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Aiの文章生成でブログを書いてみた。
それ以外もあるよ。

家族の悩み④-父-1

2024-06-16 21:28:00 | 家族の悩み

親父は貧しい農家の長男として生まれた。

姉が2人、妹が3人、弟が1人。

ほぼ同じ環境で生まれた貧乏時代と苦学を口にする同年代の政治板がいるが、親父に言わせると「あいつは貧乏じゃねーよ。高校に行ってるじゃないか。あの時代の同年代は、中学を卒業すると家業を手伝うか、寝台列車に乗って内地に集団就職していた」とよく言っていた。

小学生の頃は、雨が降っても、子供用の長靴などはなく、一足だけあった大人用の長靴を一番最初に家を出る人が履けたと言う。

集団就職で内地の工場で数年間働いた後、親父の母、つまり私の祖母が体調を崩したのをきっかけに地元に戻った親父は大工になった。

祖父は農家を続けていたが、祖母の治療費を捻出するために畑を売り払ったと言う。

当時には高額医療費の補助は無かったのか?と思わずにはいられないのだが、その地は今でも田舎というか、人が住んでいるかもわからない場所なので二足三文だったのかもしれない。

祖母は胃癌で亡くなった。

祖父は農家を廃業した。

その後、私の母と知り合い結婚した。

母はヤクザだった元夫の間に娘がいた。

子連れ再婚である。

23で5歳の娘の義父になった。

自分ならそんな選択はしないと思うが、当時の父がどういう心境で結婚したのかは知らない。

聞いたこともない。

子供の頃の親父の印象は頑固で気難しい人だった。

自分はあんまり殴られた記憶は無いが、姉と弟はよく殴られていた。

中学生の頃から家出を繰り返していた姉が何度目かの家出で警察に保護され家に戻ってきたときにアフロだった髪型が、翌朝起きて居間に降りるとパンチパーマになり、顔中アザだらけで恥ずかしそうに笑う姉を見た時は思わず自分も笑ってしまった。


そんな父の若い時の話を母親から聞いたことがある。

中学生の頃は合気道を習っていたらしい。

街で警察も近づかない片腕のチンピラと喧嘩になり、残った腕の骨を折った。

と言う話を聞いたことがあった。

母曰く、たんぱらだったとのことである。

食事中はテレビを見ることは許されず、黙って食事をしなければならなかった。

箸の持ち方が悪いと、いきなり自分の箸で手を叩かれた事があった。

それはマナーとしてどうなんだと子供心に思ったが、怖いので言い返すことはなかった。


そんなんで、中学に上がった頃から食事を一緒にするのは嫌でいつからか家族はバラバラに食事をする様になった。


自分が高校に行けなかった事に思う所があったのか、私が高校に進学し、卒業するまでが一番険悪な期間だった。

高校卒業後の進路として専門学校への進学を希望したが「蛙の子は蛙だ。どこに進学させる様な金があるんだ」と言われて、私の就職希望と言う進路が決まった。

その時の恨みと絶望は何十年も続くこととなる。

今年52になる私が父の日に何も贈ったことがないのはそれが理由である。

与えてくれないなら、何も返さない。

そう17の時に誓ったのである。


10年前、悪性リンパ腫になった父は死を覚悟したらしい。

「俺はもうダメだ。あとは何とかやってくれ」

病室に見舞いに行くと親父はそう言った。

母の事、姉の事、その息子の事、弟の事。

全て私にぶん投げて逝かれるのは勘弁してくれと思った。


家族の悩み③ 母−2

2024-06-11 12:29:00 | 家族の悩み


2023年の7月末。

脳梗塞で倒れた母は、早期発見と早い段階の緊急搬送で入院1週間目には後遺症もなく病室を歩いていた

その間に出張中だった親父が肺炎になり、別の病院で入院すると言う事態になっていた行ってたのだが、それをまた別の話である。

入院中にコロナに感染し、入院期間が伸びたが、脳梗塞になった患者として後遺症も無くはかなり幸運な状態で退院できることになった。

急性期の病院からの退院に当たって、リハビリ専門の病院に転院することと言う話もあった。

経済的に余裕もなく、親父と私と引きこもりの甥っ子と言う人数的には恵まれていたので、結局は家で見ることになった。

要介護認定結果が出ており要介護1だった。

もちろんそれは脳梗塞で倒れる前の判定だったのは入院前とほとんど変わらなかったのでそのままとなった。

ケアマネジャーもついて、介護保険の利用について病院側と話し合ったが、親父の方が彼ばっかり取りやがって、どんだけむしりとるんだと怒り心頭で、デイサービスなどの利用は見送られることとなった。

食事介助し、トイレ誘導行い、通院をして見守る。

昼夜逆転気味なので、すぐ横に寝てトイレ対応も行う。

私が仕事でしていることを家でも行うこととなった。

私と親父は仕事に行く時は自宅警備の甥っ子に任せた。

施設でもそうだが、それでも限界はある。

次第に落ちていき、介護度が上がっていく

今はそう言う状況。

オムツも1日に5枚は使い、失禁も増えた。

施設なら寝具の替えも潤沢にあるが、家庭で敷布団まで汚染されてしまうとなかなかの負担である。

入浴介助は親父が行っている。

ふと思うのだが、親父と母親の息子として52年。

おそらく夫婦仲は今が一番いいのではないかと思う。

親父が子供をあやす様に声をかけているのを見ると、息子としては異様に見える。


そんな親父が「もう限界だな」と言った。

だから介護保険でディサービスなど使った方がいいと言ったとは言わなかった。



家族の悩み① - Aiでblog

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私は1972年生まれの51歳の独身。47歳の時に勤めていた印刷会社が倒産し、無職になった。その会社には20年間働いていたので、退職した1月後には約3,000,000の退職金が口座に...

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家族の悩み② 母ー1 - Aiでblog

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2023年7月末。特別養護老人ホームで働く私はシフトで遅番だったので家に着いたのは23時過ぎだった。職場から家まで車で7分。私が47歳で勤めていた印刷会社が倒産し、無職に...

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家族の悩み② 母ー1

2024-06-11 11:27:00 | 家族の悩み


2023年7月末。

特別養護老人ホームで働く私はシフトで遅番だったので家に着いたのは23時過ぎだった。

職場から家まで車で7分。

私が47歳で勤めていた印刷会社が倒産し、無職になり、就職するにあたって1番重要視したのが通勤時間だった。

に電話雪の積もる冬になると、職場まで車で2時間かかることもあったから、夏も冬も交通量が少ないので、車で7分と言う工条件で、私は今の職場に決めたと言っていいもちろん研修2週間ほど働いた時に職場の雰囲気が良かったと言うこともあるけれど、やはり通勤時間が短いと言うのは何事にも変え難い。

その日、私が家に帰ってきたのは23時過ぎだった。

飯を食いネット動画を見ているとドスンと言う音が聞こえた。

母親がトイレに行こうとしてソファーベッドから降りたときに、そのまま床に転倒した。

母は2023年の2月まで晩飯を作り、家事をして買い物に出かけたりしていた。

最初の異変は晩御飯の味付けだった。

おそらく豚汁を作ったのだと思うが、味噌が入っておらず、醤油ベースをなんだかわからない。野菜スープが出てきた。

認知症の初期の兆候として、料理の味付けがおかしくなるということがあるらしいと言うのは、新施設の上司から聞いたことがある。

状態は悪化し、深夜の徘徊や不安定な歩行による転倒があったりした。

紙おむつも必要となり、本格的な介護が始まったのである。

要介護認定を申請したのは7月に入ってからだった。


その結果を待っていた7月末の出来事だったのである。

ソファーベットから落ちて転倒している母親を抱えて椅子に座らせると、傾きがひどくそのまま落ちそうになる。

何とか支えようとするが様子がおかしい。

左手に力が入っておらず、立ち上がろうとしても左足は全く機能しない様子だった

母の左手を握り力強く握ってくれるように頼んだが、右手では握れるのに左手は全く力が入らなかった。

これはもう脳梗塞であると判断した。

すぐに救急車を呼ぶ。

救急車が来るまでに保険証の用意と頭痛体が家に入った時に作業しやすいように、母親の周りの荷物を数けた。

玄関の扉を開けて救急車が着するのが待つ。

遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。

救急車がつき救急車状況を説明する。

救急隊の方でも左側の麻痺を確認。

すぐに搬送される。

改行病院に着いたのは、午前3時過ぎ位。

そこから検査が始まり、脳梗塞と確定され処置が始まった。

その後、なんやかんやで処置が終わって、医師の話を聞き、一旦家に帰って本時点で飲んでいた薬や入院準備をして病院に戻り、全てが終わったのは17時だった。


こっちの方が倒れるわ。





家族の悩み① - Aiでblog

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私は1972年生まれの51歳の独身。47歳の時に勤めていた印刷会社が倒産し、無職になった。その会社には20年間働いていたので、退職した1月後には約3,000,000の退職金が口座に...

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家族の悩み①

2024-06-08 21:03:00 | 家族の悩み

私は1972年生まれの51歳の独身。

47歳の時に勤めていた印刷会社が倒産し、無職になった。


その会社には20年間働いていたので、退職した1月後には約3,000,000の退職金が口座に振り込まれることになった。その金で約4カ月間、自由気ままな無職ライフを楽しんだ後、そろそろ次の仕事を探さなければということで、職業訓練を受けた。


その時に受けた職業訓練は介護福祉士実務者研修だった。


約半年間の講習を受け、研修先に行った特別養護老人ホームに就職した。

なぜ介護士を選んだかと言えば、デジタルかも進み、つぶしの効かず、2度の倒産を経験した中小企業の印刷工と言う職業に未来を感じなかったのと、47歳と言う年齢で1からやり直せると言う仕事が他に見つからなかったと言うことと、自分には向いているのではないかと思ったことだった。


働き始めて3年目で介護福祉士の受験資格が得られると受験して何とか合格もできた。

そこから1年働き、5年目で昇進の話も最近出てきた。


割と順風満帆にこの6年は進んできたと思えるが、実際のところは波瀾万丈な日々であったと言えるだろう。

それは主に職場の話ではなく、家庭の問題だった。

同居しているのは、両親と姉の息子である甥っ子と暮らしている。


姉は15年位前に甥っ子を置いて出て行き行方不明になっていた。

2年前に警察から連絡があり、姉が暮らしていたアパートで死んでいるのが見つかったとの事だった。

死因は病気で倒れ、そのまま動けずに餓死したと言う検死結果で事件性はなかったが、その身元確認に3ヶ月ほどかかったが、DNA鑑定の結果、本人であると言うことが確認されて、遺体を引き取り荼毘に臥した。


その甥っ子は中学には1度も行かないで、卒業した引きこもりで今年でで30になる。

15年間で数週間ほど私の弟が働くラーメン屋でルバイトをしたことがあるが、それ以外に就労経験は無い。

外に出ることもなく、1日中インターネットとテレビゲームに興じている。

生活の面倒は大工をしている祖父である私の親父が見ていたが、先月に77歳と言う年齢を理由に勤めていた建築会社を解雇された。


親父の収入がなくなったのである。

ちなみに私の収入は手取りで大体185,000円(夜勤五回で)である。

家には40,000しか入れてないが、その他に生命保険、スマホ代、車のローン、車の保険代、ネット接続料、高血圧の通院代など、様々なものを払ったら残りが大体7万くらいでである。


そこから、日々の昼食代と酒とタバコ代を引いてしまうと対して残らない。

酒とタバコはやめるにしても、自分の給料では家族4人が暮らす借家の家賃を払って、光熱費と食事代を払う事は不可能である。

親父が働いて良いところは手取りで、おそらく少なくても27位はあったと思われるので、去年の7月に脳梗塞で倒れて家で介護をしている母親の病院代やおむつ代も問題なかったが、その収入が0になったのである。

親父はハローワークなどに行って仕事を探しているようだったが、やはり年齢がネックとなり、面接にまでたどり着けないでいる。


その親父がとうとう今日「もう限界だ」と言った。

今後どうしようかと悩んでいる。




ちなみに、私には金に汚い弟がいるが両親共々絶縁している。弟は過去の自堕落な生活が原因で、糖尿病になり、通院もしてなかったから、悪化して目が失明しかけたり、心不全などの持病を持っていて働けなくなり今は生活保護受けている。