イケダハヤト氏の『新世代努力論』を読んで大晦日を過ごしました。
ん、切ない大晦日の過ごし方やね。
普通に面白く、納得のいく内容でした。
以下に内容を書きます。(ネタバレ注意)
私達(20代から30代前半)の親世代は、経済的にボーナスの時代で青春を送ってきた。
その時代においてはあらゆるものが右肩上がりで、故に努力が報われやすかった。
しかし、現在では人口は減少し、経済は停滞の時代に入っている。
このような時代において努力が報われる確率は、親世代に比べて圧倒的に低い。
だから、私たちは「努力は報われる」という考え方をしてはいけないし、親世代が言うことを真に受けてはいけない。
それはしょせん「経済ボーナス時代」に生きてきた人の発想である。
また、私達は生まれた時から今に至るまで、全く平等ではない。
さまざまな要因に左右されていくものであるし、そのほとんどが環境的要因で、自分では制御できないものである。
成功した人は皆、努力の末に成功しているのだが、その「努力できること」すら事後的に手にするスキルであり、そのスキルを得られるかどうかは運によるところが大きいのである。
したがって、私たちはもっと「努力が報われる確率は低い」、「私たちは最初から不平等である」という前提をしっかりと認識するべきである。
その上で、過程も楽しめるような努力をするのが望ましい。
ホンマにそうやと思う。
特に共感したのが、「努力できるというスキルですら幸運により獲得されるもの」、「皆もともと不平等、比較するなんておこまがしい」というところ。
その通りで、世の中には「皆、機会の平等は保証されていて、差が付くのは全て努力によるところである」みたいな考え方があるみたいだけど、皆が平等なわけがない。
どんな家庭に生まれるのか、どこの地域に生まれるのか、どんな身体的特徴なのか、その他もろもろ…自分ではどうしようもない要因で差が付くことなんて当たり前。
こんな話をすると、「恵まれない境遇でもうまくいっている人はいるじゃないか」みたいに言われるけど、その「うまくいっている人」ちうのは凄く強い才能のある人なんじゃないだろうか。
稀にそういうケースがあるんしても、ゲームの平均点は難易度に反比例するのは確かなので…
ハードモードで高得点を取るというのは明らかに稀なケースだし、それを一般化するのは間違っていると思う。
そういうことを何にも考えずに、自分の身に何か上手くいかないことがあったときに、何でもかんでも自己責任で引き受けていては潰れてしまう。
いい意味で自分に甘いことが大事。
ただし、イケダハヤト氏は「全ては環境のせい」みたいな言い方をしているけれど、やっぱりそれはそれで極端だと思う。
落ちぶれている人の全てがそうだとは言わないけれど、やっぱりそういう人って、いくら環境的要因があるとはいえ、「するべきことをしてこなかった」という要素があるので。
したがって、私は、「環境6割、本人の努力4割」くらいに思っているのです。
さらに、完全に同意だったのが、以下の内容。
報われるためには努力は必須だが、努力は報われにくい。
だから、結果に無頓着な努力、過程を楽しめる努力をすべき。
これは本当にそうなんですよね。
何にために頑張るのか。でも書きましたが、私には夢なんて要りません。
毎日を愉快に過ごしたいから努力する。
それは例えば、自分で美味しいものが食べたいから一生懸命レシピを調べて料理する…みたいなことです。
ただそれだけなんです。