玖波 大歳神社

神社の豆知識

三 中世における変化  三 神=心合一

2012-01-25 20:58:03 | 日記・エッセイ・コラム

 三 神=心合一
 権神・実神・本覚神という分類の中で実神こそ神の本質であり仏の利生を示すものであるという主張が現れる。一方で神を仏教における煩悩を生み出す三毒(貪欲・瞋恚・愚癡)の象徴の蛇とし、他方で仏の化身としている。故に神は衆生の煩悩の形象化した姿で衆生の心中に常に内在しており、同時に仏が垂迹した姿とする説である。神が衆生の中に内在するという考え方は、仏教の「仏性」という考え方から出ていると言われている。これは、衆生が成仏可能なのは、本来的に誰にでも仏になるべき因子が内在しているというもので、これが発展して、すべての衆生は本来覚っている存在であり、必要なことはそれを自覚することであるという本覚思想になり、神=心合一となった。それが実神権神の区別の意味を失わせ、仏が神の姿を借りて衆生救済をするという和光同塵へと移っていく。


三 中世における変化  二 末法思想

2012-01-25 20:56:26 | 日記・エッセイ・コラム

 二 末法思想
 平氏が朝廷の中で藤原氏を手本にしたような政権作りを行ったのに対し、源氏は可能な限り朝廷の認可による権力の社会的正当性を認めさせていった。公権力二元化は社会的機能を分担することで成立し、時代は力の均衡状態で揺れ動く状態が中世を通して続いていった。伝統的な共同体維持制度と中国から採り入れた律令制度との二重構造社会に公権力の二元化がのしかかり精神的な救いを求める時代になってきたとも言える。末法辺土思想もこの頃から注目されてきた。
 釈迦が正法の時代、像法の時代、末法の時代の時機に応じて説いたという思想が時処機相応思想で、正法の時代とは釈迦の教法が世に行われ、大衆の機根も優れ、修行によって証果を得ることのできる時代、像法の時代とは教法が衰え相似の像法が代わりに現れ、大衆の機根も弱まり、修行をするもその証果を得ることのできない時代、末法の時代とは大衆の機根薄く濁悪な世相になり教法のみがむなしく残る時代と言われている。辺土思想とは、須弥山を中心に離れるにしたがい果報は薄く、機根は劣っているとし、南閻浮周辺の粟散辺土の片州日本は須弥世界の中で最も果報は薄く、機根は劣っている人間の生まれ住む所とし、最澄はこの日本に相応しい教えは法華経であるとした。
 ここで天台宗の僧侶である慈円の思想について考えてみる。慈円は藤原忠通の子で、平氏滅亡の際、新帝即位に三種の神器が必須条件であるとした九条兼実の弟である。九条兼実が日記「玉葉」で春日大明神の冥助・天照大神と春日大明神の冥約(幽契)を語っており、その影響を受けて、承久の乱の少し前に「愚管抄」の中で、祖神の冥助・冥約思想を説いている。そのおおよその内容は、正法の時代を神武天皇から成務天皇の間と位置付け、天照大神一神の働きで天皇の親政が行われ、像法の時代を仲哀天皇から後三条天皇の院政開始頃の間と位置づけ、天照大神と春日大明神の二神の冥約により臣下の助けを必要(摂関政治)とする時期とした。次に末法の時代をそれ以降の期間として、前の二神に八幡大菩薩が相談をして、王臣の器量が衰えて武士が現れるも、平氏を滅ぼし、源氏を三代で滅亡させ九条兼実の孫藤原頼経を源氏将軍家の跡継ぎにし、この流れに背けば百王を待たずに天皇家は断絶し、日本も滅びるだろうというものである。このことは、摂政は藤原氏の他に無いことを理とし、動揺する関東武士たちに藤原頼経の将軍継嗣としての正統性を主張している。また後の室町時代の庶民信仰としての三社託宣がある。この信仰は、天照大神を中心として、右に八幡神、左に春日神を配し、神儒仏の融合の立場をとりつつ、正直、清浄、慈悲を強調して、神道教化の展開をはかったものである。
 承久の乱の時幕府側には遠江・信濃以東の地頭御家人が応じ、後鳥羽院側には尾張美濃を含む畿内・近国が応じ、結果は幕府側の勝利に終わった。戦後処理として反幕府方(西国御家人)は所領を没収され、東国武士に恩賞として与えられた。本領を離れ西国の神領に移住した者を西遷御家人と言い、神領地では征服者として支配を行っていった。武家政権の確立であろう。引き続き北条泰時が貞永元年(一二三二)に制定した五十一条の御成敗式目の神社祭祀に関する第一条は有名である。『神は、人の敬に依って威を増し、人は神の徳に依って運を添う。然らば則ち恒例の祭祀、陵夷を致さず。如在の礼奠、怠慢せしむるなかれ。関東御分の国々並びに荘園に於いては、地頭神主等、各其の趣を存し、精誠を致すべきなり。兼ねてまた、封有る社に至っては、代々の符に任せ、小破の時は且つ修理を加え、若し、大破に及びては、子細言上すべし。其の左右の随に、其沙汰有るべし。』としている。また、僧浄光の勧進で長谷の地に大仏の建立を始めた。敬虔な神仏・伝統を守る姿勢が窺える。
 この頃から、有力武将等の積極的な力添えを得ることにより、大社の分霊を各地に奉斎し始めている。先づ、源頼朝の東国進出により、関東一円に数多くの八幡神社が奉斎されるようになる。そして、鎌倉時代末には北条氏の力添えにより、信州の諏訪信仰が関東を中心に、庶民の信仰を得ていた。また千葉氏や大内氏の管内での妙見社信仰、有力な寺院の寺領荘園の増大による守護神たる日吉社や春日社の奉斎、鎌倉時代以降の神明社創建が行われたのである。そして、これらの神々の信仰は、中世、近世を通じ、現代に至るまで、一般の人々の力強い信仰に支えられている。
 また、「平家物語」の「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし」ではないが、時代が下るにつれて、世が衰えるという歴史観に基づいて、一、神武天皇から成務天皇まで、二、仲哀天皇から欽明天皇まで、三、敏達天皇から後一条天皇の御堂の関白まで、四、藤原頼通から鳥羽天皇まで、五、武家の世で源頼朝まで、六、後白河上皇の院政から後鳥羽天皇までに分けて、歴史観の道理を論じている。慈円は他に、和歌論・日本語論を展開している。その内容は、神が仏の垂迹ならば、神が詠い始めた和歌は印度における仏の説いた経と同じであり、印度で梵字で書かれたものを唱え、中国で漢文に翻訳された教典を誦む様に、日本語で和歌を作り神に奉るべきであるというものである。おそらくこの頃から、神前に和歌による歌舞を奉納するようになったのではないだろうか。
 この時処機相応思想と末法辺土思想が、新仏教を生み出すとともに、神国思想と結び付き、日本国に本朝意識を発芽させていった。
 鎌倉時代には曹洞宗(道元)臨済宗(栄西)浄土宗(法然)浄土真宗(親鸞)時宗(一遍)日蓮宗(日蓮)など多くの仏教が発生した。これらの大半は、発生時に神祇崇拝を否定していても教団の発展のためには本地垂迹を受容していった。その方が大衆に受け容れられ易かったため妥協していったのであろう。
 本朝意識の発芽は、元寇によって日本人の国家意識を更に進化させていった。このことは、日本の国体について天照大神の子孫である天皇家の正統性、神の加護、国土の神聖視を再認識させ護持すべきことを求めるに至る。この頃、伊勢神道の中心的な書「神道五部書」が成立している。
 白村江の戦い(六六三)から六百年以上も外国との戦争を忘れていた日本において、蒙古との外交を行うことは日本国の存亡をかけた緊張感の日々であったと想像される。十八歳で執権になった北条時宗の朝廷との駆け引きも全くの手探りであったろうし、戦い自体国内戦しか体験しておらず、文永の役では、暴風雨がなければ勝ち目は殆ど無かったであろう。ただ、幕府にとっては、文永の役が終わる直前に御家人以外の本所一円地の住人にも招集指令を発し、この事で支配権が拡張したとも言える。弘安の役の際には石築地や土塁を積んだり準備を整えていたが恐らくこの時も暴風雨がなければ日本は属国になっていたと思われる。この弘安の役の後、得宗家の専制が強まっていった。しかし、それに反発して様々な職種の者が「悪党」化していった。また、戦後処理の失政などで幕府の基盤は崩れ始めた。


三 中世における変化 一 鎌倉時代初期

2012-01-25 20:55:02 | 日記・エッセイ・コラム

三 中世における変化
 一 鎌倉時代初期
 源頼朝は、神祇祭祀、寺社の造営修理に特に留意していたことが「頼朝朝務条々」から窺える。幕府は、社寺・神官・僧侶・祭祀・法会のことを司る役職として、寺社奉行を置き、伊勢神宮及び鎌倉周辺の名社には奉幣使がたてられた。特に伊勢神宮に対しては、神宝奉行が副えられ、災害や流行病などのために祈祷を行う御祈奉行、様々な神事を奉行する神事奉行、寺社造営を行うとき臨時に設ける造営奉行などを置き、神祇尊重の姿勢をとっていた。
 公家・武家共に財政の苦しい時に経済支援を行うことは非常に難しいことであったと思われるが、少なくともその姿勢は社寺・神祇を第一としていたと推測される。


二 古代社会の変化  四 武士の台頭と伊勢神道の成立

2012-01-24 20:14:37 | 日記・エッセイ・コラム

 四 武士の台頭と伊勢神道の成立
 平安中期になると、私領たる荘園が増加し国家財政の基盤が崩壊していった。一方で地方の在地領主となった者は、自衛策を立て、武力を養っていった。このことは中央における朝儀・神事等をわずかに面目を保たせる程度にしてしまった。しかし、太政官符に「国の大事、祭祀より先はなし」として祭祀の厳修を戒め、延喜臨時祭式等に「凡そ諸国の神社は、破るるに随いて修理せよ」と規定し、神社を守らなければならないという気持ちが窺える。
 武士について言えば、平忠常の反乱(一〇二八)を平定した源頼信が晩年(一〇四六)誉田陵の八幡祠に「告文」を納め祈願をしたとき、武門の野望を吐露したと言われている。このことが清和源氏の氏神として八幡神を仰ぎ崇拝する伝統の始まりと言われている。この頃から武士の勢力が伸長していった。一方で、厳しい租税に苦しんでいた農民たちが自分たちで開墾した田畑を寺社に寄進し、その中から「夏衆」「神人」になる者も出るようになり、寺社は勢力を強めていった。その例として、石清水八幡宮別宮の提訴により国守源則理が流刑にされ、伊勢神宮では御託宣により斎宮寮頭相通夫婦を流刑にし、世俗においても摂関家と並ぶ権力を誇示したことがあげられる。また、摂関家や上層貴族もまた勢力を伸ばそうと荘園(私領)を増加させていった。これに対し、国司たちは荘園の乱立を阻止するために朝廷に荘園停止の法令発布を奏上した。これを受けて朝廷は次々に荘園整理令を発布し、更に農民を荘園に逃げ込まないようにするため租の率を国司の判断に任せず一率にする公田官物率法を制定した。
 院政の頃になると僧兵の対立抗争が繰り返され、朝廷はそれを押さえるため武士の力に頼らざるを得えなくなった。しかし、寺社の武力による行動が高まり、寺の鎮守社の神木や神輿を担いで強訴すること(神木動座・神輿動座)が行われた。このことは、寺の力によって神祇が再び力を盛り返してきたように感じられる。
 十二世紀に入ると法や秩序は力を失い、様々な事柄の解決に武士の力を頼らなければならなくなった。このことは、確実に武士の勢力が確固たるものとなり、保元平治の乱は平氏の時代を生み出した。更に中世になると頼朝は、「義経、行家探索」という名目の基に、平氏全盛の時に作られた国衙行政における軍事指揮官の守護、荘園・公領の検察力を認められた地頭をより強化し、武士による強力な政権作りを始めた。そのため、僧兵などの武力を持つ寺社は、力を維持できたが、そうでない寺社は次第に弱体化していった。その後、各神社は式に規定された公的祭祀を行っているだけでは運営が困難になり、私的祭祀も積極的に行わざるを得なくなってきた。
 伊勢神宮においては、皇祖神が祀ってあり、天皇のみが祭祀の主体者であり私的祭祀は禁止されていた(私幣禁断)のだが、原理原則だけでは維持が困難になり、平安末期には伊勢の下級神職も個人祈願を取り次ぐようになったり、権禰宜は在地領主の私的祈祷に応じるようになった。これが伊勢の御師の始まりであり、祓いを行うとき数取りに用いた祓串を箱に納めて願主に届けたのが御祓大麻であり神宮大麻の起源である。
 この頃まで私有財産としての「家」の継承は殆どなかった。貴族階級においては、国家役人には男女問わず公的「家」が設置されていた。この「家」は、役職に支給されるもので資格が無くなれば回収され、継承されるものではなかった。しかし、九世紀後半から十一世紀後半にかけ次第に父子継承が芽生え、強化され、家柄・家格が定着してくる。女性は出仕することが少なくなり夫の家に包摂されるようになる。これは女性社会から男性社会への変化を迎えたことを表す。豪族も在地領主として勢力拡大のために地域に根を下ろして、父子継承を成立させ、一般の人々も「在家」を単位とした新租税が始まっていることから「家」の成立が見えてきた。
 中央の動揺と混乱が下々にも反映し、厳しい経済関係が今までの共同体に依存した状態だけでは破綻してしまうような危機感を深めていった。そのために、どの階級も経済的に安定した生活と社会的地位の向上を目指して、夫婦関係・親子関係を強化した「家」を繁栄させる努力をしていたのであろう。また、この「家」の成立と個人祈願の広がりは需要と供給のバランスとその時代の経済推移とに相まっている。
 伊勢神宮においては、困難な局面を迎える度に、その時々の情勢を的確に判断をすることで、奉仕する神の神徳を高揚できるか考え努力しており、清浄・正直を旨に祭祀を厳修していたこと、国家的国民的自覚を失わなかったことに見習うべき点が大いにある。ただ、変わるべきでなかった点・変わって良かった点などを第二章の五で考えていきたい。
 伊勢神道は、前述の内容に加え、次のことを説いている。外宮祀官度会氏を中心として、神宮の古伝承に両部神道の胎金・太極図説的考え(天照皇大神を胎蔵界の大日如来・光明大梵天王・日天子【火】とし、豊受大神を金剛界の大日如来・尸棄大梵天王・月天子【水】)に基づいて内宮外宮が合体して大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成し(二宮一光の理)、一方で五行説によって、外宮を水徳、内宮を火徳に配し、五行相克説に基づけば、水克火であることから外宮の優越を説く。また、豊受大神を天御中主神と同体として、神統譜からも外宮の先行を強調している。また、「三角柏伝記」「中臣祓訓解」では、神を、本覚神、不覚神、始覚神に分類して、本覚神を「本来清浄の理性、常住不変の妙躰」と定義し、伊勢神宮のみがこれに当たるとし、不覚神を実神、始覚神を権神としている。


二 古代社会の変化  三 仏と神の両立

2012-01-24 20:11:08 | 日記・エッセイ・コラム

 三 仏と神の両立
 推古天皇と厩戸皇子は蘇我氏との関係からも、また、十七条の憲法の二条「篤く三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧なり」からも仏教を国家的な宗教にしていったことは明らかである。しかし、「古来、皇祖の天皇たちが、世を治めたもうに、つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣は心を尽くしてよく神祇を拝するように。」と言われ、皇子と大臣は百寮を率いて神祇を祀り拝された。一説には、「十七条の憲法に神についての規定が何も無いのは、神は皇子を始めそれぞれの先祖のことなので、不滅であることは絶対のことであり、大和の国の何人も疎かに出来るはずが無いことは明白で憲法に取り上げることではなかった。逆に、随帝国の統一に危機感を抱き政治の安定と強化を図る目的で仏教をすすめ、その他にも儒教・法家・道家と言った文化思想哲学を取り入れようとした。」とするものがあり、それは素直に当時の状況を捉えたものであるように思う。
 後の孝徳天皇は仏法を尊んで神道を軽んじられたとされているが、天武天皇の時代になると祈年祭を始め広瀬竜田の神祭り、大祓、大嘗祭等々の祭祀が行われたことが頻繁に出てきている。このことは、天皇が帰依しても、仏教が隆盛しても、祭祀は全く途切れることなく連綿と続けられていることを示している。それどころか仏教が定着するに伴い、今までの神祇制度を「神道」として国家的祭祀・信仰として自覚的に意識されてきた。そしてそれは、「飛鳥浄御原令」(六八九)「大宝令」(七〇一)「養老令」(七一八)の神祇令により法的に整備・確立されていくことになる。
 神仏習合の例として、気比神宮にまつわる伝説に『奈良時代、藤原不比等の夢に気比神宮の祭神(伊奢沙別命)が現れて「神の身に自分は生まれてしまったけれども、仏法を聞いて悟りを開きたい。是非神社の横にお寺を造ってほしい」とのお告げがあり、藤原不比等は気比神宮の横に気比神宮寺を造った。』というのがある。これが本地垂迹の初例であろう。
 本地垂迹説では、無始無終で絶対的・理念的な存在である仏(ホトケ)を「本地」と言い、衆生を救うために歴史的・現実的に具体的な形で現れることを「垂迹」という。それが真理であれば、日本においても当然起こるべきで、日本の在来の神はすべて仏が垂迹した姿である。故に、神と仏は同じであるというのである。そのようなことで、まず、神は仏法によって悟りを開き、菩薩になることができ、それが宇佐八幡大菩薩などの八幡宮に代表されるものである。更に時代が進むと神と仏は同じもの(神は仏が仮の姿で現れたもの)となっていった。これが熊野権現・東照権現などの権現である。その上、神の中には仏を守る法相擁護の神になったものもある。その例として、藤原氏の氏神である春日の神の逸話「春日権現験記」などがある。現代巷では、尊く偉い死者を神と祀り、一般の近親者を仏ということがよくある。なんとなく本地垂迹が逆転したような思いになる。
 律令制度のもと労役のために多くの人々が動員されたが、期限が過ぎても苦しい生活が待っている故郷に帰ろうとせず、都やその周辺に留まり流民化していった。行基ら一部の僧侶は奇跡や呪術を駆使して民衆布教を行い、流民救済を行った。朝廷はこれを邪教として弾圧していったが、民衆の支持を得ており、聖武天皇は、東大寺大仏建立にその力を利用した。この聖武天皇は大変仏教を重んじ大切にしていたが、だからといって神を粗末にしていたわけでもない。東大寺建立のために左大臣橘諸兄を伊勢神宮に遣わし、建立の御神許を請いに行かせている。また、宇佐八幡にも勅使を出して託宣を得さしている。このことは、神を上位に置いていることを示している。
 称徳天皇の時代、僧侶道鏡が政治を行うようになり、天皇は「仏法を護るのが神である。」と詔され、皇室守護神も仏教政治の影響を受けるようになる。しかし、宝亀元年(七七〇)に天皇崩御と共に道鏡が失脚し、反動として伊勢の大神宮寺が神宮の遠方に移されるなど、仏教重視から神祇尊重へと移行していったと思える。この後、平安時代に入っていくと「神道」も「仏教」も新たな展開をしていく。
 この時期学問として、また哲学としての仏教が、それまで行っていなかった加持祈祷を盛んに行うようになってきた。その代表例が天台宗と真言宗と言えよう。どちらも護摩を焚くことを常として教義に関する研究の充実をあまりしていなかったようである。その天台宗・真言宗が神仏混淆の理論を発芽させていくこととなる。
 最澄が帰朝(八〇五)して比叡山にて天台宗を開いたとき、唐の天台宗国清寺に祀られている山王祠(釈迦が法華経を説いたという印度の霊鷲山山王説もある。)を手本に大山咋神を祀る日吉神社を山王権現としたと言われている。また、その弟子円珍の時から法相擁護の神として祀られたと言う説もある。
 翌年空海が帰朝(八〇六)し、高野山に真言宗を開いたとき、丹生明神の託宣を受けて鎮守社として丹生都比売社を祀ったとされる。これらが後に山王一実神道・両部神道になっていく。(両部神道の名は、密教において、宇宙は大日如来の顕現で、それを中心に諸仏・諸菩薩・諸明王や守護神・鬼神を密教の二大法門である金剛界と胎蔵界に分け、配していることになっており、この金剛と胎蔵の両部から付けたものである。)


二 古代社会の変化  二 仏教の伝来

2012-01-24 20:07:54 | 日記・エッセイ・コラム

 二 仏教の伝来
 仏教は六世紀欽明天皇の頃(実際には帰化人等の関係もあってもっと前から日本に入っていたと考える方が自然だと思われるが)に伝来した。その中心が大臣の蘇我稲目である。
 日本書紀によると、欽明天皇は、百済の聖明王から釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻献上された。その時天皇は、仏を広く礼拝することの功徳について使者を通じて聞き、群臣に対し「祀るべきかどうか。」を尋ねられたそうで、開明派の蘇我稲目は「西の国の諸国は皆礼拝しています。豊秋の日本だけがそれに背くべきでしょうか。」と、国粋派の物部大連尾輿・中臣連鎌子は「わが帝の天下に王としておいでになるのは、常に天地社稷の百八十神を春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。今初めて蕃神(仏)を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りをうけることになるでしょう。」と応えられ、天皇は、「それでは願人の稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう。」と言われた。稲目は、喜んで小墾田の家に安置し、向原の家を清めて寺としたが、この後国に疫病がはやり、若死にする者が多く続き、物部大連尾輿・中臣連鎌子は「あのとき、臣の意見を用いられなくて、この病死を招きました。今もとに返されたら、きっとよいことがあるでしょう。仏を早く投げ捨てて、後の福を願うべきです。」と進言し、天皇は、「申すようにせよ。」と言われ、役人はそれにより、仏像を難波の堀江に流し捨て、寺に火をつけ、余すことなく焼いた。
 敏達天皇の時にも同様なことが起こった。大臣の蘇我馬子は鹿深臣から弥勒菩薩の石像一体を佐伯連から仏像一体を請い受け、仏法の師として高麗の人恵便を選び、善信尼(嶋)禅蔵尼(豊女)恵善尼(石女)三人を出家させ、ひとり仏法に帰依した。その後石川の家に仏殿を造った頃から仏法は広まり始めた。この頃また、疫病が流行り、物部弓削守屋大連・中臣勝海大夫は「どうして私どもの申し上げたことをお用いにならないのですか。欽明天皇より陛下の代に至るまで、疫病が流行し、国民も死に絶えそうなのは、ひとえに蘇我氏が仏法を広めたことによるものに相違ありませぬ」と申し上げ、天皇は詔して、「これは明白である。早速仏法をやめよ。」と言われた。物部弓削守屋大連は、自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、その塔を切り倒させ火をつけて焼き、同時に仏像と仏殿も焼いた。そして、焼け残った仏像を集めて、鞋波の堀江に捨てさせ、更に尼たちを鞭うつ刑に処した。その後、天皇と物部弓削守屋大連が疱瘡に冒され、疱瘡で死ぬ者が国に満ちた。国民はひそかに「これは仏像を焼いた罪だろう。」と語り合った。
 馬子宿爾は、「私の病気が重く、今に至るもなおりません。仏の力を蒙らなくては、治ることは難しいでしょう。」と天皇に申し上げたら、「お前一人で仏法を行いなさい。他の人にはさせてはならぬ。」と言われ、三人の尼も返し渡された。馬子宿禰はこれを受けて喜び感歎し、三人の尼を拝み、新しく寺院を造り、仏像を迎え入れ供養した。
 用明天皇は仏法を信じ、神道を尊ばれたとあり、文献として初めて「神道」の文字が出てきた。天皇が病んだ時、仏・法・僧の三宝に帰依したい旨を示すと守屋大連と中臣勝海連は「国つ神に背いて他国の神を敬うのか。このようなことは今までに聞いたことがない。」と言い、馬子大臣は「詔に従って協力すべきだ。」と言い、穴穂部皇子が豊国法師をつれ内裏に入られた。これにより両者は衝突し中臣勝海連が殺された。そして、崇峻天皇の時、馬子大臣は守屋大連を滅ぼそうと謀り、厩戸皇子等と軍勢を率いたが、守屋大連の軍勢は勢いが強く三度退却し、このままでは負けるかも知れないと感じ、厩戸皇子は護世四王に、守屋大連は諸天王・大神王に「勝たせて下さったらそれぞれのために寺塔を建てる。」と誓いを立て願を掛けた。守屋大連等は殺され、乱は収まり四天王寺・法興寺等を誓願通りに建てた。
 霊の存在を大前提としている時代に「国つ神の怒りを受けるであろう」とまで言われても仏教を取り入れようとした蘇我氏の意図するところは何だったのだろうか。第一には、素直に仏法の魅力に取り憑かれ信仰心を深めたと考えることも出来るが、馬子大臣の出家後の悪逆の行為は信仰心を感じさせない。第二には、蘇我氏は三韓征伐で貢献のあった武内宿禰の子孫とされているが、石河宿禰の後から高麗までの実体が不明瞭で百済からの帰化人との説が有り、朝鮮半島の情勢についても過敏で、本拠地についても諸説有り、稲目の様子は、大伴氏、葛城氏、物部氏と比較して新興勢力のような存在であったように思われる。また、稲目の頃に急速に勢力を増してきたのは積極的に皇族と姻戚関係を結んだためで、その動きの速さは古豪とは思えないこともその理由である。概略を述べると、欽明天皇の第二と第三の妃は稲目の娘で姉の堅塩媛の息子が用明天皇で娘の豊御食炊屋姫が異母兄の敏達天皇の妃となり、後の推古天皇になった。妹の小姉君の息子が崇峻天皇で娘の穴穂部間人皇女は用明天皇との間に聖徳太子を産んだことになっているのである。新興勢力が権威者に近づくために興味をそそるものを提供することはよくあることだと思う。この時期、仏像も経典も思想も魅力的であり、蘇我氏にとっては仏教が格好の材料だったのではないか。第三には当時日本近隣諸国は仏教全盛で流入してくる文化も仏教色が濃く、諸国との交流には仏教を軸に展開した方が有効と考え、また、渡来人や仏教を崇敬したい人たちに対する信教の保護の必要性を感覚的に掴んでいたためと思える。蘇我氏が武内宿禰の子孫であったとしても、百済からの帰化人であったとしても、他の群臣よりも国際情報収集に長じていたことは言うまでもないであろう。
 ただ、考えなければならないのは天皇の心である。仏教を広めること、更に帰依にまでいたることが、天皇自らの存在の裏付けを否定する結果になる可能性(大共同体を一体化することや祖先崇拝を壊す可能性)があったはずである。天皇にとっても従来の神にとっても前代未聞の危機だったはずである。大航海時代以降キリスト教によつて多くの国がそれぞれの土着の宗教を失ってきたことを見ても分かるだろう。しかし、インターナショナルな新興宗教を受け入れることについて、国粋派の群臣が諫めても、試しに礼拝させてみたり、自ら「帰依したい。」と言い出すなど、危機感が感じられない。これは、その時期、天皇を中心とする組織が天皇の親政ではなく、群臣の意見による合議制であり、その組織が確固たるものであったからで、仏教を広めても天皇の存在が否定されることはないという自信があったのだと思う。
 それに反して、国粋派の群臣にとっては、一大事に感じられた。現代においても日本の国体を真摯に考えている人たちには、天皇がすべき行為ではないと感じられるはずである。しかし、歴史は仏教興隆をすすめる時代に入っていくのである。


二 古代社会の変化 一 古代前期における変化

2012-01-24 20:06:05 | 日記・エッセイ・コラム

二 古代社会の変化
 一 古代前期における変化
 日本の社会は、縄文時代後期頃からの水稲農業を背景に、ムラという共同体による生活を連綿と続けてきている。神道自体(仏教伝来までは神道という呼び名や意識は無かったと思うが)も狩猟時代から農業共同体社会に移行する過程の中で原始宗教から大きく変化している。第一に、くに「郷土」に定着しなければならなくなったこと、そのために近隣との境界をめぐるトラブルから境域を維持しなければならなくなったこと、第二に、狩猟時代と比較して多くの所属人員を抱えることになりながら、一体感を保ち共同社会を維持しなければならなくなったことによって、アニミズムとその時々の獲物を得ることを祈り、それが出来たときの感謝をすることが根本であった原始宗教が、その後の共同体社会では、原始宗教の上に共同体を維持していくための機能が加味されていったのである。近隣他地域との係わり合いの中で、共同体意識の再生産を行う必要に迫られたために、そのシステムとして「共同体だけのカミを戴くこと」を発想したのであろう。
 多数の共同体の中に、地理的条件、その年々の豊作不作、大陸からの新技術の導入などによって格差が生じ吸収拡大が行われ、各地に国を造っていく中で、各共同体の中で確立されてきた神が、国という単位で一つの神に集約されていくことが一つの方向性としてあるのだが、日本の場合は、各共同体の神を認め、神の系譜を設けて各共同体が一つの系統に遡れることにすることを進めていったのである。
 ただ、その国造りの中で神々の結び付きを正統化する意味からも、神々の権威を維持するためにも必要とされた形態が、三国志の魏書の東夷伝の倭人の条を信じるならば、邪馬台国の卑弥呼のようにシャーマニズム的なものであったのであろう。天神地祇と言っていいのか霊と言っていいのか分からないが、それらと交流ができて他の者とは全く違った神秘的な力を持った存在が必要とされたのだと思う。
 古墳時代になると、支配するものと支配されるものの身分がはっきりし、支配者は権力を誇示することを求め、被支配者は古墳の造営等にかかわることを余儀なくされ、常に技術・慣習・伝統に触れて、おそらく思考は保守的であったものと思われる。
 神の有りようについては、アニミズム的な祈り、収穫への祈り、豊作豊猟への感謝が本流にあった(神と共に生き、あらゆることを太占に占へて神意に叶うかどうか伺うことを基本としていた。)ことは言わずもがなであるが、被支配者を統率するための道具という側面が表出してきたと考えて当然であろう。その一つとして、支配する者は自分の正統性を立証するために、自らを神の正統な流れを汲む者であることを広く告知する(知ろ食めす)ことも行っていたであろう。それは記紀を用いた様々な教訓・儀式であり、それに価値を持たす為の祖先崇拝(当然昔から行われていたであろうが更に権威付けをしたのである)を大きな柱にしていったと思われる。
 それ以後仏教伝来までの神はその延長線上に在り、その存在意義は一方で、大共同体を①一体化すること(生活にとって・支配者にとって必要であったこと)、その反面で②閉鎖性、③生命力・生産性の甦り(祈年と感謝)が基本にあったであろう。また他方でシャーマン・占者の言葉・占いを大切にしていたこと(蘇我大臣馬子宿禰が病気になったとき、卜者に占わせ、敏達天皇はその言葉に従い、稲目が崇めていた仏を祀らせたことなど、「日本書紀」に幾度も出ている。)であろう。


一 考古学と神話

2012-01-24 20:03:07 | 日記・エッセイ・コラム

一 考古学と神話
 人類の起源については、多地域進化説もあるが、アフリカ起源説が定説であり、およそ六百万年前にヒトがチンパンジーの仲間から枝分かれし、これまでに発見された二百万年以上前の人類化石は全てアフリカで発見されている。このアフリカで誕生した人類は、長期に渡りアフリカで過ごし、百八十万年前に一部(北京原人やネアンデルタール人など)がユーラシア大陸に移動するが、現代人の先祖となるホモ=サピエンスはおよし二十万年前に誕生し、十六万年前に移動を始めたと言われている。それでもアフリカに留まり続けたのが、黒人の先祖であるネグロイドである。移動した人類は、中近東当たりで東西に分かれ、西に移動したのが白人の先祖であるコーカソイドで、東に移動したのが黄色人種の先祖であるモンゴロイドである。そのモンゴロイドの移動にヒマラヤ山脈が立ちふさがり、北への移動と南への移動に分かれる。南への移動は、五万年ぐらい前からインドシナ半島に住み始め、北への移動は、三万年前からシベリアに住み始めた。それぞれの集団は更に移動を続け、南方面に移動した集団は、更に南下してオーストラロイドとも呼ばれているアボリジニの祖先となり、北に進んだ一団は東アジア一帯に生活の場を拡げていった。シベリアに移動した集団も東アジアで南回りの集団と出会うことになる。この一団は更に一万五千年前にベーリング海峡を渡り北アメリカ大陸・南アメリカ大陸に移動していった。
 東アジア一帯に生活の場を拡げていった集団の中で、特に大陸の東の端に住み着いた集団が、日本人の遠い祖先と考えられる。その代表例として、人骨化石が発見されているのが、宮古島のピンザアブ洞人(二万六千年前)、沖縄県の港川人(一万八千年前)、静岡県の浜北人(一万四千年前)である。これらは南から移動した集団であるが、また一方で北アジアで見られる細石刃を使っていたことが北海道の遺跡で解り、北からの移動もあったように思われるが、それらは寒冷地に適応した身体的特徴を有していないので、これもシベリアから南下した集団ではなく、南回りの集団が入ってきたと考えられる。これらの集団が一万二千年前に定住し縄文時代が始まる。
 縄文時代の特徴は、数多く出土した土器にある。一万二千年前にこれほどの土器を出土している地域は他にないだろう。しかし、日本列島は平野が少なく、落葉樹の森林が大半を占め、四方を海に囲まれ、その海に流れ込む川により多くの魚介類が育ち、落葉樹林からは豊かな木の実を得ることができ、食には恵まれていたのであろう。その恵まれたことと平野が少ないことによって、水稲農業は不向きであったと考えられる。そのために、世界四大文明の黄河文明の近くに位置しながら、農業技術が発達しなかったのであろう。ただ、以前言われていたように弥生時代になってから農業が始まったのではない。岡山県の朝寝鼻貝塚から約六千年前のプラントオパールが出土し、縄文時代前期の稲であることが判明した。更に五千年から四千年前の姫笹原遺跡(縄文時代中期)、四千年から三千年前の南溝手遺跡からも稲のプラントオパールが出土している。このことから稲作は縄文時代から行われていたが、技術的に発達していなかったと考えるべきである。
 四千年前気温が低下し、北方のモンゴロイドがかなり南下しており、弥生時代が始まる約二千三百年前は、大陸では春秋戦国時代で戦火に追われるなどの理由で、中国北部から朝鮮半島を経て日本列島に大挙してやってきたものと考えられる。南方から海を渡った集団もあっただろう。これらの集団が、高度な水稲技術をもたらし、一挙に生産能力が高まったと考えられる。
 ここで、縄文人、そして日本列島に逐次渡来した民族を基に、私の思いのままに、日本神話の一部分を解釈してみたいと思う。
 縄文人に近い南方系の民族には日神崇拝する神話が多く、この頃の黄河流域では小麦栽培が主流で水稲栽培は揚子江流域が中心であり、水稲技術の伝播はこの南方系からのものと思える。また、南方系の民族は海人(アマ)族とも言われており、この「アマ」が日神崇拝と融合し、「天(アマ、アメ)」の付く神々になっていったのではないだろうか。このアマ族は瀬戸内海を利用して各種のアマ族が日本全土に急速に分布し始めたと考えられはしないだろうか。そしてこのことが「国生み」伝説になったと思える。
 一方、朝鮮半島を経由して渡来してきた民族は、北方シャーマニズム文化圏の影響が強く、山上や高い木に祖先神の中でも英雄的な神が降臨すると言う信仰があり、山人(ヤマ)族と言われる集団で、剣、矛などの青銅器・鉄器を使い戦に優れていたのではないだろうか。このヤマ族も各種あったであろう。その中で、在来の民族・アマ族・ヤマ族そして派生的集団(出雲族等)等が離合集散を繰り返し、漢の時代日本列島で勢力を誇ったヤマ族の倭奴(ワノナ・ヤマト)の首長が王と認められたのではないだろうか。
 更に時代が降り魏の時代、ヤマ族の中のヤマタイ国が勢力を拡大し、倭奴国は九州南部に追いやられ、その地で出会ったアマ族と盟友となり、態勢を整え、北上したと思える。「天孫降臨」伝説の司令神としての「高皇産霊尊(高木神)」が倭奴国の首長であり、「天照大神(大日霎)」がそのアマ族の首長であったのだろう。両者の子の間に誕生したニニギ尊を天降したことと、「海幸・山幸」伝説でニニギ尊の子の彦火火出見尊(ホオリ尊・山幸彦)が海神の助言と「潮満玉・潮干玉」によって兄火酢芹命(ホデリ命・海幸彦)を降伏させたこと、更に海神の娘である豊玉姫命との孫が神武天皇であることから理解できるのではないだろうか。アマ族の神宝である鏡(八咫鏡)と玉(八坂瓊曲玉)、ヤマ族の神宝である剣(草薙剣)を正統なる首長の象徴(しるし)として用いたのもその流れであろう。
 融合し、態勢を整えた新ヤマト国は、出雲の国にも使者を送り、ヤマト国と合力するように求めた。このことが「国譲り」伝説となったのであろう。
 この後、ヤマタイ国を始めとする各地の勢力を制圧し、崇神天皇が御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)となられた御代におおよその統一がなされたのであろう。
 日本の首長としての正統性を傘下の集団や対外的に広くシロシメスために、アマ族が行っていた「一定期間籠もりて潔斎をし、一段神格化した他者とは違う存在として甦り戻ってくる」習わしを「天の岩戸」伝説として用い、ヤマ族の「山上や高い木に祖先神の中でも英雄的な神が降臨する」と言う信仰を基に天照大神の神勅「御鏡を謹祀すべき神勅・斎庭の稲穂の神勅・天壌無窮の神勅」を重ねて、日本中に鏡を祀る慣習を恒常化させ、稲作の源流と豊かな稔りを自分たちの祖先の功であるように信じ込ませ、古事記・日本書紀を編纂するとき天武天皇の跡を継いで天下を治める持統天皇にとって自分の言葉が天武天皇の意思であると示すことと、皇祖・皇宗に対する奉仕者としての天皇の在り方を示すために、高皇産霊尊(高木神)の詔を中執り持つ天照大神の姿を表現している伝説が「葦原中国の平定・天孫降臨」であり、更に「天の岩戸」伝説で岩戸に隠れたことと同様にニニギ尊を真床追衾にくるむことにより、より高貴な霊力を有する存在としてまた天照大神の甦りとして天皇が存在していることを印象づけるための伝説がこれであろう。そしてそれを模した「践祚・大嘗祭」を行うことにより天皇のご即位に正統を認めさせたのであろう。
 日本人の源流に心が傾くのは日本人として当然のことであるし、現代日本人の遺伝子情報に占める割合が混血・融合を多く行ったことにより縄文人系情報が三割、弥生人系情報が七割となっていることから自分の思考がその時々で何系の遺伝子が働いているのかを考えながら先祖と対話をしていきたいものである。
 それにも拘わらず、「古事記」も「日本書紀」も見たことのない日本人が増えていることは嘆かわしいことである。どの様な方法でも良いから神話を様々に解釈し、多くの人々で批評し合える状況が今必要だと思う。


神道の葬儀

2012-01-23 20:48:40 | うんちく・小ネタ

■不幸にして人が亡くなることを神道では帰幽(きゆう)といいます。神道の考え方では人は神々と祖先の恵によって現世(うつしよ)に生まれ生活をして、死しての後の御霊(みたま)は、幽世(かくりよ)に帰り、やがて祖先の御許(みもと)に帰りつくとされています。

■ 神道の葬儀は、「枕直しの儀」・「帰幽奉告の儀」・「遷霊の儀」・「通夜祭」・翌日の「葬場祭」・「発柩祭」・「火葬場祭」・「帰家祭」となっています。

  通夜

夜を徹して故人の蘇生を願って行った古代の殯(もがり)の遺風とも言われる鎮魂の儀礼です。

  枕直しの儀

まず、北枕で寝かせます。
枕元には、白無地の屏風を逆さに立てて刃物を台や盆の上にのせ、刃を遺体の方に向けないように置きます。
供物は、小机か八足台(案)の上に、次のようなものを置きます。
 米(洗米でもご飯でもそのままでもかまいません。)・御神酒・塩・水・常饌(故人が生前好んだ食べ物。)・榊
神棚と霊舎に家人の帰幽を喪主が奉告し、お供え物を撤して五十日祭までの間は神棚の全面に白紙を貼り、霊舎を閉じます。
出来ない事は省略しても宜しいので、無理をしないようにしましょう。

  帰幽奉告の儀

神職により産土の神様と幽世の神様へ、故人の帰幽を奉告します。神社によっては、「枕直しの儀」の際に行われることもあります。

  遷霊の儀

通夜の時、室内を消灯して故人の御霊を霊璽(れいじ)に遷し留める「遷霊の儀」が行われます。

 通夜祭

故人の死を確認し、葬場祭への、心の準備をし、故人に死を受け入れて貰う為の儀式です。

  葬場祭

神職が奏上する祭詞には故人の経歴や功績人柄が読み込まれ、会葬者と共に故人の遺徳を讃え、在りし日の姿を偲ぶ、人の世の終焉に際しての最も厳粛な儀式です。

  発柩祭

通夜祭を終えた翌朝、葬場に向かう際に行う儀式ですが、近年は省略されています。

  野辺送りの火葬場祭

火葬場での最後の別れの儀式になります。

  清めの塩

通夜及び葬場祭に参列した場合や火葬場から戻った遺族は「清めの塩」を使います。これは宗教的な儀礼というより、お弔いに関しての日本人の民族的な思想の概念によって行われて来た風習ともいえるものです。

  帰家祭

喪家もしくは斎場にて、安置された御霊に対して葬儀が無事終了した旨を奉告します。

  旬日祭

仮霊舎の霊璽を中心に「旬日祭」として十日毎(十日祭 ・ 二十日祭 ・ 三十日祭 ・ 四十日祭)に斎行し、五十日祭は特に「忌明け」とも呼ばれる重儀となります。
五十日祭の折りには特に「忌明け後清祓の儀」が行われ、納骨並びに仮霊舎の霊璽が霊舎に合祀されます。
この日から、神棚と霊舎の白紙をはずし、おまつりを再開します。新年を迎えるための氏神様の神札もこの五十日が過ぎていればお受けできます。

この後「百日祭」を経て「一年祭」更に「三年祭」「五年祭」「十年祭」と以下おもに十年毎に霊祭が各々周年祭として斎行されます。(旬日祭・年祭はその時の都合等により省略される場合があります。)

ご参考までに

◇安置
末期の水、湯灌、死に化粧、など基本的に仏式と一緒です。
死に装束は、経かたびらではなく、小そでになります。
白い木綿の小そで(きもの)に、白たびを履かせるのが正式です。
現在では、故人が好んで着ていた衣服を着用させその上に小そでを掛けるのが一般的のようです。

◇納棺の儀
枕直しの儀が済んだ後、納棺の儀に移ります。
通夜に先立って遺体を棺に納める儀式で、正式には神職を招きますが、近年では葬儀社の人に手伝ってもらい、遺族の手でするようになっています。
出棺までの間は、朝夕の2回、米、水、塩などを供え、遺族が礼拝する「柩前日供(きゅうぜんにっく)の儀」を行います。

◇霊璽(れいじ)
仏式の位牌に当たる物 鏡または、柾目(まさめ)を通った白木に故人の名前と生年月日を書き入れたものです。

◇通夜振る舞い
基本的に仏式と同じですが、神式ではなまぐさ物は禁じていません。
日本では、古来より死後の世界を黄泉の国と言って、穢れた世界としています。
神道では、死のけがれを忌む習慣が強く、家の火がけがれないようにというので、通夜振る舞いでは、他の家で煮炊きしたものか、外から取り寄せたもので接待します。
また、神前に供えた饌を皆で食し供養したと言うところから、通夜振る舞いに発展したと言う説もあります。

◇葬場祭
神前に通夜祭の時に供えた常饌をすべて新しい物にかえます。
棺は部屋の中央、一番奥に安置し、故人の姓名と位階、勲功など社会的地位があればそれらも記した銘旗(仏式の位牌に当たります)を立て、棺を囲む三方に壁代をめぐらし、その外側に、不浄を防ぐ意味を持つしめ縄つきのいみ竹をたてます。(昔行っていました。)

◇忍び手にて二礼二拍手一礼
神式の拝礼では、二礼二拍手一礼と言って、二回深くおじぎをしてから、忍び手と言って音を立てないように二回柏手(かしわで)を打ち、最後にもう一度礼をします。

{ちょっと考えたこと}

1 通夜祭と通夜について

 広辞苑によると、通夜とは、① 神社仏閣に参籠し、終夜祈願すること。② 死者を葬る前に家族・縁者・知人などが遺体の側で終夜守っていること。となっています。
 今回は、死者を葬る前に家族・縁者・知人などが遺体に側で終夜守っている通夜について考えたいと思います。
 通夜は、一般に、夜を徹して故人の蘇生を願って行った古代の殯(もがり)の遺風とも言われる鎮魂の儀礼とも言われています。古代では呼吸停止をもって直ちに死とはみなされず、蘇生しないことを確認したあと、喪に入ったとされていました。またその間は生前のように棺に朝夕供饌し、歌舞音曲や飲食などの遊びをして魂呼びを行ったそうです。 長期間にわたることもあり、天武天皇の殯の場合は二年余にわたったことが「日本書紀」に記されています。それが中世以後になると、もっばら読経供養に変わりますが、魂呼びの儀礼は今日なお慣習として残っているところもあるそうです。
天皇の殯宮儀礼は、六世紀頃より唐の殯の影響を受けて、遊部の奉仕による儀礼とともに、誄(しのびごと)の奏上や諡を奉るなどの大陸にならった儀礼が行われるようになったそうです。
 これらのことから、通夜とは「古代の殯(もがり)の遺風で、蘇生を願い、生前のように棺に朝夕供饌し、歌舞音曲や飲食などの遊びをして魂呼びを行うことで、長期間にわたることもあるもの」と定義できます。つまり、通夜の期間はまだ生きていると見なす期間を指すことになります。
 通夜祭について考えてみると、蘇生しないことを確認したあと、喪に入って行う儀式と考えるべきではないでしょうか。なぜなら、「誄(しのびごと)の奏上や諡を奉る」儀式である点で、誄(しのびごと)とは、死者に述べられ哀悼の言葉・悲しみを表明するとともに、生前の功績や善行を讃えたりする行為であり、明らかに死者を対象に為されるものです(まだ生きていると見なす期間に行う儀式ではない)。 忍手についても、神葬祭において、祭壇の前で死者に向かって打つ無音の拍手と定義されており、あくまでも死者が対象であることが原則であることを読み違えてはならないと思います。重ねて申しますが、通夜の時点と通夜祭を行う時点とを混同しがちですので気を付けるべきです。そう考えると、死亡確認書が発行された時点で、帰幽報告祭を行うのは当然のことです。遷霊の儀も通夜祭の前であろうと通夜祭の後であろうと構わないことになります。

2 神葬祭における修祓について

 忍手とは、「音がしないように打つ拍手のこと。短手とも表記し、神宮祭式作法のなかで八開手ののち、最後に音がしないように打つもの。また、神葬祭において、祭壇の前で死者に向かって打つ無音の拍手。」と定義されています。
 一般には、音を立てなければならないのだけれども、故人や故人の家族・縁者・知人のことを思うと音が出せない感情を表した所作ではないかと思っています。この感情によって、祓戸神に対して忍手になることは不敬なことになるのでしょうか。その場を少しでも清らかな状態にしたいと思う気持ちで修祓を行う事が不敬なことになるのでしょうか。 祓戸神の立場で皆さんはどう考えるのか、私は感情・気持ちを理解して頂けるものと信じます。

3 奉幣行事について

 幣が依り代・装飾・供物のいずれでも必要であるならば、最初から奉っておけば宜しいのではないでしょうか、その行事の必要性を感じません。また、心中年祈念は何を祈念するのか、所役の中に何々所役とか何々後取とかあるべきなのに、なぜ所役としか言わないのか、所役が正中に座す司の斜め前から受け渡しを行う事や反命の際、揖も無く着座するなど理解できないことが多いのは私だけでしょうか。 


神饌品目について

2012-01-23 20:46:07 | うんちく・小ネタ

 神饌品目について

お供え物は、通常は、「和稲、荒稲、酒、餅、海魚、川魚、野鳥、水鳥、海菜、野菜、菓、塩、水等」と言われています。
しかし、正式には、次の品目を言います。
                                                                            
│稲米 (1)稲=和稲・荒稲・黒稲・白稲・頴(かい)・懸税(かけぢから) 等               
│       │(2)米=玄米・黒米・白米・精米・洗米・染米(赤・黄・青)・散米(うちまき)・粢(し
│       │とぎ)・?(はぜ)                                                               
│       │(3)飯=白飯・赤飯・白強飯・赤強飯・玄飯・麦飯・小豆飯・粟飯 等                  
│       │(4)粥=米の粥・小豆粥・七種粥(若菜粥)・粟粥・稗粥 等                        
│洒   │(1)白酒・黒酒・濁酒・清酒・醴酒(ひとよざけ)・甘酒 等                         
│       │(2)屠蘇酒(とそざけ)・白散(びやくさん) 等                                    
│餅   │(1)丸餅=鏡餅・勾餅(まがりもち)・沓形餅・丸餅・刳餅(その他形態により種々の名称
│       │あり) 等                                                                     
│       │(2)切餅=熨斗餅・菱餅・伸餅 等                                                 
│       │(3)草餅・蓬餅・大豆餅・小豆餅・粟餅 等                                          
│       │(4)粽(ちまき)                                                                  
│       │(5)団子・餅団子 等                                                            

│雑穀 (1)大豆・小豆・黒豆・小豆粉 等                                                 
│       │(2)素麺・豆腐・納豆・湯葉 等                                                   
│魚介 (1)海魚=鯛・鮭・鱒・鮻・?・鮪・鰹・?・鯵・鱈・?・鮫・鰆・烏賊・蛸・海老・生海 
│       │鼠 等                                                                           
│       │(2)川魚=鮎・鯉・鮒 等                                                         
│       │(3)貝=蛤・鮑・栄螺・石華(かき)・あさり 等                                  
│       │(4)塩物=塩鯛・塩鯖・塩鮭・塩? 等                                             
│       │(5)干物=干鮭・鰹節・干鱈・干海鼠(きんこ)・煎海鼠(いりこ)・干鮎・韶陽魚(ごま
│       │め)・乾鮫・乾鱆・のし鮑・鯣(するめ) 等                                     
│鳥   │(1)野鳥=雉子・山鳥・鶏・鶏卵 等                                              
│       │(2)水鳥=雁・鴨 等                                                            
│獣   │(1)猪・鹿・兎・狸 等                                                            

│海菜 (1)奥津藻菜=昆布・和布・海松 等                                              
│       │(2)辺津藻菜=ひじき・あらめ・若布・海苔(青のり・三島のり・紫のり)・鶏冠菜(とさ
│       │かのり)・神馬草(ほんだわら) 等                                              
│       │                                                                                 
│野莱(1)甘菜=菁・芋・藷・人参・牛蒡・胡瓜・茄子・蓮根・白菜・野老(ところ)・南瓜 等
│       │(2)辛菜=大根・大蒜(にんにく)・山葵・生薑・芹 等                              
│       │(3)其の他=百合根・莇(あざみ)・蕗・蓬根・筍・蒟蒻・甘葛・河骨(かうぼね)・松茸
│       │・椎茸 等                                                                      
│菓   │(1)生果実=柑子・密柑・枇杷・桃・栗・梨・葡萄・柿・林檎・柘?・西瓜・棗・萱・榧・
│       │銀杏・椎・樫の実 等                                                            
│       │(2)干果物=干柿・串柿・搗栗(勝栗) 等                                        
│       │(3)作菓=? (ぶと)・?(まがり)・結び・鼓形 等                               
│       │  (植物をかたどったもの)=二梅枝・三梅枝・菊ぶと・大柑子・小柑子・柘?・松茸 
│       │ 等                                                                           
│       │  (動物をかたどったもの)=鶴・亀・犬・猿・兎・狐・狸 等                   
│       │(その他)=洲浜・??(おこし)・打物・饅頭・羊羹 等                           
│調味料他│塩・味噌・醤油・醤滓・酢・汁・水                                             
│       │                                                                              
│花   │(1)生花=桃・辛夷・菖蒲・菊・葵・桂・ゆずり葉・裏白・蓬・秋草・鶏頭・ダリヤ・紅葉
│       │ 等                                                                            
│       │(2)造花=竹・梅・南天・椿・水仙・松・牡丹・橘・桜・杜若・紅葉・桔梗 等         

 ?は漢字変換されなかった漢字の部分です。(申し訳ございません。)

 お供えをする意味は、神様や霊に対して戴いてもらうことやお供えをすることにより、より一層気持ちを込め易くなることなど有りますが、基本的には、私たちが日頃食させて頂き命を繋いでいるものを、感謝の気持ちを込めて捧げるものです。
 その捧げる順序として、天孫降臨のとき授けられた米や五穀に関連したものを供え、その次に魚介等、そして海菜・野菜・菓と続き、更に食品としてあまり意識することはないけれど生きていく上で必要不可欠な、塩・水などとなります。
 表に掲げた神饌品目を全て揃えることは、ほとんど不可能ですし、感謝の気持ちを込め、表現するためのものですので、量の多少・品目を気にする必要はありません。
 ただ、数字的に四・九などは避けることがよくあります。
 お供えをする最小限のものとして米・酒を神饌の始まりとし、塩・水を神饌のおわりと考え、米・(酒)・塩・水を日頃から神棚に奉ると良いでしょう。


神宮大麻と氏神様のお神札

2012-01-22 16:52:54 | うんちく・小ネタ

神宮大麻と氏神様のお神札

【お伊勢さま】
 伊勢の神宮は、古くから「お伊勢さま」と親しまれ、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)を中心とする日本で最も貴いお宮です。
 天照大御神をおまつり申し上げる「内宮」は、皇室の御祖先神として尊ばれ、また、国民の総氏神として仰がれています。
 豊受大御神をおまつり申し上げる「外宮」は、衣食住、ひいては産業の守り神としてあがめられています。

【お伊勢さまのお神札】
 神宮大麻は、「お伊勢さん」「お正月さん」として親しまれている天照大御神のお神札です。
 お神札を毎年新しくお受けするのは新しい年を迎え、すべてがあらたまるとき、初日の出を拝むように毎年新たなる御神徳とみずみずしい生命の力をいただくという祈りがこめられているのです。
 ご家庭でお神札をまつり、今日もお伊勢さまに見守っていただいて生活するという気持ちは、きっとあなたの一日を充実したものにすることでしょう。

【お神札のまつり方】
 神棚は明るく清らかなところで、目の高さよりは少し上におまつりします。お神札が南か東に向くのが一般的ですが家の間取りによってはおまつりするのにふさわしい場所であれば良いでしょう。

 神棚がない家庭ではとりあえずタンスや書棚の上に白い紙を敷くなどしておまつりして頂くのも良いでしょう。
【お供え】
 神棚には毎朝、お米、お塩、お水などをお供えして拝礼します。
 御神酒、季節の初物、お土産等は、その都度お供えし、感謝をこめて、のちほど頂戴します。

【お参りの作法】
神社の参拝方法と同様に、二拝(深くお辞儀を二回)二拍手(手を二回たたく)一拝(深くお辞儀を一回)です。

一年間お守りいただいた古いお神札は感謝をこめて、氏神さまに納めましょう。


輪くぐりさん

2012-01-22 16:47:22 | うんちく・小ネタ

 三十一日の夕刻から玖波大歳神社では、例年の通りひとがた流しや菅抜け祭り(茅の輪くぐり)を行います。
  輪くぐりさんには、御家族お揃いで氏神様に御参拝、心身を浄化一新して、尊い御神恩に感謝の誠を捧げ、奇しき御守護を祈りましょう。
         
   神は月 人の心は 露なれや 澄めるところに 影は宿さむ

     夏越しの大祓は、私どもが神と祖先のご恩恵を戴いての、日常生活の中で、思わず知らずのうちに犯した「罪」「けがれ」を祓い「わざわい」を防ぐといわれる御神事で、古くは、わが国最古の書物「日本書紀」にも(天武天皇十年七月丁酉の条に「天下に令して悉に大解除せしむ…。」)など折々にみられ、素朴な行事ながらも古来から連綿と行い継がれてきた大切な儀式です。
    また、「なごし」は「和ごし」・「和儺」で、人の心を和やかにすると云う説もあります。夏越しの大祓いを行い、「わざわい」を除き、心に「謙虚さ」・「感謝の気持ち」を甦らせ、心身を清浄にして「淨く明るく正しい」希望に満ちた日々の生活実践を続けてまいりましょう。
   母のぶん  もひとつくぐる  茅の輪かな   一茶

(い)、水無月の 夏越しの祓ひ する人は 千年の命 延ぶと云うなり
(ろ)、思ふ事 みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな
(は)、蘇民将来。蘇民将来。(繰り返して唱ふ。)

 他の地方では、「水無月の大祓」として新暦の六月末日に行われるところも有りますが、当地では、旧暦が新暦に改まった時からひと月おくれの七月末日に行われるようになり現在に至っておりますので、ご参考までに申し添えておきます。 

 玖波大歳神社の夏越しの大祓いは、茅の輪くぐりと人形流しの二つの行事が主体になっています。

 まず、人形流しについてですが、『日本書紀』の中の、天武天皇十年七月丁酉の条に「天下に令して悉に大解除せしむ。此の時に当たりて、国造等、各祓い柱ぬひ一口を出して解除す」とあり、大解除の初期の頃は、人柱を用いていたことが伺がえます。それが次第に反道徳的であると考えられるようになり、人柱から動物、動物から埴輪や人形・形代と移り変わって現在に至ったと思われます。

 また、この人形流しは、スサノオノミコトが、高天原で暴れまわり、身ぐるみ剥がされ追放されたことに由来しているとも思われます。スサノオノミコトが行ったと言われている罪という罪は、実は皆、人間の犯した罪であり、その罪をスサノオノミコトが一身に背負い根の国、底の国へ流されたということだそうです。人形流しは、自分が知らず知らずに犯した罪を謙虚に反省し、その罪を人形に託す事により、新しい日々を新しい気持ちで迎えるための私達の先祖の知恵かもしれません。      

 次に、茅の輪くぐりについてですが、このもとになった話が『備後の国風土記』の中に見うけることができます。その内容を簡略に説明すれば、「疫隅の国の武塔の神が、南海の女神に求婚しようと出掛けましたが、その途中で日が暮れてしまいました。その所には、二人の兄弟が住んでおり、弟の巨旦は大変裕福でしたが、兄の蘇民将来は、貧しい暮らしをしていました。そこで、武塔の神はまず、巨旦に宿を頼みましたが、断られ、次に、兄の蘇民将来に宿を頼みましたら、快く泊めてくれ、親切にもてなしてくれたそうです。それから数年が過ぎ武塔の神は、八柱の神を連れてやってきて、蘇民将来に『お前に恩返しをしてやろう。茅の草を輪にしてお前の娘の腰に付けさせよ。』と申して、蘇民将来がその通りにすると、その夜、その娘以外の子供らは、疫病で悉に殺されてしまいました。そして、武塔の神は、『私は、ハヤスサノオの神である。もしこれからの世でも疫病がおこれば、私は蘇民将来の子孫であると言って茅の輪を腰に付けよ。そうすれば、死をまぬがれることができるであろう。』と申された。」ということです。この話がヘビ信仰と結付き茅の輪くぐりの行事になったと思われます。

 このように、人形流しにしても茅の輪くぐりにしても、行疫神即防疫神であるスサノオノミコトとかかわりのある行事で、大歳神社において人形流し、茅の輪くぐりが行われ続けられているのも大歳の神が、スサノオノミコトと副祭神神大市姫との間に生れた御子であるからかも知れません。 


七五三について

2012-01-22 16:40:09 | うんちく・小ネタ

 十一月十五日に七歳、五歳、三歳の子供が晴着を着て、神社にお参りすることを七五三参りとか七五三祝いといいます。これまで無事に育ってきたことに対する感謝と今後の守護を祈願するもので、人生儀礼の一つです。
 七五三の起源となった祝いは、錬倉時代に公卿や武家の間で行われていた髪置、平安時代に貴族の間で行われていた袴着、室町時代に行われていた帯締びの三つです。いずれも子供の成長にあわせて身なりを改めるものでした。
 これら三つの祝いは関東を中心として始まりました。男女どちらの子供も祝うもので、年齢も月日も決まっていなかったようです。
 江戸時代に入ると庶民の間に広まって一般化されるようになりました。やがて、三と五と七を陽数(縁起のよい数)とする中国風の考え方から、この年齢のときに祝う様になり、江戸時代末期には三歳の男女が髪置、五歳の男が袴着、七歳の女が帯結びを行うようになったのです。参拝の日が十一月十五日となったのも江戸時代の末期でした。十一月は収穫を感謝する霜月祭のある月で、その十五日は旧暦で満月です。       大事な月の満月の日として、この日が選ばれたのです。
 明治時代に入ると、神社への参拝が中心となり、現在のような七五三の祝いが定着しました。
 安産を祈願して、無事に出産したことを初宮参りで神前に報告し、さらにその子供を成長させてくれたことを神に感謝するとともに、将来にわたる守護を祈願することが七五三の意義です。このように成長の過程で子供に晴れ着を着せて神社に参拝するのは、生まれた子供に徐々に神霊を宿らせることを意味し、最後の七五三の参拝で名実ともに人間の仲間入りができるということです。昔、七五三のときに現在の戸籍にあたる人別帳に名前が記されたのもこのためです。
 また、大人の厄年と同じく、子供のこの年齢は、医学的にも発育の節目にあたります。病気にもかかりやすい時期に健康な成長を祈るようになったことは、自然な親心のあらわれだったのでしょう。


現代における神社本来の在り方

2012-01-22 09:53:22 | 日記・エッセイ・コラム

 現代における神社本来の在り方

   目  次

第一章 神社の在り方
 一 現代の宗教意識
 二 神社と共同体
 三 近代の共同体

第二章 戦後の共同体
 一 GHQの政策
 二 高度経済成長政策と共同体
 三 男女雇用機会均等法以降
 四 一般神社の現状
 五 必要とされる存在として

 結び(現代における神社)

 現代における神社本来の在り方

第一章 神社の在り方

 一 現代の宗教意識

 日本人は、初詣やお彼岸の実施率は八割ほどと高いが、諸外国と比較した場合、冠婚葬祭を別にしたとき宗教行動の低いグループに分類される。また、宗教団体に対しても、全般的な印象による拒絶感を持っている。更に、宗教に対して「わからない」という曖昧な態度をとることが多い。
 「神社に関する意識調査」が平成八年と平成十三年に神社本庁教学研究所によって実施されているがその中で、「あなたは何か信仰している宗教がありますか」の設問に対して神道四.二%(三.八%)[括弧前が平成十三年・括弧内が平成八年 以下同じ]、仏教三十三.〇%(三八.七%)、創価学会三.七%(三.四%)、キリスト教一.二%(〇.九%)、その他の宗教一.九%(〇.八%)、信じていない五二.六%(四九.五%)、わからない三.四%(二.九%)となっており、神道が創価学会を僅かに上回っていることと「信じていない」という答えが過半数を超えていることが分かる。
 この結果は、日本人の中に「無宗教」を標榜する人が少なくないことをあらわしている。その他の様々な調査でも、だいたい全体の七割が「無宗教だ」と答えている。
 阿満利麿は「日本人はなぜ無宗教なのか」の中で、日本において「無宗教だ」といっても自分が人間であることの否定には繋がらないけれども、キリスト教文化圏などでは自己否定に解釈されることがある。日本で海外旅行が自由化され始めた頃、どのガイドブックにも、外国人に「あなたの宗教は何か」と質問されたら、「無宗教」と答えてはならない。との注意書きがあり、その理由として、外国人、特に欧米人にとって「無宗教」だということは、人間であることを自ら否定することになるからで、できれば「仏教徒」とか「神道」と答える方がよいとされていたと述べている。
 しかし、平成八年の「神社に関する意識調査」の中でロバータ・キサラは、アンケート調査の文化圏比較が難しいことを前提としながら、「ヨーロッパ価値観調査」の冒頭に、仕事、家族、友人、余暇、政治、宗教という様々な「価値領域」の重要度が聞かれており、回答者は「非常に重要」「かなり重要」「あまり重要でない」「全く重要でない」と判断する設問を利用し、「非常に重要」「かなり重要」を合わせたヨーロッパ全体の平均値{家族=九六%、友人=九〇%、仕事=八七%、余暇=八三%、宗教=四八%、政治=三五%}を紹介し、北米において、家族、友人、仕事はヨーロッパと同様に大事にされているが宗教及び政治はヨーロッパよりはるかに重要視されていることを紹介した上で、北米が特別に率が高いのであって、神社本庁の調査で「何らかの宗教を信仰している」とした回答率がヨーロッパで宗教を大切にしている率とほぼ同じことを述べ、現代の日本が特殊な状況ではないことを示している。また、日本とヨーロッパのどちらの調査においても、若年層ほど宗教離れの傾向が見られる。また、読売新聞社実施調査「年齢別信仰の有無の変化」から、高齢者も非宗教化していることが分かる。
 「神社に関する意識調査」の「あなたが今日大切だと思うことを、この中からいくつでも上げてください」という設問に対して、家族を大切にすること八六.〇%(八三.一%)、健康であること八四.二%(八〇.八%)、友人を大切にすること六三.三%(五八.七%)、祖先を敬うこと六〇.五%(六一.六%)、親孝行をすること五八.二%(五一.二%)と続いている。この中で、祖先を敬うことと家族を大切にすることを見ると多くの人が親や先祖のことを考えていることが分かる。また、「あなたのご家庭で行っている年中行事を、この中からいくつでもあげてください」という設問に対して、初詣・お正月行事八二.七%(九一.八%)、お盆・お彼岸七八.三%(七八.七%)、家族の誕生日五九.八%(六一.六%)、先祖の命日五一.一%(五四.四%)、と続いている。多くの人は、家族や先祖を中心にした行事を行っていることが分かる。
 ただ、石井研士の「データブック現代日本人の宗教」に依れば、「あなたは何か信仰していますか」の問いに対して「はい」と答えた人が、戦後まもない時期では六割程だったものが現代は三割程度まで低下している。神棚の保有率も戦後八〇%から五〇%に・仏壇の保有率も八〇%から六〇%に低下している。宗教意識はその時代時代の社会の要素によって深まったり、薄くなったりするので、若者も加齢してくるに従い宗教に関心を持つ可能性もあるし、老齢化しても宗教から離れた状態であり続ける可能性もあるが、なぜこのような結果になったのかを考えると同時に、宗教に関わる者は、いかに深める要素を増やし、希薄にする要素を減らしていけるかを考えなければならない。特に神社関係者は、「あなたは何か信仰している宗教がありますか」の設問に対して神道四.二%(三.八%)という結果に対する原因を真摯に考えていかなければならない。

 二 神社と共同体

 原因を追及するためには、神社の存立基盤から考えなければならない。神道は日本歴史の発展の過程で時代時代の宗教や思想(儒教・仏教・国学等)と結び付き様々な神道となって展開してきている。江戸後期までを簡略に纏めれば次のようになる。
 ① まず、狩猟時代までは家族を中心とした小さな単位の共同体が「生きていく」ために、祈りと感謝から生じたアニミズム・自然崇拝などの原始宗教である。
 ② 続いて、水稲農業が始まると、共同体は一定地域に定着するようになり、食料等の保存も可能になっていった。そうすると共同体同士の交易も始まり、共同体所有地域の拡張・所有物の増加を考えるようになり、それに伴い作業に必要な所属員を増加させていった。そのために共同体を外部の勢力から守り、増加した所属員の生活を円滑に行う必要性から生じたシステムとして、「共同体だけの神(他の共同体の者には拝ませることはなく外部に対しては閉鎖的であるし、内部に対して安心感と、楽しみを与える存在)」を創設していったのである。
 ③ その後時代が進むに連れて、多数の共同体の中に、地理的条件、その年々の豊作不作、大陸からの新技術の導入などによって格差が生じ吸収拡大が行われ、最終的に国という単位の共同体が出来上がった。しかし、この時代では、国を奪い奪われ、支配非支配されることよりも、共同体同士が融合していくことの方が多かったために、ヨーロッパとは異なり国に唯一絶対の神を設けず、各共同体の神を認め、神の系譜を設けて各共同体が一つの系統に遡れる様に設定し、大共同体を統率しようとしていったのである。古墳時代以降になると、支配するものと支配されるものの身分がはっきりし、統率すべき正統性を持った神に繋がることを示すようになっていき、祖先崇拝も大きな柱に加わることになる。
 ④ 更に、開明派が国粋派に勝利し、仏教国になるように思えたが、本地垂迹説・神木動座など仏教と結びついたり、時折上下関係が入れ替わりながらも融合していき、儒教・朱子学などとも融合し、神道諸説を僧が研究することもあったり、神道思想から仏教思想を取り除こうとする流れもおこっていた。
そして、これらが明治時代に整理され、敗戦によって新たに展開していった。
 また、岸本英夫が農村において神社が果たした伝統的な役割として次の三点を挙げている。
一、神社は村の守護神が鎮座するところとして崇敬される。
二、神社の境内は、ここに全村民が年ごとの祭りを行ったり、他の重要な出来事の際などに集まる、聖なる共同体の中心である。
三、神社は村人たちの精神的な「故郷」である。また村人たちが、何かむずかしい一身上の問題に直面したりすると、ひとり静かにものを考えるところでもある。そして村人たちが先祖から連綿と受けついでいる血と文化の長い鎖を心に感じるところである。
これらから、神社の伝統的な役割として共同体における役割・村人個人の精神的支えという役割を示していることが伺える。
 また、平井直房は、「現代神道の基本問題」において、神道は「神社の持つ集団生活の精神的中核としての機能を堅持すると共に、他方において、個としての人間問題に対する解答と救済を用意してかからねばならない。」と述べている。
 神・神社は共同体と共に存在し、その共同体自体や所属員を守り・役立ち、また逆に守られ・利用されてきていたのである。神社の存立基盤は、歴史的にこの様な共同体に依存している。

 三 近代の共同体

 江戸時代後期まで、日本では小さな単位の共同体において「共同体だけの神」を拝む伝統から結び付きは強かった(但し、その共同体から離れ、別の共同体に異動する者は当然のことながら存在し、時代に沿って増減していた。そのために、共同体離れを防ぐため、時代に応じて様々な方策を立てていた)。しかし、国としては、国学者等を除いて、ナショナリズムは希薄であった。日本は四方を海に囲まれ、領土を脅かされた経験は欧州の国々に比較して相当少ない。つまり、国を奪われた後の悲惨な状況を経験したことがなく、日本国民として一致団結し、侵略に立ち向かったことも僅かでしかない。歴史上日本でのナショナリズムは発動が少なく、今の若者に限らずナショナリズムを持たずに過ごした日本人は多かった。
 日本におけるナショナリズムは、まず、白村江の戦い(六六三)から六百年以上経過した蒙古との国の存亡を掛けた外交と蒙古来襲のときであり、この時、本朝意識の発芽・日本人の国家意識をもたらし、日本の国体について天照大神の子孫である天皇家の正統性、神の加護、国土の神聖視を再認識させ護持すべきことを求めるに至っている。国内戦しか経験のない日本にとって蒙古軍を一蹴した暴風雨を「神風」と呼んだのもその例であろう。
 その後、海外との交流はあったものの、国の存亡を意識したのは、更におよそ六百年経過した江戸後期のことである。アジア諸国の植民地化やアヘン戦争の情報・黒船などの開国や寄港の要求により、平和を続け軍事力の最新化を怠っていた日本にとって独立国としてあり続けるための幕府外交やそれに対する批判など日本国中がナショナリズムを中心とした議論や内戦を行っている。その行き着いた先が「尊皇」である。ナショナリズム思想の形成要素は、①国民的伝統・②国民的利益・③国民的使命であり、それを日本で満たすために、国学・水戸学・復古神道を基礎に元寇の時と同じように日本の国体について天照大神の子孫である天皇家の正統性、神の加護、国土の神聖視を再認識させ護持すべきことを求めたのである。この時期に国としての結び付きは強化されていった。
 明治政府は、天皇を中心に据えた国造りのために、具体的には、天皇自身は伊勢神宮に参拝するようになり、宮中から一切の仏教色を閉め出し、新たに神々を祀り祭祀に勤しむようになり、人々が祖先崇拝に励み、神話時代に祖先たちが天皇の恩恵を受けて暮らしていたことや天皇に忠誠を尽くしてきたことを思い起こさせ、新しい国造りに積極的に参加するように指導していた。そして、それを支えるために神道を国教にしたいと思っていた。しかし、神道式によることへの仏教側からの不満や疑念・欧米からのキリスト教解禁の要請により国教にすることが出来なかった。そのために明治憲法第二十八条「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」が出来上がったわけである。一般に「安寧秩序」「臣民タルノ義務」があるが故に現行憲法第二十条「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とは理念を異にするように理解されているが、現行憲法でも「公共の福祉」による制約を受けており、実態としてはほとんど差異はなかったのである。
 後に尾を引くのは、天皇を中心とし、尚且つ浄土真宗などの僧侶の協力を得、キリスト教を解禁するために明治政府が弄した詭弁である。
 真宗における「真俗二諦」論によって島地黙雷らは、諸神とは、つまるところ、祖先や国家に功労のあった人々のことであり、それらの人々を祭るのは、その人々の思徳を忘れないためであり、あるいは、功労者の偉業に倣うためである。したがって、神社に出向いて幣帛を捧げるのも、彼らに対する敬意の表現なのであり、そうすることによって、祖先の教えを守り、人間であることに恥じないようにするためである。祖先の恩に報い、その功労を褒め称えることが、神を敬う理由である(「三条弁疑」)と述べ、更に、神官という職は、祖先の祭祀を司ることに尽きているのであり、およそ宗教とは無関係である。だから、歴史を振り返って見ると明らかなように、昔から神道とは別に、人間の生き方や救済を目的とする儒教や仏教が存在してきたのである。ここにも、神道が宗教ではないことがはっきりと示されているではないか(「大教院分離建白書」)と述べ、「神道は祖先を崇敬する道であり、それは宗教とはいえない」とした。この「神道非宗教論」により天皇を中心とした政治体制は、キリスト教解禁とも摺り合わせがなされたが、神道にとって、失った部分もおおくあったことをは否めない。国教になりきれず、宗教ではない存在として国と切っても切れない関係になったのである。

第二章 戦後の共同体

 一 GHQの政策

 日本は昭和二十年八月十五日ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をした(と思い込まされている)。宣言は、軍国主義勢力の排除、民主主義の確立、言論・宗教・思想の自由、基本的人権の尊重などを指示していた。それに沿って、治安維持法の廃止、労働組合結成奨励、農地解放などの政策を行っていった。日本国憲法もそれに沿って占領下に作成されていった(ドイツでは独立後に作成)。十月四日のGHQ司令官と近衛文麿の会談の時点から始まっていくが、米国務省からA級戦犯容疑者を作成の中心に据えることへの批判が出て近衛文麿は解任され、幣原喜重郎に作成が委託された。この時GHQは、間接統治を目指し、日本の自主性になるべく任せる態度をとっていたが、その「憲法改正要綱」の草案では、天皇の不可侵、天皇による軍の統帥、議会の協賛を持って天皇が戦を宣言したり和を講すると言った明治憲法とほとんど変わらない内容(共産党などを除いて他の民間研究団体や政党から出された案もほとんど差異がなかった。)で、GHQ内部で草案作成の決意をした。GHQは司令官の「天皇は社交的君主としての国家元首」・「国権の発動による戦争の廃止」「封建制度の廃止」を三原則とし、一週間で作成し、吉田茂外相・松本憲法担当相らに、その草案を突き付けた。政府は抵抗するもののほとんど変更することなく「憲法改正草案要綱」として、吉田内閣の時、明治憲法改正の手続きに従って(明治憲法七十三条「将来此の憲法の条項を改正するの必要あるときは勅命を以て議案を帝国議会の議に付すべし」)帝国議会によって(一部訂正は有ったものの)改正された。
 この様なGHQの政策によって共同体は状況が一変する。多くの政策の内、まず、昭和二十年十二月十五日にGHQは「神道指令」(〔条文の抜粋〕○神道及神社ニ対スル公ノ財政ヨリノアラユル財政的援助並ニアラユル公的要素ノ導入ハ之ヲ禁止スル。而テカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル。○従来部分的ニ、或ハ全面的ニ公ノ財源ニヨツテ維持セラレテいタアラユル神道ノ神社ヲ、個人トシテ財政的ニ援助スルコトハ許サレル。○神道ノ教義、慣例、祭式、儀式或ハ礼式ニ於テ、軍国主義的乃至国家主義的「イデオロギー」ノ如何ナル宣伝、弘布モ之ヲ禁止スル。而テカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル。○伊勢ノ大廟ニ関シテノ宗教的式典ノ指令、並ニ官国幣社ソノ他ノ神社ニ関シテノ宗教的式典ノ指令ハ之ヲ撤廃スルコト。○内務省ノ神祓院ハ之ヲ廃止スルコト。而テ政府ノ他ノ如何ナル機関モ或ハ租税ニ依ツテ維持セラレル如何ナル機関モ、神祇院ノ現在ノ機能、任務、行政的責務ヲ代行スルコトハ許サレナイ。○日本政府、都道府県庁、市町村ノ官公吏ハ、ソノ公ノ資格ニ於テ新任ノ奉告ヲナス為ニ、或ハ政府乃至役所ノ代表トシテ、神道ノ如何ナル儀式或ハ礼式タルヲ問ハズ之ニ参列スル為ニ、如何ナル神社ニモ参拝セザルコト。)を発し、日本政府に対して、神社と国家の分離並びに、国家が定めた祭祀制度の廃止を命じ、神社を一つの宗教とし、ただ、信奉する人々によっての運営は認める旨を指令した。これにより神社の公的面は悉く除去され、神社の本質、祭祀の在り方は、著しく歪曲されてしまった。また、翌年二月二日官制廃止となり、神社は国家の管理を離れ、宗教法人として宗教法人令、更には宗教法人法に依つて運営されることとなった。
 明治憲法の起草者たちは、「皇祖皇宗の遺訓を明徴にし典憲を成立し条章を…」「皇祖皇宗の後裔に貽したまへる統治の洪範を…」という告文に見られるように国家の歴史の連続性というものを重視していた。しかし、日本国憲法においては、戦後、日本が新たに出発するにあたっての宣言という性格があるために、日本の歴史を意識的に否定し、過去と断絶することを強調している。世界の憲法、特に前文を見ると通常どこの国の憲法でも、その国の成り立ちや、宗教、民族、歴史、表現する場になっており、ほとんどの国が神について言及している。神に言及していない国では、国家や民族の歴史から様々な原理を引き出し、憲法を自国の歴史の中に位置付けている。
 明治憲法や多くの国の憲法はエドマンドバーグのように国家を過去、現在、未来、すなわちすでに死んだ祖先、現在の我々、まだ生まれていない子孫、これら三者から構成されている連続性ある共同体だと捉えているのであるが、現日本国憲法は「コモンセンス」の著者であるトマスペインが「人間は、生存をやめると、その持っていた権力も欲求も、同時に存在をやめる。この世の事柄にもはや関与しなくなった以上、この世の統治者は誰であったらいいかとか、この世の政府はどのように組織し、また、どのように動かしていったらいいかとか、そういったことを指図する権限は、死んだ人間にはもはやない。」と述べているのと同様にナショナリズム思想の形成要素の内の、国民的伝統・国民的使命を排除したのである。
 「町内会、隣組等による神道の後援及び支持の禁止」の達しが昭和二十一年に出されたことも、地域社会と神社との関係に一石を投じることになった。
 民法においては、昭和二十二年に旧民法が改正され家長制度が、日本国憲法の第二十四条(個人の独立と平等)に反するとされ、廃止された。
 旧民法において認められていた家制度は、法律上の制度であっただけでなく、家父長制的イデオロギーに支えられ、家の構成員を戸主と戸主以外の者(戸主権に服した者)に分け、戸主は構成員の婚姻等による家籍の変動に対する同意権や戸主権に服しない構成員に対する離籍権を有するだけでなく、祖先の祭祀と家産(戸主の個人的財産)の継承権と独占支配権を有し、これが大家族(共同体)を統率するための精神的・物質的基礎(求心力)となっていた。それまで、抽象的な全体のために個人を犠牲にしても顧みなかった全体主義に対して、具体的な個人の尊重が人間の社会生活の目的であるとする個人主義を正統とした。自由主義・民主主義は全て個人主義に立脚し、これが法的に裏付けられたことにより、個人を中心とする社会になっていった。
 ただ、家制度が憲法から外された理由についてはGHQの責任とも言い難い。『八木秀次〈反「人権」宣言〉』によれば、GHQも日本の側も家制度の廃止は考えておらず、GHQの草案に当初「家族は社会の基礎」という言葉があり、その第二十三条に「家族は人類社会の基礎にして、その伝統は善かれ悪しかれ国民に浸透する。」と書かれていたのである。当時の奥野健一司法省民事局長も「私はその責任者であった関係上、司令部とのいろいろな交渉をいたしましたが、正面きって家の制度を廃止しろといったようなことは全然ありませんでした。」と証言している。家制度の廃止を画策したのは、当時の進歩的な民法学者である我妻栄と中川善之助の二人で、戦争を遂行した旧体制の基礎を家と家族であると考え、それを徹底的に解体することを善と考え、家や家族を大切であると考えることは、封建的で反動的であるとして行ったことである。この二人が木村篤太郎司法大臣に会って、「戸主・家族その他の家の制度に関する法律を廃止しないというような政府の方針であれば、われわれは(民法改正起草)委員の仕事をやっていけない。」と言い、「家・戸主権・家督相続の制度は廃止する必要がない。」と答弁していた金森徳治郎国務大臣も廃止すべきことを決定したことが経緯である。

 二 高度経済成長政策と共同体

 住田正樹は「現代社会とアノミー」の中で、「昭和三十年代半ばから五十年代半ばにかけて高度経済成長政策がとられ、生活は豊かになっていった。高度経済成長政策によって産業化が大幅に促進され、第一次産業が衰微していき、第二次産業・第三次産業が興隆し、同時に産業化に伴う都市化が急速に進行した。その結果、第二次産業・第三次産業が集中する都市に大量の人々が移動し、過疎過密化が激化した。更に、産業化とそれに伴う都市化によって小市民的な都市勤労者世帯が増加し、家業社会からサラリーマン社会へと変化し、家族形態も、核家族世帯へと変化していった。国家や社会、政治や経済という「公」よりもさまざまな消費欲求を満足させ、余暇を楽しむという豊かな、和やかな家族を単位とした生活、いわゆるマイ・ホーム主義が浸透していったのである。団地サイズの「狭いながらも楽しいわが家」を家族のモデルとした時代であり、日本人の意識・態度が家族を単位とした私生活化へと急傾斜していった時代である。」と述べている。合わせて共同体のパターンも地縁・血縁共同体から会社一家といわれる共同体に移行している。
 人々は、空気のようにいつも存在している共同体をおろそかにしていった。豊かさを得たことにより、豊かさを競うようになり、豊かさを失いたくないために利益を追求できる共同体を求めたのである。

 三 男女雇用機会均等法以降

 更に住田は、「昭和五十九年に男女雇用機会均等法案が発表されてからは(男女雇用機会均等法は昭和六十一年四月一日施行)、女性も男性と対等の労働条件を求めるようになった。働くことの障害になるような社会的慣習や通念を否定し、男女の均等な機会と待遇を確保するための諸施策の推進を要求するようになったのである。夫婦別性の要求、婚姻届の否定と事実婚の認定要求、家事役割分担の要求、夜間保育・長時間保育の要求、女子労働のための雇用管理改善要求等である。こうした女性の自立志向・自己実現志向の高まりもあって少子化傾向が生じてきた。合計特殊出生率(一人の女子が再生産年齢(十五~四十九歳)の間に出産する子どもの数)は昭和五十五年には二.〇〇を割り、平成二年になると一.五〇へと減少し、平成十五年には一.二九にまで低下した。既婚女性が自分の理想とする数の子どもを持とうとしない理由は、「一般に子どもを育てるのにお金がかかるから」(三七%)、「子どもの教育にお金がかかるから」(三三.八%)(複数回答。『厚生白書』平成十年版)であるが、これは自分たちの生活を豊かに暮らしたい、あるいは生活を楽しみたいということの反映でもある。実際、「自分の仕事に差し支えるから」(一二.八%)、「自分の趣味やレジャーと両立しないから」(五.七%)という理由もある。これまで支配的であった「女性は結婚して家庭を守ることに専念すべきだ」という考え方は否定され、結婚しても就業を続ける女性が大幅に増えた。また社会活動や余暇を重視する女性も増え、女性の生き方も多様化してきたのである。「自分を犠牲にしてでも家族のためなら尽くしたい」という意見についての、一九八五年と一九九六年の調査結果であるが、女性で賛成の意見が大きく減少してきていることが分かる(野村総合研究所 一九九八)。「家族のために尽くす」という、これまでの考え方は否定され、自分の生活を重視する傾向が急速に強まっているのである。」と述べている。
 高度経済成長の頃核家族が増加したが、近年は単独世帯(平成十二年単独世帯の割合二六.五%)が多くなっていることが挙げられる。一人暮らしでない場合でも次第に主人は単身赴任、奥さんはパートに出かけ、大きな子は下宿をし、小さな子は鍵っ子で親が家に帰るまでどこで何をしているのかさっぱり解らないという状況や<「家」という建物があるだけで時々戻ったり、寝に帰るだけの場所になってしまっている状況が多くなってきている。米国の例では家族が一緒に暮らすのは当然のことで単身赴任など考えられないし、幸せとは家族が一緒に楽しい時間を過ごすことであるらしい。離れて暮らすとすぐ離婚ということになるせいかもしれない。しかし、幸せを家族との時間の中に見いだす努力をしていることはよく考えてみるべきだと思う。日本では家族の幸せのために頑張って仕事をしている。一九九〇年代のドイツ・米国・フランスと比較して、労働者一人当たりのGDPは殆ど差がないのに対して、国民一人当たりのGDPは三割以上も大きくなっている。このことはドイツ・米国で国民の約四五%・フランスで四十%以下の国民が働いているのに対し、日本では五三%の国民が働いていることを示している。そのGDPを国民総労働時間で割った「労働生産性」みるとドイツ・フランスにおいて百時間で出来るものが百八時間掛かっており効率が悪い。国民の多くが働いているのに、効率が悪いということは、家族が家に揃う割合の低さを示している。
 家の造りから見ても昔は建具をはずせば広く使える造りが多かったが、建設業者の方に住宅展示場などで聞いてみると、最近は一階はリビングとキッチンそして和室が一部屋で二階は寝室や子供部屋などに区切られた造りになってきている。親戚縁者など多くの人が集まることの多かった時代から家族がくつろぐ時間以外は個別の部屋で過ごす時代への変遷を感じる。
 三浦展は、「大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』ナカニシヤ出版」を引用し、大庭健は、現代人の中に「所有領域の中ではミニ専制、無所有領域では放縦」という傾向があると言っている。つまり、個室の中で「ここは私の部屋だから何をしてもいい」という意識が強まり、また誰か他の「私」の所有物には触れないようにするが、誰も私有しない「公」にはまったく無関心で、そこでは何をしてもいいと考える(たとえば街中で座り込む若者、電車内で飲食する若者など)。そういう社会は「没公共的な私有社会」であると大庭はいう。そして家庭内ですら、家族の成員が「私的城塞」としての個室の中でミニ専制君主化し、居間や食卓のような公共空間が縮小する。さらに、子どもまでもが親の私有の対象になり、他の子どもとの差異化が強要される。と言い、三浦展は、特に「郊外ーマイホームー個室」という私的所有の領域が連鎖した空間ではますますそういう意識が強まりやすいのではないか。「マイホーム」「マイカー」「マイルーム」「マイタウン」という言葉が象徴しているように、戦後の大衆消費社会では国民が「私」の領域を増やすことが大きな喜びであり、「私」が所有する空間では、誰に気兼ねすることもなく、自分の自由に振る舞うことができた。と言っている。
 昔はどんなものでも粗末にせず、大切に使うことが当然のことであったし、公共的ものほどより大切に使うように教えられていたが、「公」に無関心になった上、この様な状況になって、「私」の領域に経費をかけることが多くなり、その「私」も個々バラバラで興味のあることには惜しまないが、興味のないことには一円たりとも支出したくないのである。その結果として、一人ひとりを満足させるためにそのかけ方も、殆どが外注になり、食事についても、仕事をした後に煮炊きをすることを面倒に感じ、コンビニ・スーパーなどで購入したもので済ましてしまう。衣類にしても使い捨ての様相である。
 そうすると、企業がそのような世帯をターゲットにした戦略で個人単位の総菜や電子レンジで簡単に調理できる冷凍食品やインスタント食品を多様に販売し、益々手軽で便利な食生活に変わっていくことは予想できる。そうすると益々外注が増えていく。
 高齢化に伴う老人介護にしても、家族で行うことが当たり前の時代から、経費を払って、専門に介護して貰うことが当然になり、介護保険が生まれてきた。しかし、介護保険が運用面で国民全体に浸透してくると、自己責任意識が薄らぐ上に、社会を支える世帯の公的負担は重くなり可処分所得を減らしていく。生活を便利にしようと外注を増やしていくと必ず経費が増加し、より稼がなければならなくなり、家族と過ごす時間は益々無くなっていくのである。
 また、少子化等により、購買人口も減少してくると、企業は生き残りのために価格競争を行ったり、中国・東南アジアなどに生産拠点を移し、海外で過ごす日本人を増やしていく。この事は、国内を急速に空洞化し、デフレの傾向を益々増やし、日本に住む日本人を減少させていくだろう。
 これらの現象は、親が祖先から受け継いできた家・地域という共同体の歴史・伝統を受け継がせる「場」・「時間」・「受け継ごうという意欲」を喪失させつつある。
 本来、天然資源に恵まれていない日本にとって無駄遣いはしてはならないことであるし、大切にものを使うことは、小さな物一つから始まって身近な人を大切にする気持ちを育てその時その時に出会う事柄を大事にしていくことにつながり、人を育てていく上においてとても重要なことであるが、肥大化してしまった日本の経済や雇用を考えると大量生産大量消費をやめることが出来ない。この矛盾を抱えたまま時間を重ねることが大きなジレンマとなり、何が人として大切なのかを見失わせ、刹那的な享楽に時間を費やし、地球に住む生物の一員として、「幸福とはどう生きることなのか」を考える時間が少なくなってきている。家ですら共同体としての意味を失いつつある。精神的に病む「個」も増加してくる。
 人は元々楽が出来れば楽がしたいし、自分の意志でどうにもならないものは嫌いだし、自分以外のことを考えずに済めば考えずにいたいものである。しかし、あらゆる人はある限られた共同性が作ってきた文化環境の中で生まれ育つほかなく、限られた共同性が、ある幻想世界、文化世界の物語を作り、それを、その只中で生まれてきた人たちが、限られた関係を通して得られた情緒的な信頼関係によって受け継ぐことによって「信」は形成されており、正しいとか正しくないとかという理屈を通り越して、じぶんのすべきことを行っているのである。しかし、その共同体が機能できなくなり、人は、「自分が楽しければよい、楽であればよい存在」「自分の意志でどうにもならないものを(自然など)否定する存在」「自分がなぜここに存在しているのかを考えない存在(祖先も子孫も、過去も未来も考えない存在)」に相当近づいている。
 また、人がそのようになりつつある上に、少子化等による人口の減少は、現在の過疎地域を人の住まない林野に変えるだけでなく、現在過密な都市ですらその形態によっては過疎化が生じ、生活圏が成立しない状態に陥る可能性がある。
 更に神社に対する各種の訴訟問題(浄土真宗僧侶などによる自治会等が祭典費の寄付集めをすることに対する訴訟・靖国神社問題や玉串訴訟問題など)は、ただですら危うい神社を悩ませて来ている。

 四 一般神社の現状

 明治時代に旧習陋習、古いしきたり、あるいはよくないことを一洗し、人材を登用しようという大理想を明治天皇が「五箇条のご誓文」で誓われたことに伴い、世襲で代々受け継いでいくことによる公私混同の弊害を正すために「世襲廃止」が打ち出され、戦後も、宗教法人である以上、出来れば完全に法律に則した形の組織で運営され、役員・職員に世間並みの給与を支給できる状況で、適任者をその都度選任すべきであるが、現代の神社界を眺めると、大社や観光地の神社や立地条件の良い神社を除いて大半の神社において職員が神職一名の場合が多く、その神職の体調・方針等によって神社の活動が大きく影響されている。更には、その神職の内、自営・勤労を含め七割以上の神職は、第一種兼業、第二種兼業の差こそあれ兼業によって生計を成り立たせている。神職としてのみ生活している者の中にも会社員のように大社に務めている者もいる。その中で殆どの神社は、兼業をしてでも受け継いでいかなければならないと考え、努力しているが、次第に世襲しない・出来ない場合も増加しつつあり、その場合、他から本務社として神職が入る場合よりも近隣の神職の兼務社になる場合が多い。本務として一社を維持管理するだけでも大変な労力を必要とするが、兼務社が多くなれば一社一社に対する行き届いた維持管理が出来なくなってしまう。結局は兼務社を多く抱えすぎると虻蜂取らずの状況に陥る危険性もある。在るべき姿とは、反対の方向に進みつつある。
 長期的なスパンで経済を考えると、神社界においても、少子高齢化・人口減少・産業の構造変化により、兼業出来る職種も少なくなり、神職を雇っている神社においても雇えなくなる可能性もあり、仮に、「職業選択の自由もあり、世襲しないでくれ。」と氏子や包括団体が挙っていうようであれば、重圧から解放されたような気持ちになる神職も何割かは増加するような気がする。現在でも、①子供が神職の資格を取得しないので、包括団体から独立し、神社を私物化して好き勝手な運営を行うようになったり、②神社を実質上新興宗教団体に売り渡し、姿を隠したり、③自分の報酬のために境内地を担保にして借り入れを行い、その返済が出来無くなり訴訟問題が起こったり、④宗教活動を全く行わず境内地を駐車場等としてのみ使用したりということが行われているが、今後これ以上の予想外のことが起こる確立は高くなると思える。
 神社の維持管理について、社寺領上知令によって、境内地以外の全社領を没収されながら、補助などの給付が僅かだった明治時代をやっていけたのだから神職がいて氏子と親しく接し、お参りにくる人に対して丁寧に扱っている神社はそれなりにやっていけるという方もあるかもしれないが、神社を取り巻く環境の急激な変化を分析し、目の前の問題を解決していくことも大切だけれども、神社神道が百年後二百年後生き残っているためには(在るべき姿として存在するには)、今何をなすべきか、何が出来るのか、何が在るべき姿なのかを真摯に考え実行していかなければならない。
 神職養成機関を中途で辞める学生に、「なぜここにきたのか。」と質問すると、それに対して「親に行けと言われたから。」と言うのが第一の答えで、「自分はほかの事がしたかったけれども、取り敢えず資格だけは取ってくれと拝み倒されてきたんだ。だから僕にはここをやめる決定権があるんだ。」と言い、自分が貧乏くじを引いたような気分でいるようであり、また、そうでない学生に「君の神社の御祭神は…。」と聞いても殆どが答えられず、神職子弟の家庭教育が全くなされていないことの証であり、学校教育においても「日の丸・君が代・神話等」について教わっていないのが現実であるが、それ以上に敢えて子弟を神職にしない神職も増えている。そしてこれは、個人営業の事業を行っている者が、先細って行く状況を感じて「子供たちに自分の跡は継ぐことを考えるよりも、自分のやりたいことを探せ。そうでなければ安定した企業に入れるように勉強しろ。」といってシャッターを閉じて行っている状況の後追いであるように思える。神職というものを、神職の子弟を始め、一般の者に対しても魅力のある存在にしていかなければならない。その第一として、子弟の親である神職が魅力的で聖職者として尊敬され生活基盤が確立されていることが大切である。第二に地域社会において神社の存在意義が認識されていることが大切で、自分のために神社が存在するのではなく、地域が必要としているから神社は存在し、その神社を支えるためには自分が必要なのだという意識を子弟に持たせることも大切である。

 五 必要とされる存在として

 養老猛司は、普通にこの世の中で暮らしていれば「共通理解」に達するのが通常であるが、戦後日本ではその「共通理解」が偏ったか失われているかで、「共通理解」のもとになる共同体が一方で残っていて、一方で壊れてしまっている。本当の共同体ならば、リストラは赦されるはずが無く、ワークシェアリングが正しい方法だと述べている。更に、社会全体が一つの目標なり価値観を持っていた場合大共同体は成立していたが、「誰もが食うに困らない」という理想が満たされた今、各々の理想はバラバラになり共同体も崩壊していると述べ、昨今の風潮としてバラバラであることが自由の表れで「個性」の礼賛のように感じている。また、V.E.フランクルが講演で、「人生の意味」を「他人が人生の意味を考える手伝いをする」こととし、日常生活において人生の意味を見出せる場は、まさに共同体しかないと述べたことを紹介している。
 また、神野直彦は大量生産・大量消費を実現させた工業社会は、地域文化を破壊し、地域文化に基づく生活を破壊し、大量生産された生産物を大量消費する生活機能を強制してきたが、工業が衰退し、新興工業国に工場はシフトし、工業誘致によって成立してきた地域社会が荒廃を始めている。それを再生させる方法としてあくまで工場誘致による手法もあるが、それは必ず、行き詰まる。それよりも「サスティナブル・シティ」と欧州で合言葉のようにいわれている「人間生活の場として持続可能な都市」として再生させる方法である。これは、地域社会が各々の財政について自己決定権を持ち、工業によって汚染された自然環境を取り戻し、大量生産・大量消費によって破壊された地域文化を地域の共同事業として保全・再生・振興させていくことである。生産・消費についても地域地域・個人個人の好みや消費行動といった個人情報を蓄積させそれらに合わせた販売方法がこれからの時代には重要となる。信頼関係さえあれば、昔の御用聞きのような存在が外出に億劫な者・物理的に難しい者・一人暮らしの者等にとって有り難い存在になっていくであろう。と述べている。
 つまり、人々の意識無意識を問わず必要なものは、人間が人間らしく生活していける地域社会(共同体)、その構成員による自発的な共同事業を行える社会であり、それを再生することを抜きにして幸福にはなれないのである。
 共同体意識の再構築は社会福祉基盤の構築の上からも非常に大切なことである。人々は辛いことから逃れ、楽しいことを望む。その為に、見返りを伴わない苦労を嫌がり、地域のために働くことを望まない。そうかと言って、老後のことを考えると共同体に救いを求めるのである。ゴミステーションの掃除は嫌がるが捨てるのは住民税を払っているから当然だと言い、税金は払いたくないがサービスは受けたいのである。繰り返すが、人々は自分たちによる共同体の維持はしたくないが共同体を必要とはしているのである。
 その様な人々の意識の中で共同体意識の再構築は非常に困難である。しかし、人間らしく生きていくためにはそれを実現しなければならないし、それを成し得る団体として神社こそ前に述べたようにその成り立ちや歴史的経過から相応しい。再生の象徴として貴重になるのが地域社会に根付いている祭事や文化的イベントである。それらは地域住民の協力がなければ成立しないのであるが、各種保存会等や福祉団体と関係があるなど、それを行うための材料を持っている神社は多い。その材料を生かして、祈念と感謝の祭りだけでなく、共同体の親睦活動としての祭り・老若男女の交流の場としての祭りという意味を創造していかなければならない。祭りは様々な年代の人間関係を深めるものだという能動的意識にしていくことに加え、日本人のアイデンティティー、郷愁、生命力の実感を始め、祭りから多くのものが得られることをPRしていかなければならない。

 結び(現代における神社)

 産業の空洞化や少子化によって人口が減少していく上に、今まで述べてきたような理由で人々は共同体と距離をおく。このような状況で大切なことは、どのような中にあっても、「共同体意識の再構築」すること・「自然保護・環境保護」を支えること、人々に対して「自分の存在意義」・「人生の意味」を考えさせ、病める「個」を救済することは、多くの人々と共感仕合えることであることから、神社が長年積み上げてきた伝統・歴史を上手に生かし、共同体の一員として人のために生きることで、喜び・楽しみを生み出す姿を示し、神職一人一人が魅力的で聖職者として尊敬されること、生活基盤を確立させていくことである。それらの活動を通じて地域の人々に神社の必要性を再認識させ、地域が必要としているから神社は存在しているのだと信じてもらい、その神社を支えるためには自分が必要なのだという意識を持ち続けなければならない。その時に、その共同体に自分の信念・思想・信条などを理解させておく必要がある。なぜならば、神社の所有地が公共事業用地としてかかるときなど、共同体によっては、極力避けられる可能性を模索するものも在れば、処分した補償金で社殿などを修復できる方がよいと考えたりするものも在る。その考えが自分と反したとき共同体と対立しなければならなくなるような例が考えられるからである。現代において神社・神職は、本来の在り方を広く知ろ食めし、自分たち以外の多くの者が、その神社・神職の立場を擁護してくれる状況を築く努力をしていかなければならない。

 注
一 石井研士著 「データブック現代日本人の宗教」 新曜社
二 阿満利麿著 「日本人はなぜ無宗教なのか」 ちくま新書
三 石井研士著 「手に取るように宗教がわかる本」 かんき出版
四 石井研士著 「戦後の社会変動と神社神道」 大明堂
五 石井研士著 「戦後の社会変動と神社神道」 大明堂
六 宮崎克則著 「逃げる百姓、追う大名」 中公新書
七 イミダス二〇〇四 集英社
八 阿満利麿著 日本人はなぜ無宗教なのか ちくま新書
「真俗二諦」論の「諦」とは、真理のことであり、「真諦」は、宗教的真理といってよい。具体的には、阿弥陀仏の本願を信じて念仏するものは必ず浄土に生まれて仏になることができるという、法然によって発見され、親鸞に受け経がれた浄土真宗の教えのことである。
「俗諦」とは、浄土真宗の信者が守らねばならない現世のきまり、世俗生活の真理であり、具体的には、世間の支配者に従い、世間の秩序を守り、道徳を遵守する生き方をさす。
 浄土真宗において、このような教えが登場するのは、教団が強大になってからのことであり、教団防衛のために編み出された理論が「真俗二諦」であった。法然や親鸞の時代では、信者は、その信心をなんのはばかりもなく世間にあらわすことができた。だが、織田信長がその全国制覇の過程において、もっとも手を焼いたのが本願寺教団であったように、教団が強くなるにつれて、その信心が政治権力と衝突することになった。そこで、信心は個人の内面にとどめて、外面は現世の秩序に従うことが、要求されてきたのである。
 こうした「真俗二諦」論は、徳川幕府の支配下ではいっそう強化され、封建的秩序を遵守する宗教として、浄土真宗はその勢力を温存することとなった。それは、明治維新以後も持続され、現世の秩序を守る忠良な臣民を生み出す宗教として、支配者たちにその存在をアピールしてきた。
九 八木秀次著 日本国憲法とは何か PHP新書
十 小山常実著 「日本国憲法」無効論 草思社
 ドイツ憲法(基本法)「ドイツ国民は、神と人間とに対する責任を自覚し、…この基本法を制定した。」
 ポーランド一九九七年憲法「神または自らの良心に対する責任を感じつつ、…ポーランド共和国憲法を定める。」
 スイス一九〇九年憲法、「全能の神の名において、スイス国民と邦は、被造物に対する責任において、自由および民主主義と、世界に対する連帯と公開の中での独立および平和とを強化するために…以下の憲法を制定する。」など
十一 小山常実著 「日本国憲法」無効論 草思社
 大韓民国の一九八七年憲法は、「悠久なる歴史と伝統に輝くわが大韓民国は、三・一運動に基づいて建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した四・一九民衆理念を継承…。」
 中華人民共和国の現行憲法でも、「中国は、世界でも最もふるい歴史を持つ国家の一つである。中国の各民族人民は、輝かしい文化を共同でつくりあげており、栄えある革命的伝統を持っている。」
十二 トマスペイン著西川正身訳 人間の権利 岩波文庫
十三 石井研士著 戦後の社会変動と神社神道 大明堂
十四 林道義 著 家族の復権 中公新書
十五 農家戸数は、一九五〇年の約六百十八万戸から減り続け、二〇〇一年には約二百二十九万戸になっており、農家の半分以上が耕地面積一㌶未満である。農業人口も一九七〇年には約千二十五万人いたものが二〇〇二年には約三百七十五万人になっている。中でも専業農家は全体の十五%で農業収入を主とする第一種兼業農家は十%であり、残りの第二種兼業農家で、販売農家五十%と自給的農家二五%である。自給的農家を除外した農家一戸当たりの平均所得にしめる農業所得は約十三%でしかない。農産物の生産額も一九九〇年に約十一兆四千億円であったものが二〇〇一年には約八兆八千五百億円になっている。中でも米は九千億円減少している。(農林水産省の農業構造動態調査結果概要・農業経営統計調査・農業総産出額及び産出農業所得)
 漁業に関しても、二百海里漁業水域の影響もあり、一九八五年(千二百十七万㌧)から二〇〇一年(六百十三万㌧)まで減少し、一九八九年からは十三年連続して漁獲量が減少している。漁業で働く人も一九七〇年には五十七万人いたものが二〇〇一年には二十五万二千人になっている。しかもその内六十歳以上の人が四割を占めている。一戸当たりの魚家の所得に占める漁業所得の割合も一九七〇年には六五%あったものが一九八〇年には五四%一九九〇年には四五%となり二〇〇〇年には三八.六%にまでなっている。そのため漁獲量の減少を補うように二〇〇一年には一九八五年の二.四倍に当たる三百八十二万㌧の水産資源を輸入している。(農林水産省の漁業動態統計年報・漁業・養殖業生産統計年報・漁業経営調査報告)
 この様に一次産業とは言っても、一次産業外の収入にウエイトが置かれた状況での一次産業であると言える。漁業者の内六十歳以上の人が四割を占めているということは、若者の多くは一次産業以外の職種に就いていると言える。
十六 昭和三十年に四一%であった雇用労働者は、昭和四十五年には六五%に増加したが、自営業主は二五%から一九%に、家族従業者は三三%から一六%に減少している。(『厚生白書』平成十年版)
十七 昭和三十年に六二%だった核家族世帯は昭和四十五年には七二%に増加している。(『厚生白書』平成十年版)
十八 結婚したくない人、子供を持ちたくない人が急増していると言われている。NHK放送文化研究所の「日本人の意識調査」によると、一九九三年に結婚するのが当然と答えた女性は三九%で、しなくてよいと答えたのが五五%であるのに対して一九九八年に結婚するのが当然と答えた女性は三十%で、しなくてよいと答えたのが六五%で更に四十歳未満で見ると結婚するのが当然と答えた女性は十二%以下で、しなくてよいと答えたのが八六%以上であった。また、一九九三年に子供を持つのが当然と答えた女性は五十%で、もたなくてよいと答えたのが四四%であるのに対して一九九八年に子供を持つのが当然と答えた女性は四二%で、もたくてよいと答えたのが五三%で更に四十歳未満で見ると子供を持つのが当然と答えた女性は三十%以下で、もたなくてよいと答えたのが六四%以上であった。これは自分の生き方を阻害するものは望まないという気持ちの表れで、過去の親子関係が今の日本には存在しにくくなってきているのである。
 二〇〇〇年の国勢調査によると、年少人口は千八百五十一万人で総人口に占める割合が十四.六%である。一九九五年との比較では百五十一万人、率で一.三%減少し、更に一九七五年と比較してみれば八百七十一万人、率で十%近くも減少したことになる。国立社会保障・人口問題研究所発表の「日本の将来推計人口」(二〇〇二年一月推計)によれば二〇二五年には千四百九万人、率で十一.六%、二〇五〇年には千八十四万人、率で十.八%となる見込みである。合計特殊出生率(二〇〇〇年 一.三五 百十九万人出生厚生労働省調べ)からも推定できる。
 この少子化の原因と言われているものの大きなものが晩婚化・非婚化にあることを数値から示しておく。一九八五年と二〇〇〇年の国勢調査の比較による非婚率は、女性で二〇から二四歳で八一.四%から八七.九%に、二五から二九歳で三〇.六%から五四.〇%に、三〇から三四歳でも一〇.四%から二六.六%に増加している。男性でも二五から二九歳で六〇.四%から六九.三%に、三〇から三四歳でも二八.一%から四二.九%に増加している。
 更にその要因として幾つかの仮説がある。①適齢期未婚人口性比の不均衡、②女性の三高志向による階層間のミスマッチ現象、③女性の高学歴化・社会進出による経済的自立性の獲得と、それに伴う人生の選択肢の多様化、④伝統的男尊女卑的な家族に対する幻滅感、⑤見合い制度の衰退などが代表的なものであり、最近はパラサイト説や結婚の意味が変わって、男女の結び付き形態の多様化により非同居型の性的パートナーシップへの転換も多くなっているとする説なども出ている。
 また、初産の高齢化も晩婚化・非婚化に次ぐ原因とされている。女性の初産年齢は一九六五年には二五.七歳で、一九九〇年には二七.二歳で、二〇〇一年には二八.二歳に上昇している。その為に二子以降の出産が少なくなっている。
十九 河野稠果 著 人口 イミダス2003内
二十 高齢化とは総人口中に老年人口の占める比率が七パーセントを超えて増加することを意味し、七%から十四%に何年で到達するのかを高齢化の速度と言い、日本では一九七〇年から二四年で到達している。ドイツで四十年、英国で四十七年、スウェーデンで八十五年、フランスで百十五年掛かっているが、アジアでは日本以上のペースの国もあり、韓国で二十一年、タイで二十年、シンガポールでは十八年で到達している。
 その主な原因としては、医療の進歩により、平均寿命が延びたことであるが、高齢化が大きな問題になるのはこれからである。戦後のベビーブームの世代が老年になったときから社会保険を圧迫し始め、年少人口と老年人口の和を生産年齢人口で除した従属人口指数が一九九〇年には四三.五%であったものが、年少人口が減少するにも拘わらず、二〇五〇年には八七%に達する見込みで、国全体を生産年齢で支えることが出来なくなるであろう。支えられなくなった国は、地方に責任を丸投げし、地方も財政面では対応できなくなっているだろうから、おそらく自治会等の範囲における、元気な老年が元気でない老年の面倒を見るような相互扶助を求めてくるだろう。その時に、身勝手で権利主張しか行わず、面倒なことをお金で解決する習慣の付いた人々が、その様な生活を受け入れられるだろうか。(日本青少年研究所の「高校生に対しての意識調査」において高齢になった親への支援を行う意識は、中国六六%・米国四六%に対して日本は十六%、親を尊敬しているかの問いに対して、米国八十%・韓国五五%に対して日本は十%である。)
二十一 小浜逸郎著 なぜ私はここに「いる」のか PHP新書
二十二 戦後の日本経済は、鉄鋼、非鉄金属、化学等の素材産業を基盤とし、その上に重電、重機械等の大規模製造業を中心とした産業構造で、それらは大量生産を基軸とし、多くの労働力を必要とし、一次産業からの人口移動が行われた。その中心が東京湾・大阪湾・伊勢湾であり、それらに面した東京・神奈川・千葉・大阪・兵庫・愛知・三重において敗戦直後の一九四七年には全人口の二六%であったものが一九七五年には三八%以上に増加し、その後緩やかになったものの未だに増加傾向にある。その緩やかになっている原因として産業構造の変化が挙げられる。それは軽薄短小といわれた広大な用地を必要とせず・海外からの大量原料を必要としない加工組立産業と消費関連産業(消費財産業・各種サービス産業)などである。特に各種サービス産業は基本的に現地で生産され現地で消費されるもので、三湾周辺だけでなく全国各地に拠点を作り始めたのであるが、これによって過疎化が解消されるわけではなく、採算がとれるある程度まとまった需要が無ければ成立せず、その条件を満たす都市に仕事を求めて人口は移動し、高齢者もそれぞれの持った条件の上で可能な者は、そうした都市に利便性を求めて移動すると考えられる。
 三湾周辺から各地の都市に人口移動が始まっても、過疎地の過疎化は、少子化も含めて深刻な状況になりつつある。都市においても人口の推移の形態は様々で「日経ビジネス(二〇〇二年四月十五日号)」では①「とにかく住めれば型」②「住めば都型」③「働きにいこう型」④「学校においで型」⑤「無変化型」⑥「外に遊びにいこう型」⑦「故郷に錦型」⑧「望郷型」⑨「出ていきます型」の九パターンに分けている。①はベッドタウンを多く含み職住近接のための施策をしなければ、巨大団地が出来て三十年ぐらいで高齢化・衰退を始める。②は大都市周辺で近郊に産業や大学などがあり、経済社会活動も維持しやすく、人間の基本的な営みが完結できる都市、③は企業城下町というような、企業を中心とした都市で、単純労働が多く、外国人労働者が増え、逆に男性労働者が急減し、駅前商店街は衰退し、いくつかの大型スーパーだけがあるような状態である。④は大学などを持つだけの学園都市、⑤は人口の移動が無い都市、⑥は外の学校に出た者がUターンしてくる都市で、ほぼ生物学的人口推計を辿る。⑦は就業先があまり無く、定年後に戻って生活する都市で④~⑥よりも減少傾向が高い。⑧は介護が必要になったとき、息子や娘の所へいく形態で、⑨は炭鉱都市が閉山したあとのような形態である。②のパターン以外はタイムラグはあるがいつか過疎化を生じていく。つまり、祭りの維持・社殿の維持について今のうちに真摯な取り組みが必要である。(松谷明彦・藤正巖著 人口減少社会の設計 中公新書)
二十三 神社本庁時局対策資料第二十七集 神社と自治会・町内会 神社本庁時局対策本部編
二十四 神道政治連盟 「政策推進の課題を考える」 文永社・「わかりやすい「政教分離」Q&A」 文永社・「A級戦犯とはなんだ 最高裁への批判」 政教関係を正す会編 等々
二十五 第十二回神社本庁神道教学研究大会報告(神社本庁教学研究所編)内の田中恆清発第「神社継承への理念」