮の神勅により皇統は絶えることなく連綿と続いており、神代から在るがままに天皇にお仕えしている歴史」を押し付け、天皇を中心にした新国家を造ることは、今考えても支持を得られることではなかった。むしろ、自然崇拝やそれぞれの民族の祖先崇拝を押し進めていれば神社神道にとって好ましい方向だったように思える。
三 神社合祀令
この頃、別格官幣社が創建(明治二年に創建された東京招魂社を改称する形で靖国神社とした(明治十二年))されたり、社寺創建の認可権が太政官から地方官に移行し、郷社が多く創建されていったが、明治三十九年になると、神饌幣帛料供進指定標準の訓令、合併跡地譲与の勅令いわゆる神社合祀令が発布され、全国的な神社の統廃合が明治政府の強力な圧力のもとで施行された。当時、立派な社殿を有する氏神社が一村に複数鎮座する村もあって、このような場合で合祀が行われた時、合祀されて廃社となった神社の旧氏子は社殿の保存を希望し、昭和初期に神社再興運動を起こし、独立再遷座を実現させた事例も少なくなかった。
合祀後、空き家となった社殿の処置方法として、御旅所として用いた、合祀先神社の境内摂末社本殿として移築されたり、統廃合する各神社の建造物の中でそれぞれ優れた社殿を選んで合祀先に移築しその本殿や拝殿としたり、中には合祀先の神社の本殿のさらに奥に廃社となった神社の本殿を移築して新本殿(「奥之院」と称する神社もある)として用いたり、旧来の本殿を幣殿として転利用した例もあった。
二 神祇官の再興
明治二年(一八六九)に神祇官の再興・明治三年に宣布大教詔・明治四年に社家の世襲禁止・社寺領上知令・官国幣社指定の太政官布告など次々と神社を統制管理していく方向付けがなされていく。この頃から平田派から津和野派に政策内容が変貌し始め、「神社は国家の宗祀」と宣言し、祭祀と宣教が分離し、神の位置付けもキリスト教への対抗・天皇に国民の尊崇を集約し、臣民としての意識を植え付ける目的に変わっていった。そして、戸籍法の制定と郷社定則により戸籍の区域に即して個人は特定郷社の氏子としていった(機能としての異教監視・新生児把握は、戸籍法とのだぶりで意義を失った。宗門制度の考え方も頓挫している。)。
神社を取り巻く制度が次々と変革され、特に①社家の世襲禁止によって、従来の社家の多くは追放され、長く続いてきた伝統的祭祀・神事も多く消滅していった。また、②社寺領上知令によって、境内地以外の全社領を没収され経済面でも大打撃を受けた。このように弱体化し「国家の宗祀」たりえなくなった神社に明治政府は切り捨て政策を実施する。明治十年代頃には、官国幣社以外の神社・神官を一寺院と同列に扱う措置をとり、明治十五年には官国幣社の神官と教導職の兼任が禁止され、維新以降普及していた神官が葬儀を行うことも禁止された。明治二十年には官国幣社保存金制度の導入(国庫支出の廃止)・官国幣社神官が廃止され神職になった。
明治五年(一八七二)神祇省を廃止し教部省を設置し、教導職を設け(教導職には全ての神職に加え僧侶も参加し、地域に小教院・府県に中教院、東京に大教院をおいた。)、神道教義としての十七兼題文明国家の徳目としての十一兼題を説くべき題目とするようにした。その後、教導職に民間宗教者も参加するようになり、また、「教会大意」の通達により、民間宗教者の宗教行為を国家公認とする根拠を与えてしまい、「教会」「講社」を法的に認めることとなった。
浄土真宗は、薩長藩閥間の対立を背景に、「治教」と「宗教」を区別し、教導職は「治教」に専心すべきとして大教院からの離脱運動をおこし、明治八年には神仏合同布教が中止された。神道側は神道事務局を設置し、大教院は解散となり、明治十年に教部省も廃止され、これを社寺局が継承し、明治十七年には教導職も廃止された。
明治二十二年明治憲法が発布され、明治二十二年から二十三年にかけて、「神祇道」は宗教的な神道とは区別された「国家の宗祀」であり、複数の官庁で分掌されていた祭儀を統括すべきだとの主張により「神祇官設置運動」が展開されたが政府には動きがなかった。明治三十三年になると社寺局を宗教局と神社局に改組し、神社=非宗教論を制度的に裏付けることになった。
神仏分離令によって、一見、仏教が弾圧され神道が保護されたように見えるが、神道も次々と手足をもがれ、厳しい規制を受け、国民精神の統合のために上手く利用されていったようにしか思えない。
一 神仏分離
江戸末期の国学・水戸学の流れに沿い祭政一致と王政復古を掲げ、明治政府は、慶応四年(一八六八)祭政一致・神祇官再興の布告(いわゆる神仏分離令・神仏判然令)を行った。天皇家においても明治元年孝明天皇三年祭から神仏分離が行われ始める(江戸期まで天皇家では仏式の祖先祭祀を行っていた。)。
一般の神社では、おおむね神仏分離が粛然と行われていたが、今日なお幾多の社殿に仏像や懸仏が奉安されていたり、大般若経をはじめとする経典類などが残されていて、分離が不徹底な一面も窺うこともできるが、仏教伝来以降長く続いてきた神仏習合は一瞬の内に崩壊させられたのである。
明治維新の神仏分離は、神社境内から塔・経蔵・鐘楼・仏堂などの仏教建築を除去するだけにとどまらず、神社本殿自体の細部形式にまで波及した。すなわち、仏教建築に由来するという理由から、組物を用いること、彩色を施すこと、象などの彫刻を加えることも批判され、また、屋根には千木や堅魚木を乗せることが当然とされた。神社の各社殿の標準的な規模形式を図示した制限図が刊行され、その流布応用が促進された。そうした背景によって、厳島神社では、各社殿から平安以来の朱塗の彩色が掻き落とされ、本殿の屋根に千木・堅魚木が新たに置かれるという改造が加えられていた(後に復旧)。
四 神基習合
神道とキリスト教は昔から相反する存在のように思われがちだが、一五四九年に来日したイエズス会のフランシスコ・ザビエルは改宗者ヤジロウの意見に従いデウスを大日と日本語訳していた。大日如来は、あらゆる現象を生む宇宙の根元とされ、伊勢神道などでは天照大神と同一視されていたが、ザビエルはデウスと類似した性質を感じていたと思われる。しかし、唯一絶対のキリスト教と汎神論的大日如来との相違からこの訳を止めた。次にビレラは、天道(道徳的に善い行いをすると善い報いを受け、悪い行いをすると悪い報いを受け、それは現報だけでなく子孫にも及ぶとするもの。)と訳した。その理由は、死生観の類似と吉田神道の大元尊神(国常立尊=天御中主神)の影響を受けたためである。ただこの訳も汎神論的性質のため取り止められ、原語のデウスで表されるようになった。これらのことからキリスト教は中世の神道と交わり、布教に大きな影響を受けていたことが窺える。
しかし、徳川の幕藩体制にはいると、朱子学が中心的観念となり、キリスト教は都合の悪い存在になっていった。その理由は、キリスト教が神に対する戒律(断食・懺悔・ミサなど)と人に対する戒律(主君への忠義・親への孝・隣人愛など)との二重戒律を持っていたためである。例えば、幕藩体制に必要な主君への忠義に対して、ゼウスは絶対であってクリスチャン同士はたとえ敵になっても戦わなかったり、捕虜にしても逃がしたり、一緒にミサをしたりと、矛盾を至るところで生じたことなどである。
幕藩体制は寺社を保護し統括していたが、神道はキリスト教と同様に都合の悪い存在になっていた。「日本は、天照大神の生まれた国で、天皇を中心に国家と民族が一体となる」という思想により、幕府が政権を委託されたものでのみあれば矛盾を生じないがそれ以上になろうとしたとき相反する存在になっていくからである(宣長の顕露事等)。
宣長の「本教外篇」はキリスト教の教義書の敷き写しないしは転合書きと言われ、天御中主神をデウスになぞらえ現報の様なことを説いている。平田派も「アダムとイブはいざなぎのみことといざなみのみことだった。」と言うなどキリスト教の影響を受け、幕藩体制に都合の悪いもの同士が習合したことにより、神道は、キリスト教の「神の創造と支配・神への絶対服従」などの神観念を取り入れていき、討幕運動に進んでいく。
三 本居宣長と天照大神
宣長は市川匡麻呂との論争で天照大神を「今まのあたり世を御照し坐す天津日(天日そのもの・太陽)」であるとし、外国で天照大神が知られていないのはその徳化の行き渡らないためではなく古伝説の有無によるとしている。しかし、太陽の昇らない国は無いし、太陽崇拝を行っている国は多かったはずであり、その国の王の中には太陽の子孫である古伝説を持つ者もあったはずで、そうであるならば彼らも皇孫と認めるべきであろうか。皇孫ではあるが三種神器を授けられていないから皇統とは言えないと言うことも出来るかも知れない。だとしたら、天照大神である太陽は空に変わらずおわし坐す以上、葦原中国を平定するために天孫を降らせたように世界の他の地域全てを平定するために幾度も天孫を降らせて当然であり、世界中が天孫に国譲りを行ってしかるべきである。
また、天照大神が太陽であるならば毎日礼拝することが出来るのに、なぜ、内裏にお祀りし、後に笠縫邑を経由して伊勢にお祀りしなければならなかったのか。伊勢神宮内宮を礼拝するとき素直に天照大神に手を合わせているが太陽に対してのそれは太陽の恵みや有り難さに対するもので天照大神と同一に考える事が出来ないのは私だけであろうか。私は、当然自然物自体に霊や神は宿っていると考えているが、名前を持った神がその自然物と一体とは考えない。例えば、御年神は稲を司る神であり、水波能売神は水を司る神であり、神そのものが稲や水ではない。稲にも水にもそれぞれ名を持たない霊が宿り、それは尊い神の恵みによってコントロールされているのではないだろうか。そのことから、太陽は日神・月は月神と見るべきではないだろうか。天照大神が太陽であるならば伊勢神宮不要説に繋がる可能性があるように感じる。私にとって伊勢神宮は天照大神が御鎮座されている大切なお宮である。
また、「皇位は不動であって、万代、皇位を窺い天皇に背く者はありうべからざること。」としていることについて、明治政府の地盤固めには、都合の良い理論で積極的に述べられてきていた。しかし、昭和二十年八月十五日の敗戦以降、顕露事・幽事のシステムは破壊され、占領軍が、占領軍独自の思考(当然国政委任ではない。)で、日本の国政を行い、新憲法施行後も、安保条約等で事実上の間接支配を続けていると言えるであろう。国会の開催などを見ていると顕露事・幽事のシステムが修復されているように感じられるが、実際には形式のみの修復であり、実質の修復が成されない限り、中国四千年の歴史と五十歩百歩になってしまう。出来る限り早期の実質修復が成されなければならない。
二 近世の国学(復古神道)
その国学の流れを見ていくと、中心的役割を担った人物として、契沖・荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤が挙げられる。
契沖は寛永十七年(一六四〇)に生まれ、僧侶として難波今里妙法寺で和歌について学び「漫吟集」を作り、高野山時代には梵語を十分に習得したことが基礎となり、「古典和歌の研究」「古典の語学を中心として研究」「学問的随筆」「歌集」を学問の主題にしていた。いにしえを在るがままに受け入れる姿勢で(批判・取捨を避ける。)、和歌を知り作ることが古代に近づく最高の手段としている。また、三教融合説を説きながら神道を儒仏より優先させ、日本を「神国」と表現していた。
荷田春満は伏見稲荷大社の神官の出で寛文九年(一六六九)に生まれた。春満の学問は神典歴史から制度に関するもの、万葉集その他の和歌に関するもの、国語に関するものと多岐にわたっているが、基本線は社家としての神道学者から次第に和学者へと進んだ人である。
日本書紀の研究中に「本朝の道は神代上下に尽してある也。」「正道の日本紀神代巻を学びて、教誡を神代の善悪の神の其行を見て、勧善懲悪の教誡を求むべし。」と言っており、これが神祇道徳説である。春満も国常立神を神々の根本に据え、八百万の神たちをその徳の分化した存在と考え、天神を善、国神を悪とし、天神が造化成した葦原中国を、国神が支配し善悪邪正や義理道徳の差別もない蒙昧な地にしてしまい、この葦原中国に道を開くため天孫を降臨させたという認識を基本にしている。神については、日本書紀神代巻箚記に「神は魂と伝ふること也。かの国の中より清潔なる葦牙の如くなるもの、何にかゝはらず、すふとぬけ出でたる所、此神となり給ふ也。然れば神は天地の魂と見る可し。形にしても窺へども、実は魂と窺う可きこと也。」「神明には生々無窮の義を神徳となされ、神慮の本となし給ふ。是神明の大徳也。」と有り、魂に重点を置いていた。神を玉(魂 吾身の主は魂也)・劔(気 生命力)・井(水 形作るもの)を受けて成るものと考えている。
賀茂真淵は元禄十年(一六九七)に生まれ、壮年期に学に志し春満の門弟となる。真淵の万葉集を中心とした古学は古言と古意(「文意」「歌意」「国意」「語意」「書意」の五意に分析考察)の闡明に重点が置かれ、古道(神々の示し給うた秩序)の闡明を最終目的にしていた。
万葉集を研究する中で古代人の「ますらおぶり」に憧れ、素戔嗚尊の暴挙とそれに対する天照大神の態度を例に男は荒魂・女は和魂を得て生まれたとしている。
また、神道を「皇神の道(天皇の踏み行う道)」「天つかみろぎの道(万民の踏み行うべき道)」に分けて考えている。「皇神の道」を要約すれば①神祇を崇敬し給うこと②天皇の陵威を重んじ給うこと③万民を愛撫し給うこととし、「天つかみろぎの道」を①神祇を崇め敬うこと②清明の真心を以て天皇を畏み敬すること③義勇以て克く天皇に仕え奉ることとしており、神祇崇拝を大切に考え、元来の神を上としていた。真淵は、古事記の研究にも着手していたが道半ばで本居宣長に託すのであった。
契沖・荷田春満・賀茂真淵の学問を統合し、組織的国学に大成したのが本居宣長であった。 中国は四千年の歴史と言ったりするが途中で北方の騎馬民族などによって支配する民族が替わってきている(禅譲・放伐)。宣長は、それに対し日本の国体について、天照大神の生まれた国で、三種神器・天地無窮の神勅により皇統は絶えることなく連綿と続いており、神代から在るがままに天皇にお仕えすること、天皇を中心に国家と民族が一体となっていること、皇統から別な者に替わることが無かった故に、道を論じたりと言うような言挙げをしないことが国柄であるとしている。
仏教や儒教については、日本古来の良い習慣が、外国からの風潮に紛れたり、弊害を受けたりしている現状を非難し、世の中は全て合理的に解釈や説明が出来るものではなく、古伝説に基づき実利的に物事は考えるべきとしている。神には善きも悪しきもあって、人知では測りがたく、世の中の不条理なことは禍津日神の御心によるものとしている。即ち、神とは①凡そすぐれて霊異有る存在であり、②多種多様であり、③人知では測りがたいものとしている。
また、幕藩体制を説明するのに、大国主神との幽契によって顕露事は皇孫、幽事は大国主神としたことを基本に、顕露事を「国勢の行い方」と「惣体の人の行うべき事業」に分け、天皇の親政は前述の通りだが、「惣体の人の行うべき事業」を国政委任という手法をとって行っていると考えている。
神道に関しては、神授神伝の大道であり、上古からの大御手振りと位置づけている。そして、秘伝・秘技などを否定し、教誡を無用のものとし、神祇祭祀・祖先崇拝などひたすら神に仕える生活を求め、人の力で解決できない世の不条理に座視できないと、直毘魂にすがり直し清めたいと願っている。
平田篤胤は宣長の継承者を自認し、神霊にはそれぞれの役割があるとして、多様化した宗教を統一していこうとした。特に関心を持ったことが死後の世界であった(宣長が霊魂の行方を黄泉の国としているのに対して、死後の霊魂は地上に存在しているとし、研究の中心になっていった。)。幽契によって幽事を主宰するのは大国主神であるとし(人が生前なした善悪は産土神を通じて大国主命神に報告され、死後の運命が決まるとしている。)、また、祖霊崇拝は仏教的ではなく神に関する儀礼であるとし、死後観について影響力の強かった仏教の言説を退けた。そして、世界のあらゆるものを神秩序から説明しようとし、本来の純粋な在り方の究明を図り、神仏習合以前の信仰を明らかにしようとする人々の共感を得た。晩年に白川家と接近して、平田派は勢力を拡げ、このことが国学者たちを神仏分離運動や教派神道に向かわせた。
一 江戸期の神道
江戸時代に入ると社会・経済が安定を取り戻し、国家的祭祀が復興されるようになってきた。そして、神道制度の復活・整備の基盤造りが行われ始めた。そのような中で神道説が諸説広まり、また、神道思想から仏教思想を取り除こうとする流れも確立してくる。この時代の代表的なものを簡略に示しておく。
伯家神道 吉田神道によりその地位を脅かされた白川家は、花山天皇から出た家柄で神祇伯(神祇官の長官)を世襲した名門であった。宮中に伝わる各種の神事作法や独特の古伝や祭祀のやり方を広め、家伝の文書を整理して、「伯家部類」「神祇家学則」「神道通国弁義」などを発表した。これにより巷に広まっている他の神道との違いを明確にし、伯家神道を権威付けようとした。この神道を簡略に述べると、古今通じて変わらぬ根本原則で、どこの国にあっても通用する大道であり、また神道と武道は同じであるとし、「古事記」「日本書紀」「古語拾遺」を研鑚することにより身を修め、家を整え、国を治める要領を理解できるとしている。
吉川神道 吉川惟足が吉田神道の影響を受け(萩原兼従から唯受一人の伝授である四重奥秘を授けられる。また、天地万物の根元を国常立神としている。)、儒教思想を取り入れて仏教の要素を取り除き吉田神道を再編成したものである。特徴としては、行法神道(祭事や日常の神明奉仕を行うこと。)と理学神道(世を治め政治を行うこと。)に分け、理学神道こそ本当の神道であるとした。また、陰陽五行説を取り入れ、土と金の調和を大事と考え、それは、人の心にあっては敬(つつしみ)と義に当たり倫理の大切さを強調し、国体の護持と君臣の道の遵守を神道の本質とした。
垂下神道 吉川神道を継承(陰陽五行説を同じく説き、また、神道を天照大神の道と猿田彦神の教えとし、宇宙本体と道徳の根元を国常立神として「天神唯一の理」を説いた。)して山崎闇斎(元臨済宗の僧)が唱道した。闇斎は、神道は理論より信仰であるとし、「三種神宝伝」「神籬磐境伝」を伝え、儒教の大義名分の立場から天照大神への信仰とその子孫が統治する道を神道とし、天皇崇拝・皇室の絶対化を強調した。これを受け後に多くの尊皇家を育てることとなった(明治維新への伏線となった。)。
土御門神道 日本古来の神道的行事と密接な関係を持っていた陰陽道を元にしており、阿倍晴明の末裔である土御門泰福が垂下神道に学び広めた説である。泰山府君祭・天曹地府祭と言った特殊神事を行い、天下太平、天皇安穏、人々の安楽の祈願を中心とした。
この吉川神道・垂下神道の流れを受けて起こったのが復古神道(これら儒家神道を「漢意」として批判し、純粋な神道思想を求めた国学)である。
八 戦国時代から徳川幕府へ(在地領主制からお国替えへ)
応仁の乱などの動乱期に多くの神社は衰退していった。神宮・朝廷すら例外ではなかった。寛正五年(一四六四)に即位した後土御門天皇の頃からおよそ四代の間、式年遷宮は百二十四年、神嘗祭例幣が百八十年、大嘗祭に至っては二百二十一年途絶えてしまっている。この事は、式年遷宮を二十年ごとに行う理由として言われている技術等の継承・伝統の護持などの意味を失わせてしまう(天正十三年(一五八五)の復興から長い時間を掛けて本来の姿を求めて諸先輩方が努力し、現在に至っているが、その間本来の姿でなくても遷宮と認めてきているし、途絶えた間、儲殿や仮殿で凌いでおり、それで済むのであればそれで良いと考える者も少なくないだろう。また、完全な継承が出来ていないのであれば、一般の神社が、茅葺きや柿葺きや檜皮葺の屋根を銅板に張り替えざるを得ない状況になっているのと同様に神宮も銅板ではなぜだめなのかとの主張も出て来るであろう。どうしても二十年毎でなければならない理由をもっと説得力のあるものにしていかなければならないのではないか。尚、技術や伝統行事所作等に関してはデジタル機器で保存が可能である。)。また、大嘗祭を行わなくても正統な天皇として認められていたわけで、大嘗祭の存在意義についても疑義が生じる。この時代が現在の教学を更に複雑なものにしている。
ただ、在地領主はそれぞれの氏神を始め地縁の神社を崇拝し、保護しようとしていた。そのおかげで持ち直すことの出来た神社も多々あったようである。しかし、慶長五年(一六○○)の関ケ原の戦いによって、旧来の在地領主の領地も収公となった。新しく入国した領主の有り様は様々で広島を例に見ると、安芸国においては福島家・浅野家であるが、どちらも村の氏神社との関係を持とうとしなかった。それどころか、一部の神社を除いて(広島東照宮と広島三の丸に稲荷神社を建立し、宮島の厳島神社と豊田郡豊町の宇津神社を保護し、江戸末期には浅野氏の始祖を祀る饒津神社を建立したのみ)社領も安堵せず、これにより中世の在地領主たちが護持してきた氏神社は、大檀那として造営、修理する者を失い、経済基盤が崩れていった。氏神社の祭祀経費も全く無くなり、十七世紀の神社の大荒廃期を迎えることになった。
これとは逆に、備後国では福島氏改易後、水野氏の領国となり、浅野氏とは異なって十七世紀造営の本殿がかなり残っており、神社の造営をかなり援助したことが分かる。吉備津神社は中世末期にはかなり荒廃し、福島正則時代には大鳥居も奪取されて広島城大手門の門柱になるような状況であったが、水野氏によって完全な復興を見た。水野氏は、鞆ノ浦の祇園社(現、沼名前神社)や城下の福山八幡宮も復興しており、水野氏によって復興がなされた神社は数多い。
このように領主により神社の盛衰はかなり異なるが、徳川政権が安定してくると、全体としては、経済状況も良くなり一般の人々の暮らしと共に回復の道を歩むこととなった。藩による護持と一般の人々による維持に分化していった時期と言えるであろう。一般の人々による維持は現代の神社の有り様に似通っている。
七 吉田神道(元本宗源神道)
室町後期、吉田兼倶によって大成されたが、これは兼倶以前の吉田家の家学としての古典研究や慈遍等の業績の積み上げである。吉田家は卜部氏の末裔で亀卜を司る家柄であり、吉田神社の世襲神主であり、卜部兼方、卜部兼好、慈遍などの学者が出ている。吉田神社は、平安中期に藤原氏が春日大社の氏神を京都の神楽岡西麓の吉田山に勧請したのが始まりであり繁栄したが、兼倶の頃になるとすっかり荒廃していた(吉田神社だけでなく応仁の乱などの動乱期に多くの神社は衰退し、重要な国家的祭祀も中絶していった。)。兼倶の宗教・政治の卓越した才能(戦火で外宮が焼け御神体紛失の噂が流れた時、戦乱を嫌って吉田神社に神器と共に移られたので調査して貰いたいと朝廷に願ったことなど)により一挙に総本山的地位の基礎を築きあげた。更に、兼倶は大元尊神(国常立尊=天御中主神)を祀るために大元宮を建てその周囲に日本国中の神々を祀り、神祇伯を世襲してきた白川家に対抗して、「神祇官領長上」を僭称し、それを幕府に承認させたのであった。
吉田家は中世末期から宗源宣旨・狩衣許状・継目許状(神道裁許状)などを出して支配力を拡大していたが、家元的地位は寛文五年(一六六五)の「諸社禰宜神主法度」第三条で吉田家の許可による装束の着用との明記により、確立し、幕末まで続く。
思想面から見ていくと、神とはすべてを超越した存在であり、神は霊的存在にして万物(善悪、邪正を問わず)に宿り、物心すべての存在は神と共にあるとし、すべての現象は神明によるものと考え、その根元が神道であるとしている。また、辺土思想や本地垂迹説に対抗すべく、根本枝葉花実説(日本から種子を生じ、中国で枝葉を現し、印度にて花実を開く。仏教は万法の花実で、儒教は万法の枝葉で、神道は万法の根元であるとし、仏教も儒教も神道から分かれたもので、神道が根本であることを明らかにするために日本にやって来たものであるとする説)により神主仏従論を展開している。更に、元本宗源神道は顕露教と穏幽教に大別され、顕露教とは先代旧事本記・古事記・日本書紀の研究や各種祭祀を延喜式祝詞を持って行うもので、穏幽教とは顕露教に無い神秘的な奥義で万宗・諸源の両壇を設けて、神道三元三妙三行という加持を行った。
関連サイト http://www.geocities.jp/miniuzi0502/jinjadistant/kyoto/daigenkyu.html
六 正統
「神皇正統記」は北畠親房によって皇位が神代からの正しい皇統、また道理によって受け伝えられてきたことを明らかにしようとするもので、北畠親房の国体論を表す一方で後村上天皇の参考に資する目的で著されている。度会家行と親交の深かった親房は、伊勢神道を基盤に(特に「類聚神祇本源」を参考に)して、「元元集」を表し、伊勢神道の「正直」という徳目を中心に神道説を述べ、同時期の「二十一社記」では神明奉仕の心得として「身正しく心明なれば我身即神也…」と述べている。南北朝時代は、後嵯峨天皇が二人の皇子(後深草天皇・亀山天皇)に対する愛情の違いで正統を逸脱したことから生じたといえる。後深草上皇に同情した幕府が間に入り、後深草上皇の子を亀山天皇の養子とし、次の天皇とする案を示し、両者これに合意した。そして、後深草上皇の系統を持明院統、亀山天皇の系統を大覚寺統と呼び、ほぼ交互に皇位を譲り合っていたが、誰にでも想像できるように問題が生じ、後醍醐天皇の頃が互いのフラストレーションを解消すべき時期にきていた様に思われる。後醍醐天皇は朱子学(宋学)に力を注ぎ正統意識と大義名分の依代にしていた。朱子学に基づくものなのか朱子学の理念を利用したのかは定かではないものの、天皇の地位が幕府によって決められることを認めず、ひいては幕府に従う必要はないとし、更に自分が正統であるから持明院統を否定する立場と信念を持っていた。また後醍醐天皇は、密教に傾倒し、「聖天供」を自ら行うほどで、倒幕の祈祷を別の祈願の名を借りて行っていた。加えて、比叡山や東大寺興福寺などを引き込むために大日如来修復など様々な画策を行っていた。寺社の力を後醍醐天皇が重く見ていた表れであろう。親房自体は、検非違使庁の別当に任ぜられ、正中の変・元弘の変の後長子顕家は後陸奥守に任ぜられた。元弘の変の後、北条の残党によって各地で反乱が起き、中先代の乱で北条時行が鎌倉を奪還した。足利尊氏は独断で鎌倉を奪回し、天皇の帰京命令にも従わなかった為に、天皇は新田義貞に尊氏征伐をさせた。尊氏は、義貞勢を破ったが、北畠顕家勢に追われて九州に逃げた。尊氏が志気を上げるために考えたのが「錦の御旗」である。備後の鞆に着いたとき醍醐寺三宝院賢俊から持明院統の光厳上皇の院宣を受けた。これにより尊氏勢は朝敵から正統になり、楠木勢は破れ、比叡山で抵抗を続けていた後醍醐天皇は光明天皇に三種神器を授けた。暦応元年・延元三年(一三三八)顕家・義貞が相次いで戦死し、翌年、後醍醐天皇が崩御された。親房はその訃報を常陸国の筑波山南禄の小田城で聞き、自らが南朝を支えなければならない覚悟をする。尊氏と弟直義は後醍醐天皇の怨霊を恐れ夢窓疎石の勧めに従い禅宗の天龍寺を建立した。親房は関城に移り結城一族に協力を求めたが、逆に陥落させられ吉野に戻ることになった。尊氏と直義の兄弟対決が表面化し親房は偽りの和議で直義の帰順を許し、兄弟対決となり尊氏勢は総崩れとなり直義との和議となったが、執事高兄弟が戦死し、天下三分の形成(京に尊氏・義詮、吉野に親房、越前に直義)になった。しかし、尊氏は直義を討つための大義名分を得るために親房と和睦し、直義追討の綸旨と「公家のことは南朝方の沙汰、武家のことは尊氏方の管領」との勅許を受け、北朝を見捨て、元号を正平に統一(正平一統)した。正平七年(一三五二)相模早河尻で尊氏が勝利し、直義と和睦したが間もなく直義は毒殺された。正平九年(一三五四)親房も世を去った。その頃(一三五五)南朝方は各地で蜂起し、南朝は尊氏の実子で直義の養子直冬を大将として京・鎌倉を制圧した。尊氏・義詮は勢力を立て直し奪還したが、京に天皇はなく、光厳院の第三皇子弥仁を擁立して、後光厳天皇とした。しかし、三種の神器が足らない践祚であったために権威は低下していった。八幡に落ちた直冬は更に戦うか否かに群議で決せず八幡の託宣を求めたが「垂乳根の親を護る神がこの願いに応えることは出来ない」とのことで直冬勢は分解してしまった。尊氏の死(一三五八)後、義詮は九州以外のほぼ全域を勢力圏とし、幕府は安定し始めた。
この時代で見るべきものは、第一に、承久の変の時上皇等が流刑された状況と違い、後醍醐天皇が何度破れても立ち上がり信念を貫き通した姿勢である。多くの人は世間体や人の目を気にしてその場を取り繕い済ますであろうが、危機を迎えた時代こそその姿勢を見倣わなければならない。第二には、リーダーに現実的な力が無くても、「三種神器」・「錦の御旗(綸旨・院宣)」・「託宣」と言った「正統」を手に入れることにより実力以上の力を示すことが出来たことである。今の時代でも、伝統の中にある力を信じることが大切である。第三には、自分で望みを達成することが出来なくても、全身全霊をかけて努力をしていれば、後に続く誰かが成し遂げてくれるだろうという楠木正成の「七生報国」的な考え方である。自分一代で事を成就すると考えるのではなく長いスパンの上に立った行動が大切であることを示している。法治社会では法こそが正統であるが時代の歯車が少し歪めば法が絶対ではない。そうなった時に神代から繋がる正統が復活しなければならなくなるであろう。このような生き方・考え方を日々に生かしたいものである。
その後、義満の時代になると武士の棟梁として武力で山名氏、大内氏を征伐したが、宗教を原理にしていた勢力には別の方法を採った。伊勢の北畠親能に対しては、伊勢神宮に参拝し、莫大な寄付を行った。大和では、春日大社・東大寺・興福寺に、比叡山では、延暦寺・日吉神社に、紀州では、高野山・粉河寺などに参拝巡礼し、同じく莫大な寄付をやってのけた。公家たちに対してはアメと鞭を使い分けることを毅然とやってのけた。このことで南朝方は義満に敬服し、幕府は安泰な状態になった。日本において、力によって相手を打ちのめすだけでは、安定を得ることが出来ない、相手の弱みを利用したり、相手の欲しているものを相手が感服するぐらいに与えることで初めてリーダーになれるのではないだろうか。
五 宮座
氏族(血縁的関係)の祖先神であった氏神は、水稲農業を背景にムラという共同体(地縁的関係)による生活を連綿と続けているうちに、産土の神・鎮守の神と合一化してきた。故に地域に即した神であっても氏神であり、地縁的集団であっても氏子集団と呼ばれるようになったのである。古くは、政治、財物、生産等々何事によらず氏神を中心に行われ強固な共同体であった。それは、鎌倉時代以降、その土地に新転入してきた者たちよりも特別な世襲的地位を持つようになり、神社祭祀組織の一形態として近畿地方を中心に全国に分布する。それは「宮座」と呼ばれ氏子全体を代表して氏神に奉仕すると共に、氏子全体に対する神の代行者としての地位を占めていった。村落の神社に於て見られる宮座の名称は、宮座の他に、頭屋、祷屋、塔屋などと書く他、宮講、氏神講などと云われ、土地によって違いがある。
この祭祀組織は当屋制であり、一年交代の当番制をとるものである。宮座の座員の中から、年毎に頭屋とか頭人を選び出して祭祀を主宰せしむる場合が多い。頭屋・頭人は、厳しい物忌の生活を行い祭祀の厳修につとめ、祭のあと頭屋渡しの儀式が行われることにより、次の祭りの頭屋が決まり、神饌米も、頭人や座員が耕作していた。氏子の神社祭祀や維持への積極的な参加が見られるようになり、こういった組織が全国的に普及して、村祭の共同体が広く強く組織化され、今日に於ける神社と氏子との密接な関係の基盤が築かれていった。
昨今の激しい社会変化により、信教の自由も伴い、氏子意識が薄れていく中、地方における過疎も加味され宮座の維持には大きな努力が必要とされている。僅か五十年そこそこの時代の変化で意識も形態も失うことがあってはならないと思う反面、日本のアイデンティティーは失われることなく、本来あるべき姿(正統)は何時の時代か復興されるとも思う。正統の中でも、天皇の正統や国体やリーダーの在り方について深く考えたのが北畠親房であろう。
四 和光同塵
和光同塵とは、仏が光を和らげて煩悩に満ちた俗世の塵にまみれた姿となって顕現し、衆生を救済するという思想で、日本では神の性格について説く際によく用いられた。果報が薄く、機根の劣っている辺土である日本の人間を救うために時処機相応の和光の方便として現れたのが神であるということであろう。更に進めて、仏が人として生前に苦労をし、死後神として祀られるという信仰をも形成していった。「愚管抄」の中の「観音が和光同塵して菅原道真になり、憤死後、天神として祀られる。」といったようなものである。
弘安六年(一二八三)に成立した無住一円の『沙石集』には、「本地垂迹その意同じけれども、機にのぞむ利益、暫く勝劣あるべし。わが国の利益は垂迹のおもて猶すぐれて御坐すをや。…中略…青き事は藍よりいでて藍よりも青きがごとく、尊き事は仏よりいでて仏よりもたふときは、ただ和光神明の慈悲利益の色なるをや。」とあり、一般の民衆にとって、神と仏のどちらが本であろうと従であろうとあまり関わりなく、自分達に直接関り、利益を与えてくれる神仏に興味を持つと同時に、それを本当の崇敬の対象として受け止めていたと言えよう。
室町時代に入ると、仏が神の姿を借りて衆生救済に赴くという「本地物」と呼ばれる作品群(『神道集』、『群書類従』や『続群書類従』に収載されている諸社の縁起)が多く語られている。その縁起に重点を置いたのが縁起神道である。縁起神道は、各神社の御祭神の神徳の高揚をはかろうとしたものである。伊勢の御師や熊野比丘尼をはじめ、歩き巫女、勧進聖、先達、神人、説経聖、修験者、絵解法師などと称される回国遊行の宗教者や芸能者が、様々な縁起を語り歩き、あるいは、絵を見せながら縁起を語り、一般民衆の中に唱導していった。その縁起の例として次のものを揚げておく。
『神道集』収載の「三島大明神の事」には、池溝を掘り、橋をかけ、渡し舟や湯屋を設けて、民衆の労をねぎらうとともに、生活を助ける神が語られ、「熊野本地」では、印度に於いて十一面観音が和光同塵した美女は、国王の千人の妃の一人となって殊の外寵愛を受けて身ごもったので九百九十九人の妃に妬まれて山中で首を切られた。しかし、首無き母は産まれた子に乳をふくませ育て、その子が大きくなったとき蘇生してその子と共に日本に飛来し、熊野山中に鎮まったとしている。
律令時代に於いて、神職の務めは、極めて厳格な斎戒のもとに祭祀を奉仕することが第一であり、第二に神域を清浄に保ち、施設の管理を正しく行うことであった。しかし、世の中が不安定になっていったことと家の発達につれて共同体的社会を基盤にしていた神社は、より広い氏子、崇敬者等を獲得するため、神職や御師の活躍が要求されてきた。氏族や共同体の守護神である神々に対して、神と民衆を結びつける必要が生じた。如何なる形で一般大衆に根を下ろすことが出来るかが命題であったと言えよう。また、それはあくまで大衆の捉え方であり上から押しつけることの出来るものではなかったであろう。次に、根を下ろしていった一形態として、宮座について述べる。