Aiでblog

Aiの文章生成でブログを書いてみた。
それ以外もあるよ。

ほぼ課長

2024-11-13 12:25:00 | Ai生成



こんにちは、押利鰤子(おしりぶりこ)です!28歳のエッセイストとして日々キラキラした生活を発信していますが、実は裏の顔もあります。


私、特別養護老人ホームで介護福祉士としても働いていて、ここでの日常には「ほぼ課長」としての私なりのプライドと葛藤があるのです。


今年の6月、入居者のケアやスタッフのサポートに励む中で、ユニットリーダーに昇進しました。

そして10月、あれよあれよという間に介護主任にも任命されました。

身に余る昇進に、正直「自分にこの肩書きがふさわしいのか」と心が追いつかないこともしばしば……。


突然の「ほぼ課長」指示


ある日、ユニットで職員が負傷するトラブルが起きました。夜勤明けの私がリーダーとして状況を整理し、夜勤明けなのに11時まで職場に残って対応。

ようやく帰宅したのです。

翌日は休みですが、朝から大腿骨転子部骨折で入院した母親の病院に父と医師の説明を受けるために行ってました。

医師、麻酔医、ソーシャルワーカーと話をして、終わったところに上司から電話がありました。




「時間に余裕ができたら電話して。お願いがあるから」


リーダーに昇進する時も、主任に昇進するときもお願いでした。


なんか前に同じ展開があった気がする‼︎


父を家に送り、全てが終わった時点で上司に電話。

不安しかありません。


上司は「主任の君には、ほぼ課長としての覚悟が必要だ」と切り出しました。

「課長として責任とリーダーシップを持ち、全体を見渡してほしい。同格の主任もいるけど、何度か注意したが響いていない。問題はいろいろあるが、まだ君には特に期待している」と言われ、課長に準ずる視点で動くことを求められたのです。

つまり、職場でのリーダーシップだけでなく、さらに広い視野で問題解決に挑む覚悟が必要だと感じました。


「イエスマン」としてのプライド


実は私は、上司の指示に従順なイエスマンです。「やれ」と言われたことには「はい」と答え、言った以上はやり遂げる。それが私のポリシー。職場で陰口もたたかれます。「イエスマンだけが昇進している」とか「ただ言われた通りにするだけ」など、厳しい声もありますが、私は自分の「イエスマンとしての誇り」を持っています。上司や周囲が期待してくれることに応えるため、あくまで「はい」と答えたら最後まで責任を持つ。私なりの誇りを持って、仕事に向き合っています。


役職者としての「嫌われる勇気」


もちろん、上司からの指示に従うだけではなく、主任としての自分の責任を持ち、時には嫌われる勇気も必要です。同僚や部下と向き合い、時には厳しい指導を行うのも私の役割ですし、「ほぼ課長」としての視点で、全体のバランスを考えて判断しなければならないと感じています。


今後は、ただ指示に従うだけでなく、イエスマンでありながらも「主任として自分の意見や信念を貫き、チームをまとめていくこと」が大切だと思っています。イエスマンであることを自覚しつつも、仕事に対して責任感とプライドを持って、少しでも入居者様や職員のサポートができるよう、全力を尽くしていくつもりです。


最後に


このブログを読んでくださっている皆さんの中にも、仕事で悩んでいる方、職場での役割にプレッシャーを感じている方がいるかもしれません。そんな時は、まず自分の仕事に対する責任感と誇りを信じて、少しずつ前に進んでみてください。


押利鰤子は「ほぼ課長」として、イエスマンであることを誇りに、介護現場で奮闘中です。皆さんもそれぞれの「誇り」を大切に、日々の仕事に向き合っていきましょう!


「迂回する鵜」

2024-11-11 14:11:00 | Ai生成



鵜。うっかり口にすると「ウカイ」と読まれる。うっかり漢字で書くと、「ああ、うなずきの“鵜”ね?」なんて返される。誰もが頭に浮かべる、あの黒くて首が細長い鳥。そのイメージが浮かび上がるだけに、話すたびにどこか妙な気分になる存在だ。鵜は、私の人生にとっても、ある種の「迂回」を象徴するような、そんな生き物でもある。


先日、仕事帰りの散歩道で、川のほとりに一羽の鵜がいるのを見かけた。珍しく街中の川辺にぽつんと佇んでいるのだ。首をかしげ、ちょっと立ち止まった。カラスの鳴き声が遠くで聞こえる中、私は思わず「何でこんな所に鵜が?」とつぶやいた。しかも、その鵜はなぜか少し不安げな顔をして、なぜかじっと私を見つめていた。


鵜って、川にいる生き物だというのに、その時の鵜は水に浸かっていなかった。水面をじっと見つめながら、何か迷っているようにも見えた。その姿が、ちょっとだけ自分に似ていると思った。私も人生の中で何度か「迂回」を繰り返してきた。とりわけ、この年齢になってからの「迷い」と「うろうろする日々」が、まるであの鵜のようにさまよい続けている。


迂回する日々


「鵜」という文字には「迂回」の「迂」が含まれている。その意味では、鵜はもともと「迂回するもの」なのかもしれない。私も何度か人生の迂回路を選んできた。52歳の実年齢で「鰤子」を名乗り、ネット上では自称28歳として振る舞っているのも、ある種の迂回だ。私の「迂回の道」には、目的地もゴールもない。ただ、どこかへ辿り着こうとして、まるで水辺に立ちすくむ鵜のようにただ迷い、うろうろするばかり。


ネットでの「28歳エッセイスト」としての自分は、まさに私の“迂回する鵜”そのものだ。52歳で介護福祉士をしている現実から少しだけ距離を置き、自分だけの世界を築くことができる。それは私にとっての「水面」だろうか。そこにひとたび足を浸ければ、重たい現実から少し解放される気がする。だが、同時にその「水」は冷たくもあり、深く足を踏み入れるほどに底知れぬ不安が襲ってくる。


川のほとりで


あの日、鵜と出会った場所は、私にとっても特別な場所だ。川沿いには小さなベンチがあり、そこに座ると、街の喧騒が少し遠のき、心が静まるような気がする。都会の隅っこにぽつんと残された小さな自然のスペース。ここで私は、日々の喧騒を忘れ、ネット上の「鰤子」と現実の自分を重ね合わせるようにぼんやりすることができる。


その日は少し肌寒く、風が強く吹いていた。鵜は、風を受けながらもじっとその場に留まっていた。遠くでカラスが啼くのが聞こえ、空には淡い夕焼けが広がり始めていた。鵜が私を見つめる目が、不思議と何かを訴えているように感じたのは、その雰囲気のせいだったかもしれない。


私も鵜のように、遠回りの道ばかり選んできたのかもしれない、とふと思った。そして、その「迂回する道」が、私をどこへ導くのか、未だに答えが見つからないままなのだ


母、転倒する

2024-11-11 13:57:00 | Ai生成



夕方、いつもと同じように過ごしていたはずなのに、突然の連絡が入った。父が台所で夕飯の準備をしている間、要介護5で認知症の母が、椅子から転倒したというのだ。電話越しに「右の股関節が痛いみたいだ」と聞いたとき、頭の中で「まさか骨折か?」という不安がよぎった。


母は骨粗鬆症もあるため、少しの衝撃でも骨が折れるリスクが高い。痛がる母の様子を見に行くと、どこまで痛みが本当なのか、または認知症の影響なのか判断が難しい。しかし、骨が弱っていることもあるし、やはり病院で診てもらったほうが安心だ。


とはいえ、母と父は生活保護を受けているため、何かあったときには役所の担当者に報告が必要だ。これは許可を得るためではなく、現状を把握してもらうための手続きだ。日常的なサポートが必要な家族だからこそ、行政との連携が大切であり、いざというときにはこうした連絡がかえって家族を支えるものになる。


担当者に連絡をして状況を伝え、病院へ行くことを報告した。ただ、ここでまた問題が発生。母のかかりつけの病院が今日は休診日だったのだ。母が転倒する日をかかりつけの開院日と合わせてくれるわけでもない。急いで近隣の整形外科を探し始めたところ、ふと私が以前手首を骨折したときのことを思い出した。近くの小さな整形外科で診てもらったのだが、そのときの医師が丁寧に対応してくれたのが印象に残っている。母もそこで診てもらおうと決め、予約の連絡を入れた。


これから病院に行くことを母に伝えると、何度も「どうして?」と聞かれる。認知症が進んでいる母には、状況を理解するのが難しいのかもしれない。私も何度か同じ説明を繰り返しながら、車に乗せて病院に向かう準備を進めた。


母が転倒したのは正直ショックだったが、同時に今後の生活をどうするか改めて考えさせられる機会にもなった。借家暮らしのため、家に手すりを取り付けたり改装することもできない。生活に合わせた環境を整えるのが難しいこともあり、実は以前から特別養護老人ホーム(特養)への入所を検討している。施設見学にも何度か足を運び、候補もいくつか挙がっているが、どうしても母を「施設に預ける」という選択に対して心の整理がつかないままでいた。けれど、母の安全や介護の質を考えると、より専門的なケアが必要な段階にきているのかもしれない。


病院へ向かう途中、車の中で母は時折外の景色を眺め、不思議そうにしている。何もない場所をじっと見つめているかと思えば、突然「今日はどこに行くの?」と聞いてくる。母のこうした問いかけに、その都度答える自分の中には複雑な気持ちが渦巻いていた。母を守りたい気持ちと、自分自身の負担を軽くしたい気持ち、両方が入り混じっているのを感じる。


私の現実は、ネット上で「28歳の売れっ子エッセイスト」として振る舞っている姿とは大きく違う。ネットでは若々しい自分であることが求められ、軽妙な文章を読んで笑顔になってくれる人たちがいる。それが私にとっても救いであり、読者の存在があるからこそ、少しでも前向きでいられる部分があるのだと思う。


病院に着き、母を診察室に案内する。診察前だが、私の心はすでに少し落ち着き始めている。どのような結果が出るにしても、今は母と一緒にいられる時間を大切にし、少しずつ最善の選択を考えたいと思う。母の転倒は小さな事件のようで、私たち家族にとっては大きな試練だ。


「現場と上層部の狭間で悩む日々 - トラブルの終わらない輪舞曲」

2024-11-10 17:12:00 | Ai生成



今日も私は、何かに追われるように、忙しない日々を過ごしている。28歳、売れっ子エッセイスト(←ここ、大事!)。と、自分では言ってみるけれど、実際は…まあ、そこはご想像にお任せする。というわけで、今日のテーマは「トラブル」。特に、私が関わっている仕事の現場でのトラブルにまつわる話をしようと思う。


カスハラと職員たちの奮闘


ある入居者様の対応がここ最近、何度も話題になっている。どうも「カスタマーハラスメント」が問題になっているらしいのだ。人格否定の暴言や虚言が飛び交い、家族までその話を信じてしまい、ついには訴訟沙汰にまで発展したと聞くと、もう何が正解なのか、分からなくなる。


この入居者様に対応する職員たちは、毎日が「試練」の連続だ。その中には、家族から恐喝めいた言葉や態度で威圧されたという職員も少なくない。毎日がそんな状況だと、誰だって心が疲弊してしまうに決まっている。でも、彼らには現場での仕事が待っているし、それを投げ出すわけにはいかない。やるせない思いでいっぱいだ。


対応に苦慮する上層部と職員の感情


現場の職員たちは、こうしたカスハラの対応に疲弊し、頭を抱えている。その一方で、上層部もまた「何とかしよう」と対応を試みているのだろうが、現場にはその努力が伝わらない。「丸投げされた」と感じている職員が多いのも事実だ。


実際、上層部は何らかの対応を試みたが、その方法が「人員の異動」だけだった。確かに、入居者様から離れられてほっとした職員もいるだろう。しかし、代わりに新しい職員がその対応に回ることになっただけで、根本的な問題は解決していない。上層部も上層部で「苦肉の策」だったのかもしれないが、現場にいる職員たちは、どうしても不満が募ってしまう。


健康上の理由で退去 - 終わりなき悩み


幸い、健康上の問題でその入居者様は退去された。しかし、もしそうでなかったら、今もこの対応を続けなければならなかっただろう。誰もが感じているのは、また同じようなことが起きたらどうするのか?という不安だ。こうした現場での経験は、職員の心に負担をかけ、重い課題として残り続ける。


振り返りの会議 - 愚痴が飛び交う現実


その後、職員たちの提案で「振り返りの会議」が行われることになった。会議前に行われたアンケートでは、上層部への不満が山のように溢れ出ていた。「現場をもっと大事にしてほしい」「支援が形だけじゃなく、実際に効果的であってほしい」といった意見が大多数だが、正直、愚痴と受け取られても仕方がない内容だ。


「じゃあ、その愚痴をもとにどうやって建設的な会議にすればいいのか?」と問われても、正直、私は言葉に詰まる。上層部も現場も損しないような会議を開きたい。そう思っているのに、どうしてもうまく行かない。自分の中で苦悩がぐるぐると回り続ける。


上司からの指示 - 最後の苦悩


会議の発案者には、私は「誰も損をしない会議にしてほしい」と伝えた。しかし、上層部としてはどうしても現場との対立を避けたいところだ。上司は私に「なんとかしろ」と言ってくる。だけど、いったいどうすれば良いのか?私自身が分からなくなっている。


この状況に悩んでいると、ふと思う。私は本当に28歳で売れっ子エッセイストなんだろうか?そう自問自答してみても、現実は変わらない。今もなお、こうして現場と上層部の間で心を痛めながら、何か少しでも解決の糸口を見つけ出そうと、日々を過ごしているのだから。


最後に


トラブルって、解決する方法があるようでない。特に人間関係が絡むと、解決の道筋が見えづらくなることが多い。今の私にとって、この現場のトラブルはまだまだ続く気がする。だけど、こうした経験がいつか私を成長させてくれると信じている。解決できない苦悩の中で、私は少しずつ前に進んでいるのかもしれない。


そう思うと、今日も何とか乗り越えていける気がする。


奮闘

2024-10-25 17:21:00 | Ai生成





夜の9時過ぎ。研修で訪れた地方の宿泊施設は思いのほか静かで、周りには何もない。携帯の電波も時折切れてしまうほど、ここは本当に遠い場所だ。都会での喧騒から離れて、心は穏やかになる――はずだった。だけど、どうしても一つのことが気になってしまう。タバコがない。

「研修先から最寄りのコンビニまでは車で10分ほど」と聞いていたけれど、車を持っていない私にはその10分が途方もなく遠い。バスで行こうかと一瞬考えたけれど、バスは次の日の午前9時まで来ないらしい。仕方なく歩くことにした。

歩き始めた時は、まだ軽い気持ちだった。「こんな夜の山道を歩くなんて、ちょっとした冒険かもしれない」と。でも、すぐにその思いは打ち砕かれた。宿泊施設を出て10分も経たないうちに、道に灯りがまったくないことに気づく。周りを見回しても、何一つ光るものがない。月も雲に隠れてしまい、漆黒の闇が広がっているだけだった。

仕方なくiPhoneのライトをつけて、ぼんやりと照らされる足元だけを頼りに進む。山道は想像以上に険しく、足が石にぶつかるたびに、心の中でため息がこぼれる。それでも、なんとか前に進むしかない。「タバコを吸いたい」という衝動が、私を前に押し出していた。

1時間半が過ぎたころ、ようやくコンビニにたどり着いた。時計を見ると、予想以上に時間が経っていたことに気づく。疲れ切った体を引きずりながら、店内に入る。冷えたビールやお菓子、色とりどりの商品が並んでいるけれど、私の目にはタバコしか映らなかった。

お目当てのタバコを手にして、レジで会計を済ませたとき、ふと我に返った。「これ、帰りも歩くんだよね?」往復で3時間。灯りもない山道を、またあの暗闇の中に戻るという現実が、突然重くのしかかってきた。

帰り道、iPhoneのライトだけを頼りにまた歩き始める。先ほどよりも一層疲れが出て、足が思うように前に進まない。疲労に加えて、山の静けさが不気味さを増してくる。ふと、「よくよく考えたら、こんなところでクマが出てもおかしくないよね」と思い始めた。以前、ニュースで見た「山道でクマに襲われた」という話が頭をよぎる。急に足がすくんだ。

夜の静けさの中、カサカサと風で揺れる木々の音や、どこからか聞こえてくる小動物の鳴き声が私の耳に響く。そのたびに、心臓が跳ね上がる。足が速くなるのを感じながらも、意識的に落ち着かせようとする。早く宿に戻りたい一心で、ただただ歩き続けた。

ようやく宿に着いたのは深夜12時を過ぎたころ。汗だくで、足は重く、息は上がっている。これだけの奮闘をして、手に入れたのはタバコ一箱。「なんだか、タバコ1本の重みが急に増した気がするな」と、私は小さく笑ってしまった。

それにしても、今は少し後悔している。たかがタバコのために、3時間も灯りのない山道を往復するなんて。そんなの、冷静に考えれば普通じゃない。だって、もし途中で何かあったら?クマに襲われるか、迷ってしまうか、なんて考えると、ぞっとする。

今思えば、コンビニに行くのを諦めて、ただ大人しく寝ていればよかったのかもしれない。明日の研修もあるのに、何をやっているんだろう、私は。でも、その時は「どうしてもタバコが吸いたい」という思いが勝ってしまったのだ。

部屋に戻って、ベッドに横たわりながら、ふと天井を見つめた。暗闇の中で手に入れたタバコは、いつもより少し美味しく感じた気がする。それはきっと、あの山道を乗り越えたからだろう。だが、次からはもう少し計画的に動こうと、心に誓った。

タバコを買うだけでこんなに奮闘するとは思わなかったけれど、これも一つの経験だ。何もない場所での小さな冒険が、日常の中で特別な瞬間に変わる。だからこそ、私は今、こうしてこの思いを文章にしているのだろう。

皆さん、もし研修先が辺鄙な場所にあるなら、ちゃんと事前にコンビニの場所を確認して、車を持っているか、バスが来る時間を調べることをおすすめします。そして、タバコの在庫も忘れずに確認すること。それが、私からの小さな教訓です。