川端康成「篝火」草稿と生原稿
川端康成「篝火」草稿と生原稿
この3月15日、NHK夜7時のニュースで、川端康成初期の重要作品「篝火(かがりび)」の草稿が発見されたと報じられた。
私はそのニュースを見ておらず、知らなかったのだが、その深夜、就寝する前にスマホを見て、山陰の松江市に住むSさん(むかしの教え子)から「篝火の草稿のニュースを見ました」とメールをいただいていることに気づいた。
「草稿」を「原稿」と読み違えた私は、「えっ? 「篝火」の生原稿なら、数十年前に発見されたはずだが?」 と驚いた。
翌朝、「それは最近のことですか? ずっと前のこと?」と返信すると、「昨夜です。ウクライナ侵略一色のニュースの中で、インパクトがありましたよ。新しく発見されたそうです」。さらに「ネットで川端康成と「篝火」で検索すると、いくつも出ていますよ」と親切だった。
なるほど。そのネットによると、駒場の日本近代文学館が4月2日から川端康成特別展を開催する、そのための調査の過程で、「篝火」の草稿が発見された、というのだ。もちろん、鎌倉市長谷(はせ)の、川端康成旧邸からである。
川端は、もらった手紙などを捨てなかった。幾通か手にした太宰治からの手紙も、太宰本人のために不名誉になるものは燃やしたが、それ以外の手紙や、多くの作家、一般人からの手紙も、捨てなかった。だから、この広大な邸には、高価な美術品ばかりでなく、さまざまな膨大な資料、遺品が無尽蔵といって良いほど眠っている。
それらを、康成の養女政子の夫としてこの家に入った川端香男里先生が少しずつ整理して、ある程度まとまると、メディアに発表してきた。
今から8年前、2014年7月に発見され、公開された川端康成の未投函書簡1通(岐阜に住む伊藤初代に宛てて書いたものの、投函しないまま、川端の手元に保存したまま残されていたもの)も、その1つだった。
その無尽蔵といってよいほど、遺品や手紙がそのまま残されている事実を、川端香男里先生の懐刀(ふところがたな)であり、定期的にこの邸に通っていた故水原園博(そのひろ)から、私はつぶさに教えてもらったのだ。水原は、公益財団法人・川端康成記念会の実質上の事務局長として、「川端康成と東山魁夷展」を全国的に開催する実務を担当してきた人だ。
さて、今回発見された草稿の動画を見ると、すぐ分かることがある。それは、今回発見された6枚の草稿が、「新晴(しんせい)」のヴァエリエーション(変型)の1つだ、ということである。
一般の読者のために、簡単に「篝火」や「新晴」のことを説明しておこう。
「篝火」は、大正13年(1924年)、『新小説』3月号に発表された川端康成の短編である。川端が、岐阜に住んでいた少女、伊藤初代を訪ねて結婚を申し込み、承諾してくれた、その忘れがたい1日を描いたのが「篝火」という作品だ。
その3年前の大正10年秋、川端は友人三明永無(みあけ・えいむ)に付き添われて岐阜を訪ね、長良川ほとりの宿、鐘秀館(しょうしゅうかん)で伊藤初代の承諾を得たのだった。そのあとで、宿の部屋から見た鵜飼いの篝火、その篝火を見つめる伊藤初代の顔の美しさが題名となっている。感動的な作品である。
「私は篝火をあかあかと抱いてゐる。焔の映つたみち子の顔をちらちら見てゐる。こんなに美しい顔はみち子の一生に二度とあるまい」。
こんな美しい文章がある。川端にとっても「一生に二度とあるまい」という瞬間だった。
しかし康成は、簡単にこの作品が書けたわけではなかった。約束後のわずか1ヶ月後、東京浅草の下宿に初代から、いわゆる「非常」の手紙がとどき、事態は急転する。初代はまもなく岐阜を出奔して上京し、いくつかのカフェを転々とするが、翌大正11年(1922年)の春過ぎには、康成の前から姿を消す。
そのころの康成の日記(川端康成全集補巻一)に頻出するのが「新晴」という作品(習作)である。
「新晴」を書く。
「新晴」を書きなぐる。
といった記述が、当時の6月の日記に繰り返される。東京本郷のカフェ・エランでめぐり合い、舞台を岐阜に移して結婚の約束をした少女との経緯を、そのまま小説に描こうと、川端は苦闘していたのである。
カフェ・エランで出合ったのが大正8年、初代が岐阜に移ったのが翌年秋、結婚の約束の成った、最も劇的な秋が大正10年、初代が康成の前から姿を消したのが大正11年の春から夏のころ。
川端が初めて、この内容を発表したのは翌年、関東大震災直前の7月、仲間と復刊創刊した『新思潮』に「南方の火」①と題して発表したものだった。これが「篝火」の、活字化された最初の原型である。
続いて、「非常」、「南方の火」②の原型「海の火祭(うみのひまつり)」、「霰(あられ)」「彼女の盛装」など、一連の「みち子もの」が発表されてゆく。
しかし川端は、これらの作品は未完成だと考え、いずれ、全体を通して描こうと、単行本には入れないでおいた。
ようやく太平洋戦争の後、昭和23年(1948年)から最初の川端康成全集(第1次、16巻もの)が刊行されるに際して川端は、これらの作品の重要性を思い、「篝火」など四作品を、その第1巻と第2巻に掲載した。
「南方の火」②は、このとき、かつて「海の火祭」の「鮎」の章として書いたものを独立させて整理し、収録したものである。また同時に、各巻の「あとがき」において、学生時代の日記を引用しつつ、いかに当時、自分が長く伊藤初代に執着したかを克明に告白したのであった。
さて、ここで本題にもどる。
今回、NHKで放映された草稿の動画を見ると、これは「篝火」の草稿というより、「新晴」の草稿の1つだと分かる。なぜなら、登場するヒロインの名が「稚枝子」となっており、これは既に発見され活字化されている「新晴」28枚と同じネーミングであるからだ。「篝火」では、「みち子」となっている。「非常」でも同様である。
今からちょうど50年前、川端康成が没した、その昭和47年の8月、「篝火」の自筆原稿が秋田県で発見された。『秋田魁(さきがけ)新報』がスクープしたのである。むかし東京で文学修行をした人が故郷秋田で刀匠になっていた。その人の古い本箱から、この原稿が出てきた、というのであった。全国の各紙も後追い報道をした。
その原稿冒頭の、題名が消されて「篝火」と直された写真を見て、当時川端研究第一人者であった長谷川泉が、画期的な説を提示した。あの日記に書かれた「新晴」を、川端が提出直前、題名を「篝火」と改めた、という説であった。
しかしこの説は7年後、川端香男里「川端康成の青春─未発表資料「新晴」併載」によって否定される。川端邸から発見された、28枚から成る「新晴」が活字化されて発表されたからだ。それは「篝火」とは大きく異なり、ヒロインや他の登場人物の名も異なり、また内容的にも、明らかに未熟な習作であった。
だが、この「新晴」原稿が発表されたことにより、川端の内部でどのように「篝火」が形成され、より良い作品に成長していったかが窺われる、貴重な資料であったことはもちろんである。
ところで、秋田県で発見された「篝火」の生原稿(なまげんこう)(自筆原稿)は、どうなったのか?
くわしい経緯は、ここでは省くが、ほぼ40年後の平成22年(2010年)、川端の故郷である大阪府の茨木市立川端康成文学館がこの原稿を入手して、「川端康成の初恋」展において、この原稿を公開したのであった。
ふたたび冒頭に戻ると、今回発見された草稿は、その早朝(大正10年10月8日)、東京から乗った列車が岐阜駅に着いたところから書き出されている。修学旅行の季節で、この列車に、名古屋と和歌山の女学生たちが乗り込んでいたことも、他の作品と重なり、康成の実際の体験であったことが分かる。
「篝火」冒頭は、岐阜駅から歩いて、みち子が身を寄せている寺についたところから始まっている。つまり康成は、初めの方に描いていた岐阜駅着の場面を削り、寺に着いたところから書き出すことにして「篝火」の原稿を完成させることが出来たのだ。
これらの作品は、「新晴」を含めて、もちろん川端康成全集で読むことができるが、近年刊行された新潮文庫の『川端康成初恋小説集』に収められているので、便利になった。ただ、解説が不親切で、「南方の火」だけでも4編収録されており、ふつうの読者は、どの順番で読めばよいか、困惑するだろう。
「南方の火」①(『新思潮』に掲載されたもの)、「篝火」、「非常」、「南方の火」②、「霰(あられ)」「彼女の盛装」……の順番で読むのが良い。それから、参考のために「新晴」を読めば良いだろう。
なお、手前みそになるが、私の近刊『川端康成の初恋のひと 伊藤初代』(ミネルヴァ書房)は、この4月初旬には刊行される予定である。如上のくわしい内容、川端康成と伊藤初代のすべてを、分かりやすく、存分に語ったつもりである。岐阜における「篝火」研究史、伊藤初代研究史、二人の詳細年譜、初代晩年の日記も、ご遺族の了解を得て収録してある。
(注) 「南方の火」は、同じ題名で4つの作品(未定稿を含む)がある。まぎらわしいので、以下のように番号をつけている。
「南方の火」①……最初に『新思潮』に掲載されたもの。
「南方の火」②……はじめ、新聞に連載された「海の火祭」の「鮎」の章として活字化されたものを、昭和23年(1948年)、最初の川端康成全集に川端自身が整理して収録したもの。岩手県岩谷堂(いわやどう。現江刺市)に、伊藤初代の父親を訪ねた時から描かれ、また全体の経過が比較的よくまとめられている。
「南方の火」③④……のちに発表された断片など。
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川端康成「篝火」草稿と生原稿
この3月15日、NHK夜7時のニュースで、川端康成初期の重要作品「篝火(かがりび)」の草稿が発見されたと報じられた。
私はそのニュースを見ておらず、知らなかったのだが、その深夜、就寝する前にスマホを見て、山陰の松江市に住むSさん(むかしの教え子)から「篝火の草稿のニュースを見ました」とメールをいただいていることに気づいた。
「草稿」を「原稿」と読み違えた私は、「えっ? 「篝火」の生原稿なら、数十年前に発見されたはずだが?」 と驚いた。
翌朝、「それは最近のことですか? ずっと前のこと?」と返信すると、「昨夜です。ウクライナ侵略一色のニュースの中で、インパクトがありましたよ。新しく発見されたそうです」。さらに「ネットで川端康成と「篝火」で検索すると、いくつも出ていますよ」と親切だった。
なるほど。そのネットによると、駒場の日本近代文学館が4月2日から川端康成特別展を開催する、そのための調査の過程で、「篝火」の草稿が発見された、というのだ。もちろん、鎌倉市長谷(はせ)の、川端康成旧邸からである。
川端は、もらった手紙などを捨てなかった。幾通か手にした太宰治からの手紙も、太宰本人のために不名誉になるものは燃やしたが、それ以外の手紙や、多くの作家、一般人からの手紙も、捨てなかった。だから、この広大な邸には、高価な美術品ばかりでなく、さまざまな膨大な資料、遺品が無尽蔵といって良いほど眠っている。
それらを、康成の養女政子の夫としてこの家に入った川端香男里先生が少しずつ整理して、ある程度まとまると、メディアに発表してきた。
今から8年前、2014年7月に発見され、公開された川端康成の未投函書簡1通(岐阜に住む伊藤初代に宛てて書いたものの、投函しないまま、川端の手元に保存したまま残されていたもの)も、その1つだった。
その無尽蔵といってよいほど、遺品や手紙がそのまま残されている事実を、川端香男里先生の懐刀(ふところがたな)であり、定期的にこの邸に通っていた故水原園博(そのひろ)から、私はつぶさに教えてもらったのだ。水原は、公益財団法人・川端康成記念会の実質上の事務局長として、「川端康成と東山魁夷展」を全国的に開催する実務を担当してきた人だ。
さて、今回発見された草稿の動画を見ると、すぐ分かることがある。それは、今回発見された6枚の草稿が、「新晴(しんせい)」のヴァエリエーション(変型)の1つだ、ということである。
一般の読者のために、簡単に「篝火」や「新晴」のことを説明しておこう。
「篝火」は、大正13年(1924年)、『新小説』3月号に発表された川端康成の短編である。川端が、岐阜に住んでいた少女、伊藤初代を訪ねて結婚を申し込み、承諾してくれた、その忘れがたい1日を描いたのが「篝火」という作品だ。
その3年前の大正10年秋、川端は友人三明永無(みあけ・えいむ)に付き添われて岐阜を訪ね、長良川ほとりの宿、鐘秀館(しょうしゅうかん)で伊藤初代の承諾を得たのだった。そのあとで、宿の部屋から見た鵜飼いの篝火、その篝火を見つめる伊藤初代の顔の美しさが題名となっている。感動的な作品である。
「私は篝火をあかあかと抱いてゐる。焔の映つたみち子の顔をちらちら見てゐる。こんなに美しい顔はみち子の一生に二度とあるまい」。
こんな美しい文章がある。川端にとっても「一生に二度とあるまい」という瞬間だった。
しかし康成は、簡単にこの作品が書けたわけではなかった。約束後のわずか1ヶ月後、東京浅草の下宿に初代から、いわゆる「非常」の手紙がとどき、事態は急転する。初代はまもなく岐阜を出奔して上京し、いくつかのカフェを転々とするが、翌大正11年(1922年)の春過ぎには、康成の前から姿を消す。
そのころの康成の日記(川端康成全集補巻一)に頻出するのが「新晴」という作品(習作)である。
「新晴」を書く。
「新晴」を書きなぐる。
といった記述が、当時の6月の日記に繰り返される。東京本郷のカフェ・エランでめぐり合い、舞台を岐阜に移して結婚の約束をした少女との経緯を、そのまま小説に描こうと、川端は苦闘していたのである。
カフェ・エランで出合ったのが大正8年、初代が岐阜に移ったのが翌年秋、結婚の約束の成った、最も劇的な秋が大正10年、初代が康成の前から姿を消したのが大正11年の春から夏のころ。
川端が初めて、この内容を発表したのは翌年、関東大震災直前の7月、仲間と復刊創刊した『新思潮』に「南方の火」①と題して発表したものだった。これが「篝火」の、活字化された最初の原型である。
続いて、「非常」、「南方の火」②の原型「海の火祭(うみのひまつり)」、「霰(あられ)」「彼女の盛装」など、一連の「みち子もの」が発表されてゆく。
しかし川端は、これらの作品は未完成だと考え、いずれ、全体を通して描こうと、単行本には入れないでおいた。
ようやく太平洋戦争の後、昭和23年(1948年)から最初の川端康成全集(第1次、16巻もの)が刊行されるに際して川端は、これらの作品の重要性を思い、「篝火」など四作品を、その第1巻と第2巻に掲載した。
「南方の火」②は、このとき、かつて「海の火祭」の「鮎」の章として書いたものを独立させて整理し、収録したものである。また同時に、各巻の「あとがき」において、学生時代の日記を引用しつつ、いかに当時、自分が長く伊藤初代に執着したかを克明に告白したのであった。
さて、ここで本題にもどる。
今回、NHKで放映された草稿の動画を見ると、これは「篝火」の草稿というより、「新晴」の草稿の1つだと分かる。なぜなら、登場するヒロインの名が「稚枝子」となっており、これは既に発見され活字化されている「新晴」28枚と同じネーミングであるからだ。「篝火」では、「みち子」となっている。「非常」でも同様である。
今からちょうど50年前、川端康成が没した、その昭和47年の8月、「篝火」の自筆原稿が秋田県で発見された。『秋田魁(さきがけ)新報』がスクープしたのである。むかし東京で文学修行をした人が故郷秋田で刀匠になっていた。その人の古い本箱から、この原稿が出てきた、というのであった。全国の各紙も後追い報道をした。
その原稿冒頭の、題名が消されて「篝火」と直された写真を見て、当時川端研究第一人者であった長谷川泉が、画期的な説を提示した。あの日記に書かれた「新晴」を、川端が提出直前、題名を「篝火」と改めた、という説であった。
しかしこの説は7年後、川端香男里「川端康成の青春─未発表資料「新晴」併載」によって否定される。川端邸から発見された、28枚から成る「新晴」が活字化されて発表されたからだ。それは「篝火」とは大きく異なり、ヒロインや他の登場人物の名も異なり、また内容的にも、明らかに未熟な習作であった。
だが、この「新晴」原稿が発表されたことにより、川端の内部でどのように「篝火」が形成され、より良い作品に成長していったかが窺われる、貴重な資料であったことはもちろんである。
ところで、秋田県で発見された「篝火」の生原稿(なまげんこう)(自筆原稿)は、どうなったのか?
くわしい経緯は、ここでは省くが、ほぼ40年後の平成22年(2010年)、川端の故郷である大阪府の茨木市立川端康成文学館がこの原稿を入手して、「川端康成の初恋」展において、この原稿を公開したのであった。
ふたたび冒頭に戻ると、今回発見された草稿は、その早朝(大正10年10月8日)、東京から乗った列車が岐阜駅に着いたところから書き出されている。修学旅行の季節で、この列車に、名古屋と和歌山の女学生たちが乗り込んでいたことも、他の作品と重なり、康成の実際の体験であったことが分かる。
「篝火」冒頭は、岐阜駅から歩いて、みち子が身を寄せている寺についたところから始まっている。つまり康成は、初めの方に描いていた岐阜駅着の場面を削り、寺に着いたところから書き出すことにして「篝火」の原稿を完成させることが出来たのだ。
これらの作品は、「新晴」を含めて、もちろん川端康成全集で読むことができるが、近年刊行された新潮文庫の『川端康成初恋小説集』に収められているので、便利になった。ただ、解説が不親切で、「南方の火」だけでも4編収録されており、ふつうの読者は、どの順番で読めばよいか、困惑するだろう。
「南方の火」①(『新思潮』に掲載されたもの)、「篝火」、「非常」、「南方の火」②、「霰(あられ)」「彼女の盛装」……の順番で読むのが良い。それから、参考のために「新晴」を読めば良いだろう。
なお、手前みそになるが、私の近刊『川端康成の初恋のひと 伊藤初代』(ミネルヴァ書房)は、この4月初旬には刊行される予定である。如上のくわしい内容、川端康成と伊藤初代のすべてを、分かりやすく、存分に語ったつもりである。岐阜における「篝火」研究史、伊藤初代研究史、二人の詳細年譜、初代晩年の日記も、ご遺族の了解を得て収録してある。
(注) 「南方の火」は、同じ題名で4つの作品(未定稿を含む)がある。まぎらわしいので、以下のように番号をつけている。
「南方の火」①……最初に『新思潮』に掲載されたもの。
「南方の火」②……はじめ、新聞に連載された「海の火祭」の「鮎」の章として活字化されたものを、昭和23年(1948年)、最初の川端康成全集に川端自身が整理して収録したもの。岩手県岩谷堂(いわやどう。現江刺市)に、伊藤初代の父親を訪ねた時から描かれ、また全体の経過が比較的よくまとめられている。
「南方の火」③④……のちに発表された断片など。
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川端康成「英霊の遺文」1(『魔界の住人』より)
川端康成下「英霊の遺文」 その1
『魔界の住人川端康成―その生涯と文学』(上)勉誠出版、2014年8月30日刊行より
遺文集感想の依頼
昭和17年(1942年)の11月末、川端康成は『東京新聞』文化部の記者、尾崎宏次の訪問を受けた。戦没兵士の遺文集を読んで、感想を書いてほしいという依頼だった。
太平洋戦争が始まって、1年がたとうとしていた。
康成は困ったようであったが、とにかく引き受けた。
尾崎が持ってきたのは、7冊の遺文集だった。このうち5冊が私家版で、上野の図書館から借りてきたものである。その後、康成の文章が新聞紙上に出ると、遺族から直接送られてきたものもあった。
しかし、この種の文章を書いて発表することは、下手をすると、死者へのつつしみを失う恐れがある。康成がいちばん恐れたのも、そのようなことであろう。
「英霊の遺文」(えいれいのいぶん)という題名は、康成の命名と思われる。その冒頭は、次のように始まっている。
戦死者の遺文集を読みながら、私は12月8日を迎へる。新聞社から頼まれてのことだが、自分としても、この記念日にふさはしいことだと思ふ。しかし、これらの遺文について、あわただしい感想を書かねばならぬのは、英霊に対する黙禱のつつしみも失ふやうで心静かではない。ただ、強顔がゆるされるならば、かういふ遺文集があることを、人々に伝へるだけでも、ともかく私の文章の意味はあらうか。
つづいて、遺族の思いに心をうたれたのであろう、次のような例が挙げられている。
戦死者の遺文は、帰還将士の戦記にくらべて、読む者の心にも、おのづから別なものがある。例へば、花岡良輔大尉の遺文集「染雲」は、表紙の装幀に、木綿の白絣(しろがすり)を使つてあるが、それは大尉が生前身につけてゐた着物であつた。少年らしく、あらい白絣である。遺文集にはみな、この白絣を見るやうに、胸にしみるものがある。遺文集の多くは、家族や友人の追慕礼拝によつて、編纂され、刊行されてゐる。
戦死した大尉が少年時代に身につけていた白絣を表紙とした遺文集――遺族の、大尉に寄せる至純の愛情がにじんでいるではないか。
悲しみの彼岸
戦死や戦傷病を、私達作家はみだりに書くべきではない。悲みの深淵を貫ぬいて、悲みの彼岸に達するのでなければ、妄誕(もうたん)であらう。先夜、私は大瀧清雄中尉の「黄塵抄」を読んだが、「嘗て我と共に戦ひ、生命を逝かしめ、或ひは傷つきし戦友並びにその遺族に捧ぐ」といふ、この戦陣詩集は、まことに献辞を辱めぬ、高篇であつた。
「渡邊直巳歌集」にも、
軍刀を伺つきしまま絶命せりと聞くより遺族は涙たりたり
隊長の死屍を焼かむと八里の野を兵は薪を取りて帰りぬ
殪(たふ)れたる戦友の爪を切りとりて秋草と共に送りけるかも
(以下略)
などの遺歌がある。棚橋大尉の「散華」にも、
戦死者の妻の手紙はつきにけりこまごまとして書かれあるものを
隊長は撃たれしと告ぐる聲きこゆ息のみて陣に人聲とだゆ
たたかひに死にたる人のものがたり焚火かこみて尽くることなし
などの遺歌がある。戦友の戦死者についての文章ほど、その英霊を慰め、遺族を励ます文字はあるまい、遺骸を抱き、遺骨を首にかけて進軍する、戦友の悲壮な愛情は、この戦争の文学を貫くべきである。
「英霊の遺文」は、作者の深い感銘を反映して、高い精神性を帯びている。この年の文章を、康成は戦死者の妻の手紙を引用して結ぶ。
戦死者の妻
……萩子はかへりみますれば、御一緒に生活いたしました五年間、正味四年半ですね、本当に本当に幸福でした。本当に私も之以上の幸福はもつたいない様です。……若(も)し萩子は坊やと二人のこりましたら、今までの楽しかつた生活を思ひ出しては満足して坊やの世話を致します。本当に短い間と申すか、長い間と申すか、萩子は幸福で仕合せでした。若し幸ひ御無事お帰りが出来ましたら萩子は命がけで、今までの御恩報じにお尽ししようと、楽しみにいたしてゐます。
天皇陛下萬歳 棚橋少尉
日本帝国萬々歳」
このやうな手紙を、棚橋大尉は肌身につけて、
わが進むうしろにありて妻子らのをがみてあるをつゆも忘れ
と歌つた。
何と美しい妻の心であろう。そしてこの手紙を肌身につけて棚橋大尉は戦死しているのである。
これらの原稿を受け取った「東京新聞」の記者・頼尊(よりたか)清隆は、『戦中戦後の作家たち―ある文芸記者の回想』(冬樹社、1981・6・5)に、「これらの遺文を読んでいるときの、川端さんの目には涙がにじんでいたのではないだろうか」と書いている。また、次のようにも述べる。
ときには、間もなく出来るから、というので座敷に上がって待っていると、やがて原稿を持って出て来た川端さんの目は、真っ赤に充血していることがあった。
これら戦死者の手記は川端さんの心を打つものがあり、夜どおし遺文集を読みながら、これらたちの、自ら選んだのではない生と死の運命の姿に、川端さんは思いをひそめていられたのだろう。
昭和18年12月の「英霊の遺文」
翌年の昭和18年(1943年)12月にも、康成は依頼されて「英霊の遺文」を書いた。遺文集は15冊に増えていた。
少年飛行兵、星野浩一兵曹は出征に際して、叔父にこう言った。叔父は、追悼録に、少年の言葉をほとんどそのま、詩のような形に写し取った。
叔父さん、
戦闘闘機に乗る僕が死ぬのは、
唯三つの場合だけだよ。
戦闘中僕の頭か心臓か致命的な個所を、
敵弾にやられた場合。
次は、戦闘中敵の飛行機に僕の飛行機を、
ぶつつけて行つた場合。
もう一つは、敵の軍艦なり地上の目的物なりに、
突込んで自爆した場合。
これだけだよ。(中略)
叔父さん、
僕が戦死したと聞いたら、
必ずこの3つの場合のどれかだつたと、
信じて下さいよ。
この星野兵曹は第3次ソロモン海戦で戦死したが、母や姉の追悼記によると、幼い時は臆病な子だった。尋常5年の頃まで、夜は二階に一人で寝られなかったし、階段の上に人形を置くと二階へよう上らなかつた。ただ、読書に寝食を忘れるような子であった。
少年飛行兵採用の学科試験の2日目は、前夜から鼻血を出し、それでも合格し。試験の最中にも血を吐いた、前夜から鼻血を出し、試験の最中にも血を吐いた。それでも合格し、烈しい訓練を、「どんなに苦しくても、先輩が今までそれをやり遂げてゐる以上、私達にも出来ないことはないと思ひます」と言い、「ただ三つの場合」の決意どおりに戦死した。
『『魔界の住人 川端康成─その生涯と文学』(上巻)勉誠出版(2014.08.30)より
『魔界の住人川端康成――その生涯と文学』勉誠出版、2014年8月30日刊行より
川端康成下「英霊の遺文」 その1
『魔界の住人川端康成―その生涯と文学』(上)勉誠出版、2014年8月30日刊行より
遺文集感想の依頼
昭和17年(1942年)の11月末、川端康成は『東京新聞』文化部の記者、尾崎宏次の訪問を受けた。戦没兵士の遺文集を読んで、感想を書いてほしいという依頼だった。
太平洋戦争が始まって、1年がたとうとしていた。
康成は困ったようであったが、とにかく引き受けた。
尾崎が持ってきたのは、7冊の遺文集だった。このうち5冊が私家版で、上野の図書館から借りてきたものである。その後、康成の文章が新聞紙上に出ると、遺族から直接送られてきたものもあった。
しかし、この種の文章を書いて発表することは、下手をすると、死者へのつつしみを失う恐れがある。康成がいちばん恐れたのも、そのようなことであろう。
「英霊の遺文」(えいれいのいぶん)という題名は、康成の命名と思われる。その冒頭は、次のように始まっている。
戦死者の遺文集を読みながら、私は12月8日を迎へる。新聞社から頼まれてのことだが、自分としても、この記念日にふさはしいことだと思ふ。しかし、これらの遺文について、あわただしい感想を書かねばならぬのは、英霊に対する黙禱のつつしみも失ふやうで心静かではない。ただ、強顔がゆるされるならば、かういふ遺文集があることを、人々に伝へるだけでも、ともかく私の文章の意味はあらうか。
つづいて、遺族の思いに心をうたれたのであろう、次のような例が挙げられている。
戦死者の遺文は、帰還将士の戦記にくらべて、読む者の心にも、おのづから別なものがある。例へば、花岡良輔大尉の遺文集「染雲」は、表紙の装幀に、木綿の白絣(しろがすり)を使つてあるが、それは大尉が生前身につけてゐた着物であつた。少年らしく、あらい白絣である。遺文集にはみな、この白絣を見るやうに、胸にしみるものがある。遺文集の多くは、家族や友人の追慕礼拝によつて、編纂され、刊行されてゐる。
戦死した大尉が少年時代に身につけていた白絣を表紙とした遺文集――遺族の、大尉に寄せる至純の愛情がにじんでいるではないか。
悲しみの彼岸
戦死や戦傷病を、私達作家はみだりに書くべきではない。悲みの深淵を貫ぬいて、悲みの彼岸に達するのでなければ、妄誕(もうたん)であらう。先夜、私は大瀧清雄中尉の「黄塵抄」を読んだが、「嘗て我と共に戦ひ、生命を逝かしめ、或ひは傷つきし戦友並びにその遺族に捧ぐ」といふ、この戦陣詩集は、まことに献辞を辱めぬ、高篇であつた。
「渡邊直巳歌集」にも、
軍刀を伺つきしまま絶命せりと聞くより遺族は涙たりたり
隊長の死屍を焼かむと八里の野を兵は薪を取りて帰りぬ
殪(たふ)れたる戦友の爪を切りとりて秋草と共に送りけるかも
(以下略)
などの遺歌がある。棚橋大尉の「散華」にも、
戦死者の妻の手紙はつきにけりこまごまとして書かれあるものを
隊長は撃たれしと告ぐる聲きこゆ息のみて陣に人聲とだゆ
たたかひに死にたる人のものがたり焚火かこみて尽くることなし
などの遺歌がある。戦友の戦死者についての文章ほど、その英霊を慰め、遺族を励ます文字はあるまい、遺骸を抱き、遺骨を首にかけて進軍する、戦友の悲壮な愛情は、この戦争の文学を貫くべきである。
「英霊の遺文」は、作者の深い感銘を反映して、高い精神性を帯びている。この年の文章を、康成は戦死者の妻の手紙を引用して結ぶ。
戦死者の妻
……萩子はかへりみますれば、御一緒に生活いたしました五年間、正味四年半ですね、本当に本当に幸福でした。本当に私も之以上の幸福はもつたいない様です。……若(も)し萩子は坊やと二人のこりましたら、今までの楽しかつた生活を思ひ出しては満足して坊やの世話を致します。本当に短い間と申すか、長い間と申すか、萩子は幸福で仕合せでした。若し幸ひ御無事お帰りが出来ましたら萩子は命がけで、今までの御恩報じにお尽ししようと、楽しみにいたしてゐます。
天皇陛下萬歳 棚橋少尉
日本帝国萬々歳」
このやうな手紙を、棚橋大尉は肌身につけて、
わが進むうしろにありて妻子らのをがみてあるをつゆも忘れ
と歌つた。
何と美しい妻の心であろう。そしてこの手紙を肌身につけて棚橋大尉は戦死しているのである。
これらの原稿を受け取った「東京新聞」の記者・頼尊(よりたか)清隆は、『戦中戦後の作家たち―ある文芸記者の回想』(冬樹社、1981・6・5)に、「これらの遺文を読んでいるときの、川端さんの目には涙がにじんでいたのではないだろうか」と書いている。また、次のようにも述べる。
ときには、間もなく出来るから、というので座敷に上がって待っていると、やがて原稿を持って出て来た川端さんの目は、真っ赤に充血していることがあった。
これら戦死者の手記は川端さんの心を打つものがあり、夜どおし遺文集を読みながら、これらたちの、自ら選んだのではない生と死の運命の姿に、川端さんは思いをひそめていられたのだろう。
昭和18年12月の「英霊の遺文」
翌年の昭和18年(1943年)12月にも、康成は依頼されて「英霊の遺文」を書いた。遺文集は15冊に増えていた。
少年飛行兵、星野浩一兵曹は出征に際して、叔父にこう言った。叔父は、追悼録に、少年の言葉をほとんどそのま、詩のような形に写し取った。
叔父さん、
戦闘闘機に乗る僕が死ぬのは、
唯三つの場合だけだよ。
戦闘中僕の頭か心臓か致命的な個所を、
敵弾にやられた場合。
次は、戦闘中敵の飛行機に僕の飛行機を、
ぶつつけて行つた場合。
もう一つは、敵の軍艦なり地上の目的物なりに、
突込んで自爆した場合。
これだけだよ。(中略)
叔父さん、
僕が戦死したと聞いたら、
必ずこの3つの場合のどれかだつたと、
信じて下さいよ。
この星野兵曹は第3次ソロモン海戦で戦死したが、母や姉の追悼記によると、幼い時は臆病な子だった。尋常5年の頃まで、夜は二階に一人で寝られなかったし、階段の上に人形を置くと二階へよう上らなかつた。ただ、読書に寝食を忘れるような子であった。
少年飛行兵採用の学科試験の2日目は、前夜から鼻血を出し、それでも合格し。試験の最中にも血を吐いた、前夜から鼻血を出し、試験の最中にも血を吐いた。それでも合格し、烈しい訓練を、「どんなに苦しくても、先輩が今までそれをやり遂げてゐる以上、私達にも出来ないことはないと思ひます」と言い、「ただ三つの場合」の決意どおりに戦死した。
『『魔界の住人 川端康成─その生涯と文学』(上巻)勉誠出版(2014.08.30)より
『魔界の住人川端康成――その生涯と文学』勉誠出版、2014年8月30日刊行より
川端康成と鹿屋特攻基地(4)
拙著「魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―」(勉誠出版、2014年8月30日刊行)第5章「戦後の出発―自己変革の時代(2)」から
第一節 「再会」と「生命の樹」つづき
三島由紀夫の批評
じつは、「再会」は、雑誌に3回掲載された分量があった。
しかし、先述したように、単行本『再婚者』(三笠書房、1953・2・10)に収載されたとき、第2回目は削除された。以後の全集でも、「再会」は、この単行本版を踏襲している。
雑誌『文藝春秋』7月号に第2回目「過去」が発表されたとき、後述するように康成によって文壇に出たばかりの三島由紀夫は、『人間』編集長・木村徳三に宛てた手紙のなかで、いち早くこの作品を取り上げ、卓抜な批評を展開している。
――自由の杖といへば、川端さんの「過去」は二回目までの連載(文藝春秋)をよんで「戦後」といふ一つの決定的な運命的な雰囲気を描出した最初のものだと思ひました。
経験としての戦争と、外的事件としての戦争と、そのいづれかを扱つた相不変(あひかはらず)の新小説は無数にありますが、文学、芸術そのものの当然の運命たる傷痍といたましい恢復(かいふく)とそこに象徴される「永遠の無為」とを嘔気(はきけ)のするほど克明に書いた文学、それが「戦後の文学」であるべきです。
精神のどうしようもない、いやらしいほどのふてぶてしさ。揚棄し、あるひは飛翔したつもりでゐ
た本能的な衝動が、再びあらゆる精神と思想と情感と感覚をまとつてあらはれて、我々に自堕落な安心を齎(もたらす)主題、それが「再会」です。 (昭和21年7月24日)
」
何と鋭い批評であろうか。「『戦後』といふ一つの決定的な運命的な雰囲気を描出した最初のもの」とは、何と的確に、この作品の意義を語っていることだろう。そして「文学、芸術そのものの当然の運命たる傷痍といたましい恢復とそこに象徴される『永遠の無為』」とを「嘔気のするほど克明に書いた文学」であるとは、何と深く「再会」の本質を抉(えぐ)っていることか。
三島由紀夫の、康成に対する深い傾倒と、明敏な批評眼を如実に示した一節である。
「生命の樹」と鹿屋基地の体験
同じ1946年(昭和21年)の7月、康成は『婦人文庫』に「生命の樹」(いのちのき)を発表した。
これは、戦争末期に鹿屋特攻基地に1ヶ月滞在したときの経験と見聞を直接の素材にした、康成の唯一の作品である。
啓子は、近江に生まれ育って京都の女学校を出た娘だ。戦争末期、鹿屋海軍航空基地の水交社の経営を委されていた姉夫婦の誘いにより、九州南端の鹿屋基地に行って、姉夫婦の仕事を手伝った。
それは「特攻隊員のお傍に行つてみたい娘心」からだったが、果たして啓子は特攻隊員のひとり植木と相思相愛の仲になった。
植木は予定どおり5月に飛び立ち、そして帰ってこなかった。
啓子は5月の終わりに、近江に帰ってきた。まもなく沖縄戦が終了し、日本は降伏した。
1年後の春、植木の親友だった寺村が啓子の家を訪ねてきた。自分は今から東京の植木の遺族に会いにゆく、ついては啓子さんも同行しないかと誘った。
啓子の母親が寺村に好意を抱いたこともあって、啓子はあっさり同行を許される。
寺村に連れられて東京に来る東海道の車窓でも、啓子は木々の新芽のみどりに心を奪われる。そして自分が死ぬつもりでいることを思い出す。
出撃の前夜
出撃の前夜、植木は夜空を見上げて、
「星が出てるなあ。これが星の見納めだとは、どうしても思へんなあ。」と、言った。
しかし、それが植木の星の見納めだった。
植木はその明くる朝、沖縄の海に出撃した。
(我、米艦ヲ見ズ)
そして間もなく、
(我、米戦闘機ノ追蹤ヲ受ク)
二度の無電で、消息は絶えた。
―その前夜、植木は自身が合点ゆかぬ風で、
「どうもをかしいね。死ぬやうな気が、なにもせんぢやないか。星がたんと光つてやがら」と言った。啓子は、「さうよ、さうよ」と言いながら、いいことよ、ちつとも御遠慮なさらないで、手荒く乱暴なさいよ、と言いたかった。
抱きすくめられるのを待っていたようだった。が、植木は、気がつかぬふりをしたのかもしれない。星の見納めだ、という言い方に、啓子への愛がこもつていたと思えてならない。
明日死ぬお方だから、なにをなさってもいいと啓子は思ったのだったが、植木は、明日死ぬ身だから、なにもしないと思ったのかもしれなかった。
小山の多い、あの基地の5月は、新緑が私の心にしみた。植木さんたちの隊へ行く野道の溝に垂れつらなる、野いばらの花にも、植木さんたちの宿舎になつてゐる、学校の庭の栴檀(せんだん)の花にも、私は目を見張つたものだ。
どうして、自然がこんなに美しいのだらう。若い方々が死に飛び立つてゆく土地で……。
私は自然を見に、九州の南端まで来たかのやうだつた。
しかし、5月の基地は雨が多かった。そのために出撃が延び、寺村は生き残ったのだった。
1年後の今、東海道の新芽のあざやかさに目を奪われる啓子は、自分が死ぬつもりでいるからであり、沿線の焼け跡が気にかかる寺村は、生きる人なのかも知れなかった。
邪慳なあつかい
しかし4月25日、東京の植木の実家を訪ねた啓子に、植木の母は心をひらかなかった。むしろ、警戒したようだった。水交社といっても、宿屋か料理屋、水商売の娘と啓子を誤解したのかもしれなかった。
みじめな気持ちで植木の家を出ると、東京は一昨夜の嵐で、いっせいに若葉の世界になっていた。東京の焼け跡にも、こんなに木が残っているのかと思うほど、みどりがあざやかだった。
鹿屋の基地で、植木と寺村が声を合わせて、ドイツ語の歌をうたったことを啓子は思い出した。ふたりは同じ高等学校か同じ大学の音楽部で、合唱隊の仲間だったのだろうか、みごとな2部合唱だった。
それは、寺村と梅田と植木の3人が娼家へ行くのに、啓子を誘ったときだった。
寺村と梅田は娼婦と同衾したが、啓子を連れている植木は、娼婦とは寝なかった。植木だけが童貞のまま死んでゆくことになるのだった。
植木はまた、啓子の学校が京都だったねと念を押して、「京都は今ごろ、祇園円山夜桜だね。平和ならね……。」と言って、「いのちひさしき」という長い詩を朗唱した。
それは、祇園の桜が枯れようとしている、という意味の詩だった。
その詩の終節は、反歌である。詩の全体を反復し要約するもので、日本一と讃えられた桜の名木が枯れるのを、どうすることもできず傍観する、己(おの)が無力を歎いたものである。
ひのもとのいちとたたへし
はなのきをかるるにまかす
せんすべしらに
三好達治「いのちひさしき」
この詩は、三好達治の第12詩集にあたる『花筐』(はながたみ)』に収められた「いのちひさしき」という詩の一節である。
昭和19年6月16日、北海道青磁社から刊行された。石原八束によれば、烈しく思慕した萩原朔太郎の妹、アイに捧げられた愛の詩集であるという。
この詩の主題となった枝垂(しだれ)桜は、京都祇園の円山公園にあって、樹齢三百年と伝えられた名木であった。達治は京都の三高で青春を過ごしたのだった。達治自身、「僕の京都」という文章の中で、この木に対する愛着を述べ、その枯死したことを嘆いている。
――わたくし(森本)はこのたび、詩の言葉のしらべと、京都というヒントから、作者は三好達治ではないかと見当をつけ、みごとにこの詩の出典を発見した――と思ったが、武田勝彦『川端文学と聖書』(教育出版センター、1971・7・2)の第12章「生命の樹(3)」にこの出典が明示されていた。
それどころか、「終戦前後の青年の愛唱してやまなかったもの」「終節の『ひのもとのいちとたたへし/はなのきをかるるにまかす/せんすべしらに』に詠いこまれた亡びの哀調が、空襲に荒廃する祖国をせんすべしらに眺めていた青年には深い感銘を与えていた」と述べられているのを読んで、兜(かぶと)をぬいだ。
須藤宏明も、『川端康成全作品研究事典』(勉誠出版、1998・6・20)の「生命の樹」の項で、三好達治と明言している。
長谷川泉「生命の樹」論(後述)も、同様の事実を指摘している。
啓子は、今から考えると、植木はこのような日本の運命を知りながら、飛んでいったのではなかろうかと思われた。
また、植木は、自分の死後、啓子を、せんすべしらにかるるにまかす宿命の女と 、いとおしく思ったのであろうと、武田は推測している。
生命の樹
山手線の電車で、そのように植木の思い出にふけっている啓子に、寺村が声をかける。
焼けた木に、芽が噴いているのだった。
街路樹だつた。枝はことごとく焼け折れて、炭の槍のやうに尖つた、その幹から、若葉が噴き出してゐるのだつた。若葉はぎつしり、重なり合ひ、押し合ひ、伸びを争ひ、盛り上つて、力あふれてゐた。
焼けただれた街に、自然の生命の噴火だった。
突然、ヨハネ黙示録の一節が啓子の心に浮かぶ。
御使(みつかひ)また水晶のごとく透(すき)徹(とほ)れる生命(いのち)の水の河を我に見せたり。……都の大路(おほぢ)の真中(まなか)を流る。河の左右に生
命(いのち)の樹(き)ありて……、その樹の葉は諸国の民を醫(いや)すなり。……
さらに、別の一節も啓子の心に浮かぶ。
我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前(さき)の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。
武田は、この部分を、次のように解説している。すなわちこの一節は、天上の最後の審判が終わり、悪魔の活動は停止させられ、死人もすべて復活し、人々は過去の行為によってさばかれたのちに、第21章の新天新地は到来するのである、と。
この一節のあと、「本郷にある、寺村さんのお友達のおうちへ、私たちは帰るのだつた。」で、作品は結ばれている。
作品の主題
とすれば、作品「生命の樹」の主題は、明らかであろう。
焼け跡の木が芽を噴き、若葉を噴きだしたように、再生、復活がこの作品の主題である。ひとたび滅びたものが、新たな生命を得てよみがえる。
植木のために死ぬつもりであった啓子が、寺村と結婚することによって、新しい人生を生きはじめる、と暗示しているのである。
康成は、作品の初めの方でも、鹿屋特攻基地の自然が美しかったことを強調している。
どうして、自然がこんなに美しいのだらう。
作品「生命の樹」は、このように自然の再生の力を強調し、あるいは発見することによって、啓子の人生の新たな出発を描いた作品であるといえる。
武田は前掲の論において、この作品について、およそ次のように述べている。
血みどろの長い戦争のために学徒出陣、学徒動員し、暗い青春を送ることを余儀なくされた若者は無数にいた。そして180度の逆転の中で、信念を奪われ、希望を失った青年たちは、肉体的にも精神的にも生と死の間を彷徨していた。「生命の樹」は、その人たちの再出発に捧げられた讃歌ではなかろうか、と。
さらに武田は、これを「神の啓示」である、として、これが作品の主題であるとする。すなわち、「恋人を戦争に奪われた啓子が生命の樹を発見することによって、人間としての自我を恢復したことである」と説いている。
川嶋至の厳しい批判
以上のような武田勝彦の説の以前に、「生命の樹」に激しく反発し、否定した川嶋至の有名な説がある。
川嶋は、前掲『川端康成の世界』の、戦後を論じた第7章「美への耽溺――『千羽鶴』から『眠れる美女』まで――」の冒頭で、康成の鹿屋基地体験と「生命の樹」にふれて、次のように激しい言葉で康成の戦後の文学を根底から批判し、否定した(243頁)。
川端氏は敗戦の年、昭和20年4月、海軍報道班員として鹿児島県鹿屋の特攻隊飛行基地におもむき、一月あまり、死に飛び立つ特攻隊員や、敗北の色濃い基地のもようをつぶさに視察した。短篇「生命の樹」(昭和22年)(ママ。正しくは、昭和21年)は、その見聞を土台にしてなった、唯一の作品である。
小山の多い、あの基地の五月は、新緑が私の心にしみた。(中略)
どうして、自然がこんなに美しいのだろう。若い方々が死に飛び立ってゆく土地で……。(以下略)
川嶋は「生命の樹」の中でも最も印象に残る自然の美しさを描いた部分を引用したあとで、川端康成のいわば根幹の主題について、次のように、問題を提起する。
それにしても、お国のためにと散っていく若い生命の最後を目(ま)のあたりにし、基地内に流れる暗い戦況の情報からそれらの死がいかに無意味なものであるかを熟知しながら、ひたすら自然の美しさにうたれている人間とは、いったい何なのだろうかと思う。
戦中戦後の荒廃が自然をより美しくふりかえらせたことも、若い死にかこまれた自然が心にしみたこともわかる。しかし、それだけにとどまっていられるものだろうか。と言っても、川端氏には通じないだろう。
駒子のひたすらな営為を「徒労」とみる島村に、特攻隊員の死もまた大きな徒労と写ったに違いない。「禽獣」たちの死を黙って見過ごす「彼」を創造した川端氏は、沖縄の死地に飛び急ぐ魂を、むなしく凝視するだけなのである。確かに、一個人が誤った現実にいかに切歯扼腕したところで、傍観者と何ら異なるところはなかったであろう。
しかしそれにしても、川端氏の特攻基地での体験が、「生命の樹」という一短篇しか生まなかったこと、それも「私」の眼に映ずる自然の美しさが語られる作品しか生まなかったことに、私たちは愕然とし、あの大きな戦争にすらも人間的な関心を示さずに素通りできた作家に、恐怖に近い尊敬の念を捧げないわけにはいかない(245頁)。
戦争を素通りできた作家
川嶋の批判は、鹿屋特攻基地をつぶさに経験したにもかかわらず、「あの大きな戦争にすらも人間的な関心を示さずに素通りできた作家」康成に向けられている。しかも「自然の美しさ」を主題とした「生命の樹」一編しか書かなかった作家のあり方に「恐怖に近い尊敬の念」を捧げる、と痛烈な皮肉を浴びせているのである。
川嶋の批判は、まだつづく。
日本の近代文学が、1、2の例外を除いて、「政治や社会の問題に触れることをやめて、ひたすら個の内部を凝視しつづけてきた伝統」を康成はかたくなに踏襲し、「かくて、川端文学は敗戦後も変ることなく、政治や社会から隔絶した『非現実』の美を追求しつづける」と述べるのである。
川嶋の批判は、ここからさらに、戦後の川端文学全体を否定するところにまで進む。
従って戦後の、あるいは「雪国」以後の川端文学には、「現実精神の強さ」も「浪漫精神の高さ」もない。あるものは、もの悲しい情緒だけである。古美術や女体のかもしだすあえかに美しい雰囲気だけである(249頁)。
川嶋説の限界
しかし、はたしてそうだろうか。
川嶋は、康成が、戦争を素通りしてきた、という。それなら川嶋は「英霊の遺文」を、どう考えるのだろうか。
あの、戦死していった兵士たちや残された家族に暗涙を流した康成の至情は偽りだったとでもいうのだろうか。
「日本の母」を訪問して、質問もようしなかった康成の心情を、ありふれた心というのだろうか。
「哀愁」の源氏物語との邂逅は、決して偶然に源氏物語を読み、感動した、というようなものではない。その背景に、日本の戦況が次第に不利に傾き、日本の国土が次第に焦土と化してゆく現実があった。
その祖国への深い悲しみが、源氏物語の中を流れる「あはれ」と共振して、はじめてあの異様な感動へと導かれたのである。
康成の文学的生涯は、決して戦前から戦後へ、ひと筋に直線的に連続してきたものではない。
戦時下の川端康成については、第4章において詳しく検証してきた。
戦後については、これからおいおい語ってゆく予定だが、戦中から戦後にかけて、康成の内部は大きく変貌しているのだ。
川嶋の批判は、戦後の川端文学を理解できないところから来るものである。「山の音」も「千羽鶴」も、「みづうみ」も「眠れる美女」も「たんぽぽ」も、川嶋の実証のみを基礎とする方法では追尋することができない。その限界が、このような無理解な批判をもたらしたのである。
川嶋は、前節で見たように、「生命の樹」の、あまりに自然の美しさを強調した作風から、戦争を素通りした作品、と批判した。
これに対して、前引の武田勝彦は、この作品の主題を、「恋人を戦争に奪われた啓子が生命の樹を発見することによって、人間としての自我を恢復したことである」とした。
一方、長谷川泉は「『生命の樹』と戦争」(『国文学』1981・4・1)において、寺村の啓子への求婚は、「啓子の植木への追慕の愛を包摂したものとして表現されている」として、「戦争と、焦土からの再出発の一つの姿が、そこにある」と結論づけている。
「生命の樹」の主題が、再生、再出発にあることには、わたくしも異存はない。明らかにこの作品は、焦土に芽吹いた緑によって、生命の再生を確認したところで終わっている。作品末尾の、「本郷にある、寺村さんのお友達のおうちへ、私たちは帰るのだつた」が、啓子と寺村の結ばれることを暗示していることも、異論のないところであろう。
釈然とせぬ結末
――だが、わたくしは、この作品の結末に釈然としないのである。
この作品の美しいことは認める。全編に、敗戦の年、鹿屋基地の、春の自然の美しかったことがあふれていることも、1年後の敗戦後の日本の東海道沿線の新芽の美しいことも認める。康成は鹿屋基地体験を決して素通りしてきたのではなく、太平洋戦争全体をも素通りしてきたのでないことは、これまでわたくしが説いてきたところから、明らかであろう。
しかしわたくしは、啓子の再生が、寺村との結婚によって実現すると暗示されているところに、決定的な不満を抱くのである。
長谷川泉も、その論で、作品の冒頭を引用し、「戦争」のため「日本の春」が失われたと、作者の嘆いていることを指摘している。
また、作品の初めの方では、死んだ植木に殉じて啓子が自殺する覚悟でいることが、幾度も暗示されている。
・私はかぶりを振つた。そして、とつさに、自分が死ぬつもりでゐることを思ひ出した。
・これが、東海道の春の見納めなのだらうか。
・寺村さんは私が死ぬつもりでゐることを御存じない。
それなのに、作品の終りでは、啓子は寺村と結婚する気持ちへと変心するのである。
わざわざ聖書の詩句まで引用されて、啓子の再生は描かれている。
それなら、死んだ植木の魂はどうなるのだろう。
植木の悲壮な死に殉ずるつもりで、啓子は死ぬつもりでいたのではなかったか。それなのに、樹木の再生、生命の再生を目撃しただけで、植木への愛を葬り去ってしまうのである。
もちろん、長谷川が説いたように、寺村は、啓子の植木への愛を包摂した上で、啓子と結婚するつもりだとは書いてある。
しかし、他者との結婚は、どんなに糊塗しようと、死者を裏切ることになるのではないのか。
このような再生が、真の再生といえるのだろうか。
わたくしは、この点で、「生命の樹」を、心底から肯定する気にはなれないのである。
新しい解釈
……以上が、これまでこの作品を読んできた、わたくしの結論であった。
しかし今回、入念にこの作品を読み返すあいだに、新しい解釈が浮かんできた。
康成がそんなに安易に、死者の魂を冒瀆するような作品を書くだろうか、と疑問が湧いたのである。
「英霊の遺文」で、あれほど深く死者の魂に心を寄せた康成が、その死者の霊魂が悲しむような、また彼らが心から愛した祖国を汚すような作品を書くだろうか。
もっと別の意味がこめられているのではないのか。
すぐ思い浮かぶのは、この作品の発表舞台が『婦人文庫』である、という事実だ。この雑誌は、出版社鎌倉文庫が、戦後に生きる婦人向けに創刊した雑誌である。だからこそ康成は、この雑誌に作品を書いたのだろう。そして当然、その読者が女性たちであることを十分に意識していたはずである。
とすれば、この作品には、戦後日本に生きる女性たちに対する康成のメッセージがこめられていた、と考えるべきではないのか。
そこで注目されるのは、『婦人文庫』という雑誌の性格である。
『人間』昭和21年6月号は、その編集後記に、5月に創刊されたばかりの『婦人文庫』について、次のように記している。
★鎌倉文庫は過日最も新しい婦人雑誌として「婦人文庫」第1号を世に問ふたが、倖ひ予期どほり大きな好評を獲ることができた。鎌倉文庫独自の清新な色調と香気にみちた、あくまで新時代の婦人雑誌を創造すべく、既に第2号は刊行の運びとなり第3、第4号まで編輯(編集)が進行してゐる。「人間」の読者の方々も大きな御期待と御愛顧を傾けて下さるやうお願ひする。
「あくまで新時代の婦人雑誌を創造」するとして、この雑誌を創刊したのである。
そして第2号の6月号では「座談会・結婚と道徳について」を特集している。出席者は、河盛好蔵、今日出海、芹澤光治良、川端康成の4名である。
『婦人文庫』の座談会
「結婚と道徳」――まさに、「生命の樹」の主題と重なっている。「生命の樹」は、この座談会の翌月に発表されているのである。
とすれば、康成には、「生命の樹」を書くとき、『婦人文庫』の読者である「新時代の婦人」たちに向けて書く、という意識が強くあったはずである。また、座談会で話し合われたばかりのテーマも、執筆に入ったとき、つよく頭に残っていたことであろう。
では、この座談会では、どんなことが話し合われたのだろうか。
実際に6月号の座談会を読むと、冒頭で記者が問題提起をしている。
戦後の民主主義の導入、婦人の権利の向上や参政権といった改革の動きがある。そのなかで、「この新しい時代を迎へた日本婦人に、新しい家族制度とか、特に婦人の一番大きな結婚の問題、それに関係して道徳の問題等をどう考へてゆくべきか」を識者に話し合ってもらおうというのである。
しかし記者の意図を離れて、座談は、戦後日本の婦人と進駐兵の道徳的問題や、ドイツに占領されたときのフランス女性の場合、というふうに進んで、「結婚と道徳」の問題には、なかなか入ってゆかない。これはフランス生活の経験をもつ芹澤光治良と河盛好蔵の発言が中心になっているからのようだ。
康成は、はかばかしい発言をしていない。強いていえば、日本の今の娘たちが結婚に臆病になっている、という発言を受けて、次のように発言しているくらいである。
「結婚を考へ得ないお嬢さんがあるとすればそれも敗戦の打撃の一つですね。あらゆる面に敗戦の悲しみは深い。」
座談会は、結局、「若い娘と結婚」「男女同権と家族制度」「民主主義」といった項目を提示しながらも、話題の進展はなく、主題もあいまいなままに終わっている。
では、この座談会は、出席した康成に、何の示唆も与えなかったのだろうか。
むしろ、論議が深まらず、座談会がうやむやのうちに終わったことで、かえって康成には、自分の内面的課題が明らかになったのではなかろうか。
康成は、「結婚と道徳」という、記者からあらかじめ知らされていたであろうテーマ、また座談会の中で少しだけ話が出た「若い娘と結婚」というテーマから、自身の内部に発酵しかかっていた課題に目醒めたのではなかろうか。
では、康成がこの作品にこめた意図は何なのか。
戦争で恋人を失った女たち
戦後まもない日本には、おびただしい数にのぼる戦争未亡人や、恋人や婚約者を戦争で失った若い女性たちがいた。
彼女たちも、男たち同様、祖国の勝利を信じ、そのために全力を尽くした。戦況が変り、日本が次第に敗亡にむかって、なだれを打つように頽勢(たいせい)に傾いていったとき、彼女たちも深く心を痛めた。さらに敗色が濃くなり、外地の日本軍の玉砕が次々と伝えられ、空襲によって国土が次第に焦土と化していったとき、彼女たちの悲しみもまた、男たちに劣ることはなかった。
そんな彼女たちのけなげな生き方は、戦時下に書かれた「さざんか」「十七歳」「小切」「さと」「水」などの小品に描かれている。
戦後まもなく発表された前述の「感傷の塔」は、戦中から戦後にかけての、転変する運命に翻弄される女性たちの、精いっぱい生きようとする心を描いたものだった。
そのような無数の彼女たちの現実を考えたとき、康成の心にあったのは、そのように生きてきた女性たちに、生きる勇気を与えたい、ということであったろう。
「生命の樹」の作中に取り込まれた三好達治の「いのちひさしき」という詩は、実際には枯死する桜の老樹を歌ったものだ。しかし、その詩句が戦争末期の個人の、どうしようもない心情を表現したものとして愛唱されたとは、前引の武田勝彦の証言にある通りだ。漢字をまじえて、わかりやすく記すと、
日の本(ひのもと)の一と讃(たた)へし
花の木の枯るるにまかす
せん術(すべ)知らに
祖国が枯死してゆくのを、なすすべもなく傍観するしかない悲しみを、男も女も、ともに深く悲しんだのであった。
そのような人々に、日本の自然の美しさが、末期の眼に映るように、いっそう美しく映った。
一方、康成の内部には、敗戦の年の鹿屋基地での体験を書き残したい、という思いは、つよくあっただろう。あの1ヶ月の異様な体験は、結局、一言で表現するしかないものであった。
「生命の樹」の、「どうして、自然がこんなに美しいのだらう」という一言は、作者康成の肺腑から出た言葉だろう。
国家や人間の運命のはかなさと、それに関わりなく燃えさかる自然のみどり――。
あのときの実感を書きたいという思いと、座談会で発想を刺激された、おびただしい数の未亡人たちと若い女性たちの結婚問題、というテーマが、康成の内部で結合し、「生命の樹」という作品を生んだのだのではなかろうか。
――敗戦後、康成は、一方では「再会」に、男女間の些事がよみがえり、「生き生きと復活してくるもの」があったことを描いた。他方で、この「生命の樹」に、敗戦間近な一年前の日本の悲しみと自然の美しさを描き、さらに戦後の、自然の再生による、よみがえりを描いたのである。
康成はこの作品に、1つのメッセージを託した。
環境の激変にとまどい、夫や恋人を失って茫然としている、おびただしい数の女性たちに、再生の希望と、新しく生きる可能性を示唆する具体的なメッセージである。
すなわち、死者を心に秘めながら、再婚、あるいは新しい恋人を見つけること、などによって、新しく生き直してもいいのだよという、現実的な提言が、この作品には埋め込まれていたのではなかろうか。当時、啓子のように、戦死した恋人を胸に抱いている女性は、驚くばかりの数であったろう。
ヨハネ黙示録の一節は、ひとたび死んだ人間が、新しく甦(よみがえ)ることの象徴である。あえてこの一節を引用することによって、康成は、彼女たちに再生の免罪符を与えたのではなかったか。
この作品に勇気づけられて、新しい出発を選択した女性が、当時の日本には数多くあったはずである。
康成には珍しく、「生命の樹」は、そのような現実的な救済の道を示唆した作品であると思われる。
――なお、「生命の樹」について、若干の補足をしておきたい。
まず、この作品は鹿屋特攻基地を舞台としながらも、いくらかのフィクションが加えられている、という事実である。
ヒロインの啓子は近江に生まれた娘であるが、姉が経営を委託されている鹿屋基地の水交社の仕事を手伝うため、鹿屋に来たことになっている。
ところが、鹿屋基地の中に、水交社はなかったのである。兵舎として接収された野里小学校内にはなく、少し離れたところにある旅館・水泉閣が水交社とされた。
「鹿屋の水交社は、急拵えの場末の小料理屋といった感じだった。荒削りの床の上に白木の食卓が並んでいて、そのあいだを和服姿で襷(たすき)がけの年増の女たちがせわしげに立ち働いていた」と、『半世紀の鹿屋航空隊 戦前編』(米永代一郎、南九州新聞社、1989・9・13)には描かれている。
前掲の杉山幸照『海の歌声』を精読すると、特攻兵士(多くは学徒兵であるから、少尉以上の士官である)の食事を作ったのは、男性の炊事兵である。
また、当時の基地内に女性がいなかったことは、理髪の無料奉仕に来てくれていた理髪店の女性春田ハナに、隊員たちが唯一の女性として憧れを抱いていたという記述から明らかである。
一方、基地から離れた市街地に娼家があり、特攻前日の兵士たちの幾人かがそこへ行って童貞を捨てたこと、また、相手をした娼婦が、その兵士が明日死ぬことを知り、手を握って放さなかった感動的な事実なども、杉山は例を引いて印象深く描いている。
特攻基地の近くに娼家があることは常識かもしれないが、杉山から聞いた実話をもとに、康成は寺村たちが娼家をたずねる挿話を描いたのかもしれない。
また前述したように武田勝彦は、戦時下の学生たちが、自分たちの無力感を、三好達治の「いのちひさしき」に託して歌ったものだ、と述べていた。
あるいは鹿屋基地でも、特攻兵たちがこの詩を朗唱するのを耳にして、それに心うたれて、康成は作品に書き込んだのかもしれない。「生命の樹」を感動的な作品にしている一つの要素に、この詩が大きな役割をはたしているからだ。
康成は戦争を素通りしたのか
最後に、先引の川嶋至の批判について、もう少し述べてみたい。
川嶋はさきほどの批判のなかで、「あの大きな戦争にすらも人間的な関心を示さずに素通りできた作家」と康成を決めつけた。
だが康成は戦後、数々の古典回帰宣言をした。その最初の「島木健作追悼」の中の「私の生涯は……すでに終つたと、今は感ぜられてならない。古(いにしへ)の山河にひとり還つてゆくだけである」という言葉、「山里に厭離(おんり)したい気持」と
いう言葉だけでも、いかにこの作家が敗戦を心の内奥で受け止め、深い悲しみに包まれていたかを、如実にあらわしている。
「私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない」という決意は、日本の敗亡の悲しみの中からほとばしり出た、不退転の言葉ではなかろうか。
戦争を素通りしたどころか、敗戦を真正面から受けとめた、決然とした覚悟の言葉なのである。
そして実際、これから見てゆくように、康成はこの決意を、愚直といえるほど正直に、作品に直接に実現してゆく。
生(なま)なかたちで戦場の悲惨を書くことだけが、戦争の文学なのではない。戦争を心の奥底で受けとめ、そこから得たものを自己に忠実に表現してゆくことこそ、作家の誠実なのである。川嶋至は、この点でも誤解していた。康成ほど心底から戦争を受けとめ、それによって作品を根本的に変貌させた作家は、ほかになかったとさえいえるのである。
「生命の樹」の項は、この第4回で終わりです。
また、別の章を、つづきに掲載します。
拙著「魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―」(勉誠出版、2014年8月30日刊行)第5章「戦後の出発―自己変革の時代(2)」から
第一節 「再会」と「生命の樹」つづき
三島由紀夫の批評
じつは、「再会」は、雑誌に3回掲載された分量があった。
しかし、先述したように、単行本『再婚者』(三笠書房、1953・2・10)に収載されたとき、第2回目は削除された。以後の全集でも、「再会」は、この単行本版を踏襲している。
雑誌『文藝春秋』7月号に第2回目「過去」が発表されたとき、後述するように康成によって文壇に出たばかりの三島由紀夫は、『人間』編集長・木村徳三に宛てた手紙のなかで、いち早くこの作品を取り上げ、卓抜な批評を展開している。
――自由の杖といへば、川端さんの「過去」は二回目までの連載(文藝春秋)をよんで「戦後」といふ一つの決定的な運命的な雰囲気を描出した最初のものだと思ひました。
経験としての戦争と、外的事件としての戦争と、そのいづれかを扱つた相不変(あひかはらず)の新小説は無数にありますが、文学、芸術そのものの当然の運命たる傷痍といたましい恢復(かいふく)とそこに象徴される「永遠の無為」とを嘔気(はきけ)のするほど克明に書いた文学、それが「戦後の文学」であるべきです。
精神のどうしようもない、いやらしいほどのふてぶてしさ。揚棄し、あるひは飛翔したつもりでゐ
た本能的な衝動が、再びあらゆる精神と思想と情感と感覚をまとつてあらはれて、我々に自堕落な安心を齎(もたらす)主題、それが「再会」です。 (昭和21年7月24日)
」
何と鋭い批評であろうか。「『戦後』といふ一つの決定的な運命的な雰囲気を描出した最初のもの」とは、何と的確に、この作品の意義を語っていることだろう。そして「文学、芸術そのものの当然の運命たる傷痍といたましい恢復とそこに象徴される『永遠の無為』」とを「嘔気のするほど克明に書いた文学」であるとは、何と深く「再会」の本質を抉(えぐ)っていることか。
三島由紀夫の、康成に対する深い傾倒と、明敏な批評眼を如実に示した一節である。
「生命の樹」と鹿屋基地の体験
同じ1946年(昭和21年)の7月、康成は『婦人文庫』に「生命の樹」(いのちのき)を発表した。
これは、戦争末期に鹿屋特攻基地に1ヶ月滞在したときの経験と見聞を直接の素材にした、康成の唯一の作品である。
啓子は、近江に生まれ育って京都の女学校を出た娘だ。戦争末期、鹿屋海軍航空基地の水交社の経営を委されていた姉夫婦の誘いにより、九州南端の鹿屋基地に行って、姉夫婦の仕事を手伝った。
それは「特攻隊員のお傍に行つてみたい娘心」からだったが、果たして啓子は特攻隊員のひとり植木と相思相愛の仲になった。
植木は予定どおり5月に飛び立ち、そして帰ってこなかった。
啓子は5月の終わりに、近江に帰ってきた。まもなく沖縄戦が終了し、日本は降伏した。
1年後の春、植木の親友だった寺村が啓子の家を訪ねてきた。自分は今から東京の植木の遺族に会いにゆく、ついては啓子さんも同行しないかと誘った。
啓子の母親が寺村に好意を抱いたこともあって、啓子はあっさり同行を許される。
寺村に連れられて東京に来る東海道の車窓でも、啓子は木々の新芽のみどりに心を奪われる。そして自分が死ぬつもりでいることを思い出す。
出撃の前夜
出撃の前夜、植木は夜空を見上げて、
「星が出てるなあ。これが星の見納めだとは、どうしても思へんなあ。」と、言った。
しかし、それが植木の星の見納めだった。
植木はその明くる朝、沖縄の海に出撃した。
(我、米艦ヲ見ズ)
そして間もなく、
(我、米戦闘機ノ追蹤ヲ受ク)
二度の無電で、消息は絶えた。
―その前夜、植木は自身が合点ゆかぬ風で、
「どうもをかしいね。死ぬやうな気が、なにもせんぢやないか。星がたんと光つてやがら」と言った。啓子は、「さうよ、さうよ」と言いながら、いいことよ、ちつとも御遠慮なさらないで、手荒く乱暴なさいよ、と言いたかった。
抱きすくめられるのを待っていたようだった。が、植木は、気がつかぬふりをしたのかもしれない。星の見納めだ、という言い方に、啓子への愛がこもつていたと思えてならない。
明日死ぬお方だから、なにをなさってもいいと啓子は思ったのだったが、植木は、明日死ぬ身だから、なにもしないと思ったのかもしれなかった。
小山の多い、あの基地の5月は、新緑が私の心にしみた。植木さんたちの隊へ行く野道の溝に垂れつらなる、野いばらの花にも、植木さんたちの宿舎になつてゐる、学校の庭の栴檀(せんだん)の花にも、私は目を見張つたものだ。
どうして、自然がこんなに美しいのだらう。若い方々が死に飛び立つてゆく土地で……。
私は自然を見に、九州の南端まで来たかのやうだつた。
しかし、5月の基地は雨が多かった。そのために出撃が延び、寺村は生き残ったのだった。
1年後の今、東海道の新芽のあざやかさに目を奪われる啓子は、自分が死ぬつもりでいるからであり、沿線の焼け跡が気にかかる寺村は、生きる人なのかも知れなかった。
邪慳なあつかい
しかし4月25日、東京の植木の実家を訪ねた啓子に、植木の母は心をひらかなかった。むしろ、警戒したようだった。水交社といっても、宿屋か料理屋、水商売の娘と啓子を誤解したのかもしれなかった。
みじめな気持ちで植木の家を出ると、東京は一昨夜の嵐で、いっせいに若葉の世界になっていた。東京の焼け跡にも、こんなに木が残っているのかと思うほど、みどりがあざやかだった。
鹿屋の基地で、植木と寺村が声を合わせて、ドイツ語の歌をうたったことを啓子は思い出した。ふたりは同じ高等学校か同じ大学の音楽部で、合唱隊の仲間だったのだろうか、みごとな2部合唱だった。
それは、寺村と梅田と植木の3人が娼家へ行くのに、啓子を誘ったときだった。
寺村と梅田は娼婦と同衾したが、啓子を連れている植木は、娼婦とは寝なかった。植木だけが童貞のまま死んでゆくことになるのだった。
植木はまた、啓子の学校が京都だったねと念を押して、「京都は今ごろ、祇園円山夜桜だね。平和ならね……。」と言って、「いのちひさしき」という長い詩を朗唱した。
それは、祇園の桜が枯れようとしている、という意味の詩だった。
その詩の終節は、反歌である。詩の全体を反復し要約するもので、日本一と讃えられた桜の名木が枯れるのを、どうすることもできず傍観する、己(おの)が無力を歎いたものである。
ひのもとのいちとたたへし
はなのきをかるるにまかす
せんすべしらに
三好達治「いのちひさしき」
この詩は、三好達治の第12詩集にあたる『花筐』(はながたみ)』に収められた「いのちひさしき」という詩の一節である。
昭和19年6月16日、北海道青磁社から刊行された。石原八束によれば、烈しく思慕した萩原朔太郎の妹、アイに捧げられた愛の詩集であるという。
この詩の主題となった枝垂(しだれ)桜は、京都祇園の円山公園にあって、樹齢三百年と伝えられた名木であった。達治は京都の三高で青春を過ごしたのだった。達治自身、「僕の京都」という文章の中で、この木に対する愛着を述べ、その枯死したことを嘆いている。
――わたくし(森本)はこのたび、詩の言葉のしらべと、京都というヒントから、作者は三好達治ではないかと見当をつけ、みごとにこの詩の出典を発見した――と思ったが、武田勝彦『川端文学と聖書』(教育出版センター、1971・7・2)の第12章「生命の樹(3)」にこの出典が明示されていた。
それどころか、「終戦前後の青年の愛唱してやまなかったもの」「終節の『ひのもとのいちとたたへし/はなのきをかるるにまかす/せんすべしらに』に詠いこまれた亡びの哀調が、空襲に荒廃する祖国をせんすべしらに眺めていた青年には深い感銘を与えていた」と述べられているのを読んで、兜(かぶと)をぬいだ。
須藤宏明も、『川端康成全作品研究事典』(勉誠出版、1998・6・20)の「生命の樹」の項で、三好達治と明言している。
長谷川泉「生命の樹」論(後述)も、同様の事実を指摘している。
啓子は、今から考えると、植木はこのような日本の運命を知りながら、飛んでいったのではなかろうかと思われた。
また、植木は、自分の死後、啓子を、せんすべしらにかるるにまかす宿命の女と 、いとおしく思ったのであろうと、武田は推測している。
生命の樹
山手線の電車で、そのように植木の思い出にふけっている啓子に、寺村が声をかける。
焼けた木に、芽が噴いているのだった。
街路樹だつた。枝はことごとく焼け折れて、炭の槍のやうに尖つた、その幹から、若葉が噴き出してゐるのだつた。若葉はぎつしり、重なり合ひ、押し合ひ、伸びを争ひ、盛り上つて、力あふれてゐた。
焼けただれた街に、自然の生命の噴火だった。
突然、ヨハネ黙示録の一節が啓子の心に浮かぶ。
御使(みつかひ)また水晶のごとく透(すき)徹(とほ)れる生命(いのち)の水の河を我に見せたり。……都の大路(おほぢ)の真中(まなか)を流る。河の左右に生
命(いのち)の樹(き)ありて……、その樹の葉は諸国の民を醫(いや)すなり。……
さらに、別の一節も啓子の心に浮かぶ。
我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前(さき)の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。
武田は、この部分を、次のように解説している。すなわちこの一節は、天上の最後の審判が終わり、悪魔の活動は停止させられ、死人もすべて復活し、人々は過去の行為によってさばかれたのちに、第21章の新天新地は到来するのである、と。
この一節のあと、「本郷にある、寺村さんのお友達のおうちへ、私たちは帰るのだつた。」で、作品は結ばれている。
作品の主題
とすれば、作品「生命の樹」の主題は、明らかであろう。
焼け跡の木が芽を噴き、若葉を噴きだしたように、再生、復活がこの作品の主題である。ひとたび滅びたものが、新たな生命を得てよみがえる。
植木のために死ぬつもりであった啓子が、寺村と結婚することによって、新しい人生を生きはじめる、と暗示しているのである。
康成は、作品の初めの方でも、鹿屋特攻基地の自然が美しかったことを強調している。
どうして、自然がこんなに美しいのだらう。
作品「生命の樹」は、このように自然の再生の力を強調し、あるいは発見することによって、啓子の人生の新たな出発を描いた作品であるといえる。
武田は前掲の論において、この作品について、およそ次のように述べている。
血みどろの長い戦争のために学徒出陣、学徒動員し、暗い青春を送ることを余儀なくされた若者は無数にいた。そして180度の逆転の中で、信念を奪われ、希望を失った青年たちは、肉体的にも精神的にも生と死の間を彷徨していた。「生命の樹」は、その人たちの再出発に捧げられた讃歌ではなかろうか、と。
さらに武田は、これを「神の啓示」である、として、これが作品の主題であるとする。すなわち、「恋人を戦争に奪われた啓子が生命の樹を発見することによって、人間としての自我を恢復したことである」と説いている。
川嶋至の厳しい批判
以上のような武田勝彦の説の以前に、「生命の樹」に激しく反発し、否定した川嶋至の有名な説がある。
川嶋は、前掲『川端康成の世界』の、戦後を論じた第7章「美への耽溺――『千羽鶴』から『眠れる美女』まで――」の冒頭で、康成の鹿屋基地体験と「生命の樹」にふれて、次のように激しい言葉で康成の戦後の文学を根底から批判し、否定した(243頁)。
川端氏は敗戦の年、昭和20年4月、海軍報道班員として鹿児島県鹿屋の特攻隊飛行基地におもむき、一月あまり、死に飛び立つ特攻隊員や、敗北の色濃い基地のもようをつぶさに視察した。短篇「生命の樹」(昭和22年)(ママ。正しくは、昭和21年)は、その見聞を土台にしてなった、唯一の作品である。
小山の多い、あの基地の五月は、新緑が私の心にしみた。(中略)
どうして、自然がこんなに美しいのだろう。若い方々が死に飛び立ってゆく土地で……。(以下略)
川嶋は「生命の樹」の中でも最も印象に残る自然の美しさを描いた部分を引用したあとで、川端康成のいわば根幹の主題について、次のように、問題を提起する。
それにしても、お国のためにと散っていく若い生命の最後を目(ま)のあたりにし、基地内に流れる暗い戦況の情報からそれらの死がいかに無意味なものであるかを熟知しながら、ひたすら自然の美しさにうたれている人間とは、いったい何なのだろうかと思う。
戦中戦後の荒廃が自然をより美しくふりかえらせたことも、若い死にかこまれた自然が心にしみたこともわかる。しかし、それだけにとどまっていられるものだろうか。と言っても、川端氏には通じないだろう。
駒子のひたすらな営為を「徒労」とみる島村に、特攻隊員の死もまた大きな徒労と写ったに違いない。「禽獣」たちの死を黙って見過ごす「彼」を創造した川端氏は、沖縄の死地に飛び急ぐ魂を、むなしく凝視するだけなのである。確かに、一個人が誤った現実にいかに切歯扼腕したところで、傍観者と何ら異なるところはなかったであろう。
しかしそれにしても、川端氏の特攻基地での体験が、「生命の樹」という一短篇しか生まなかったこと、それも「私」の眼に映ずる自然の美しさが語られる作品しか生まなかったことに、私たちは愕然とし、あの大きな戦争にすらも人間的な関心を示さずに素通りできた作家に、恐怖に近い尊敬の念を捧げないわけにはいかない(245頁)。
戦争を素通りできた作家
川嶋の批判は、鹿屋特攻基地をつぶさに経験したにもかかわらず、「あの大きな戦争にすらも人間的な関心を示さずに素通りできた作家」康成に向けられている。しかも「自然の美しさ」を主題とした「生命の樹」一編しか書かなかった作家のあり方に「恐怖に近い尊敬の念」を捧げる、と痛烈な皮肉を浴びせているのである。
川嶋の批判は、まだつづく。
日本の近代文学が、1、2の例外を除いて、「政治や社会の問題に触れることをやめて、ひたすら個の内部を凝視しつづけてきた伝統」を康成はかたくなに踏襲し、「かくて、川端文学は敗戦後も変ることなく、政治や社会から隔絶した『非現実』の美を追求しつづける」と述べるのである。
川嶋の批判は、ここからさらに、戦後の川端文学全体を否定するところにまで進む。
従って戦後の、あるいは「雪国」以後の川端文学には、「現実精神の強さ」も「浪漫精神の高さ」もない。あるものは、もの悲しい情緒だけである。古美術や女体のかもしだすあえかに美しい雰囲気だけである(249頁)。
川嶋説の限界
しかし、はたしてそうだろうか。
川嶋は、康成が、戦争を素通りしてきた、という。それなら川嶋は「英霊の遺文」を、どう考えるのだろうか。
あの、戦死していった兵士たちや残された家族に暗涙を流した康成の至情は偽りだったとでもいうのだろうか。
「日本の母」を訪問して、質問もようしなかった康成の心情を、ありふれた心というのだろうか。
「哀愁」の源氏物語との邂逅は、決して偶然に源氏物語を読み、感動した、というようなものではない。その背景に、日本の戦況が次第に不利に傾き、日本の国土が次第に焦土と化してゆく現実があった。
その祖国への深い悲しみが、源氏物語の中を流れる「あはれ」と共振して、はじめてあの異様な感動へと導かれたのである。
康成の文学的生涯は、決して戦前から戦後へ、ひと筋に直線的に連続してきたものではない。
戦時下の川端康成については、第4章において詳しく検証してきた。
戦後については、これからおいおい語ってゆく予定だが、戦中から戦後にかけて、康成の内部は大きく変貌しているのだ。
川嶋の批判は、戦後の川端文学を理解できないところから来るものである。「山の音」も「千羽鶴」も、「みづうみ」も「眠れる美女」も「たんぽぽ」も、川嶋の実証のみを基礎とする方法では追尋することができない。その限界が、このような無理解な批判をもたらしたのである。
川嶋は、前節で見たように、「生命の樹」の、あまりに自然の美しさを強調した作風から、戦争を素通りした作品、と批判した。
これに対して、前引の武田勝彦は、この作品の主題を、「恋人を戦争に奪われた啓子が生命の樹を発見することによって、人間としての自我を恢復したことである」とした。
一方、長谷川泉は「『生命の樹』と戦争」(『国文学』1981・4・1)において、寺村の啓子への求婚は、「啓子の植木への追慕の愛を包摂したものとして表現されている」として、「戦争と、焦土からの再出発の一つの姿が、そこにある」と結論づけている。
「生命の樹」の主題が、再生、再出発にあることには、わたくしも異存はない。明らかにこの作品は、焦土に芽吹いた緑によって、生命の再生を確認したところで終わっている。作品末尾の、「本郷にある、寺村さんのお友達のおうちへ、私たちは帰るのだつた」が、啓子と寺村の結ばれることを暗示していることも、異論のないところであろう。
釈然とせぬ結末
――だが、わたくしは、この作品の結末に釈然としないのである。
この作品の美しいことは認める。全編に、敗戦の年、鹿屋基地の、春の自然の美しかったことがあふれていることも、1年後の敗戦後の日本の東海道沿線の新芽の美しいことも認める。康成は鹿屋基地体験を決して素通りしてきたのではなく、太平洋戦争全体をも素通りしてきたのでないことは、これまでわたくしが説いてきたところから、明らかであろう。
しかしわたくしは、啓子の再生が、寺村との結婚によって実現すると暗示されているところに、決定的な不満を抱くのである。
長谷川泉も、その論で、作品の冒頭を引用し、「戦争」のため「日本の春」が失われたと、作者の嘆いていることを指摘している。
また、作品の初めの方では、死んだ植木に殉じて啓子が自殺する覚悟でいることが、幾度も暗示されている。
・私はかぶりを振つた。そして、とつさに、自分が死ぬつもりでゐることを思ひ出した。
・これが、東海道の春の見納めなのだらうか。
・寺村さんは私が死ぬつもりでゐることを御存じない。
それなのに、作品の終りでは、啓子は寺村と結婚する気持ちへと変心するのである。
わざわざ聖書の詩句まで引用されて、啓子の再生は描かれている。
それなら、死んだ植木の魂はどうなるのだろう。
植木の悲壮な死に殉ずるつもりで、啓子は死ぬつもりでいたのではなかったか。それなのに、樹木の再生、生命の再生を目撃しただけで、植木への愛を葬り去ってしまうのである。
もちろん、長谷川が説いたように、寺村は、啓子の植木への愛を包摂した上で、啓子と結婚するつもりだとは書いてある。
しかし、他者との結婚は、どんなに糊塗しようと、死者を裏切ることになるのではないのか。
このような再生が、真の再生といえるのだろうか。
わたくしは、この点で、「生命の樹」を、心底から肯定する気にはなれないのである。
新しい解釈
……以上が、これまでこの作品を読んできた、わたくしの結論であった。
しかし今回、入念にこの作品を読み返すあいだに、新しい解釈が浮かんできた。
康成がそんなに安易に、死者の魂を冒瀆するような作品を書くだろうか、と疑問が湧いたのである。
「英霊の遺文」で、あれほど深く死者の魂に心を寄せた康成が、その死者の霊魂が悲しむような、また彼らが心から愛した祖国を汚すような作品を書くだろうか。
もっと別の意味がこめられているのではないのか。
すぐ思い浮かぶのは、この作品の発表舞台が『婦人文庫』である、という事実だ。この雑誌は、出版社鎌倉文庫が、戦後に生きる婦人向けに創刊した雑誌である。だからこそ康成は、この雑誌に作品を書いたのだろう。そして当然、その読者が女性たちであることを十分に意識していたはずである。
とすれば、この作品には、戦後日本に生きる女性たちに対する康成のメッセージがこめられていた、と考えるべきではないのか。
そこで注目されるのは、『婦人文庫』という雑誌の性格である。
『人間』昭和21年6月号は、その編集後記に、5月に創刊されたばかりの『婦人文庫』について、次のように記している。
★鎌倉文庫は過日最も新しい婦人雑誌として「婦人文庫」第1号を世に問ふたが、倖ひ予期どほり大きな好評を獲ることができた。鎌倉文庫独自の清新な色調と香気にみちた、あくまで新時代の婦人雑誌を創造すべく、既に第2号は刊行の運びとなり第3、第4号まで編輯(編集)が進行してゐる。「人間」の読者の方々も大きな御期待と御愛顧を傾けて下さるやうお願ひする。
「あくまで新時代の婦人雑誌を創造」するとして、この雑誌を創刊したのである。
そして第2号の6月号では「座談会・結婚と道徳について」を特集している。出席者は、河盛好蔵、今日出海、芹澤光治良、川端康成の4名である。
『婦人文庫』の座談会
「結婚と道徳」――まさに、「生命の樹」の主題と重なっている。「生命の樹」は、この座談会の翌月に発表されているのである。
とすれば、康成には、「生命の樹」を書くとき、『婦人文庫』の読者である「新時代の婦人」たちに向けて書く、という意識が強くあったはずである。また、座談会で話し合われたばかりのテーマも、執筆に入ったとき、つよく頭に残っていたことであろう。
では、この座談会では、どんなことが話し合われたのだろうか。
実際に6月号の座談会を読むと、冒頭で記者が問題提起をしている。
戦後の民主主義の導入、婦人の権利の向上や参政権といった改革の動きがある。そのなかで、「この新しい時代を迎へた日本婦人に、新しい家族制度とか、特に婦人の一番大きな結婚の問題、それに関係して道徳の問題等をどう考へてゆくべきか」を識者に話し合ってもらおうというのである。
しかし記者の意図を離れて、座談は、戦後日本の婦人と進駐兵の道徳的問題や、ドイツに占領されたときのフランス女性の場合、というふうに進んで、「結婚と道徳」の問題には、なかなか入ってゆかない。これはフランス生活の経験をもつ芹澤光治良と河盛好蔵の発言が中心になっているからのようだ。
康成は、はかばかしい発言をしていない。強いていえば、日本の今の娘たちが結婚に臆病になっている、という発言を受けて、次のように発言しているくらいである。
「結婚を考へ得ないお嬢さんがあるとすればそれも敗戦の打撃の一つですね。あらゆる面に敗戦の悲しみは深い。」
座談会は、結局、「若い娘と結婚」「男女同権と家族制度」「民主主義」といった項目を提示しながらも、話題の進展はなく、主題もあいまいなままに終わっている。
では、この座談会は、出席した康成に、何の示唆も与えなかったのだろうか。
むしろ、論議が深まらず、座談会がうやむやのうちに終わったことで、かえって康成には、自分の内面的課題が明らかになったのではなかろうか。
康成は、「結婚と道徳」という、記者からあらかじめ知らされていたであろうテーマ、また座談会の中で少しだけ話が出た「若い娘と結婚」というテーマから、自身の内部に発酵しかかっていた課題に目醒めたのではなかろうか。
では、康成がこの作品にこめた意図は何なのか。
戦争で恋人を失った女たち
戦後まもない日本には、おびただしい数にのぼる戦争未亡人や、恋人や婚約者を戦争で失った若い女性たちがいた。
彼女たちも、男たち同様、祖国の勝利を信じ、そのために全力を尽くした。戦況が変り、日本が次第に敗亡にむかって、なだれを打つように頽勢(たいせい)に傾いていったとき、彼女たちも深く心を痛めた。さらに敗色が濃くなり、外地の日本軍の玉砕が次々と伝えられ、空襲によって国土が次第に焦土と化していったとき、彼女たちの悲しみもまた、男たちに劣ることはなかった。
そんな彼女たちのけなげな生き方は、戦時下に書かれた「さざんか」「十七歳」「小切」「さと」「水」などの小品に描かれている。
戦後まもなく発表された前述の「感傷の塔」は、戦中から戦後にかけての、転変する運命に翻弄される女性たちの、精いっぱい生きようとする心を描いたものだった。
そのような無数の彼女たちの現実を考えたとき、康成の心にあったのは、そのように生きてきた女性たちに、生きる勇気を与えたい、ということであったろう。
「生命の樹」の作中に取り込まれた三好達治の「いのちひさしき」という詩は、実際には枯死する桜の老樹を歌ったものだ。しかし、その詩句が戦争末期の個人の、どうしようもない心情を表現したものとして愛唱されたとは、前引の武田勝彦の証言にある通りだ。漢字をまじえて、わかりやすく記すと、
日の本(ひのもと)の一と讃(たた)へし
花の木の枯るるにまかす
せん術(すべ)知らに
祖国が枯死してゆくのを、なすすべもなく傍観するしかない悲しみを、男も女も、ともに深く悲しんだのであった。
そのような人々に、日本の自然の美しさが、末期の眼に映るように、いっそう美しく映った。
一方、康成の内部には、敗戦の年の鹿屋基地での体験を書き残したい、という思いは、つよくあっただろう。あの1ヶ月の異様な体験は、結局、一言で表現するしかないものであった。
「生命の樹」の、「どうして、自然がこんなに美しいのだらう」という一言は、作者康成の肺腑から出た言葉だろう。
国家や人間の運命のはかなさと、それに関わりなく燃えさかる自然のみどり――。
あのときの実感を書きたいという思いと、座談会で発想を刺激された、おびただしい数の未亡人たちと若い女性たちの結婚問題、というテーマが、康成の内部で結合し、「生命の樹」という作品を生んだのだのではなかろうか。
――敗戦後、康成は、一方では「再会」に、男女間の些事がよみがえり、「生き生きと復活してくるもの」があったことを描いた。他方で、この「生命の樹」に、敗戦間近な一年前の日本の悲しみと自然の美しさを描き、さらに戦後の、自然の再生による、よみがえりを描いたのである。
康成はこの作品に、1つのメッセージを託した。
環境の激変にとまどい、夫や恋人を失って茫然としている、おびただしい数の女性たちに、再生の希望と、新しく生きる可能性を示唆する具体的なメッセージである。
すなわち、死者を心に秘めながら、再婚、あるいは新しい恋人を見つけること、などによって、新しく生き直してもいいのだよという、現実的な提言が、この作品には埋め込まれていたのではなかろうか。当時、啓子のように、戦死した恋人を胸に抱いている女性は、驚くばかりの数であったろう。
ヨハネ黙示録の一節は、ひとたび死んだ人間が、新しく甦(よみがえ)ることの象徴である。あえてこの一節を引用することによって、康成は、彼女たちに再生の免罪符を与えたのではなかったか。
この作品に勇気づけられて、新しい出発を選択した女性が、当時の日本には数多くあったはずである。
康成には珍しく、「生命の樹」は、そのような現実的な救済の道を示唆した作品であると思われる。
――なお、「生命の樹」について、若干の補足をしておきたい。
まず、この作品は鹿屋特攻基地を舞台としながらも、いくらかのフィクションが加えられている、という事実である。
ヒロインの啓子は近江に生まれた娘であるが、姉が経営を委託されている鹿屋基地の水交社の仕事を手伝うため、鹿屋に来たことになっている。
ところが、鹿屋基地の中に、水交社はなかったのである。兵舎として接収された野里小学校内にはなく、少し離れたところにある旅館・水泉閣が水交社とされた。
「鹿屋の水交社は、急拵えの場末の小料理屋といった感じだった。荒削りの床の上に白木の食卓が並んでいて、そのあいだを和服姿で襷(たすき)がけの年増の女たちがせわしげに立ち働いていた」と、『半世紀の鹿屋航空隊 戦前編』(米永代一郎、南九州新聞社、1989・9・13)には描かれている。
前掲の杉山幸照『海の歌声』を精読すると、特攻兵士(多くは学徒兵であるから、少尉以上の士官である)の食事を作ったのは、男性の炊事兵である。
また、当時の基地内に女性がいなかったことは、理髪の無料奉仕に来てくれていた理髪店の女性春田ハナに、隊員たちが唯一の女性として憧れを抱いていたという記述から明らかである。
一方、基地から離れた市街地に娼家があり、特攻前日の兵士たちの幾人かがそこへ行って童貞を捨てたこと、また、相手をした娼婦が、その兵士が明日死ぬことを知り、手を握って放さなかった感動的な事実なども、杉山は例を引いて印象深く描いている。
特攻基地の近くに娼家があることは常識かもしれないが、杉山から聞いた実話をもとに、康成は寺村たちが娼家をたずねる挿話を描いたのかもしれない。
また前述したように武田勝彦は、戦時下の学生たちが、自分たちの無力感を、三好達治の「いのちひさしき」に託して歌ったものだ、と述べていた。
あるいは鹿屋基地でも、特攻兵たちがこの詩を朗唱するのを耳にして、それに心うたれて、康成は作品に書き込んだのかもしれない。「生命の樹」を感動的な作品にしている一つの要素に、この詩が大きな役割をはたしているからだ。
康成は戦争を素通りしたのか
最後に、先引の川嶋至の批判について、もう少し述べてみたい。
川嶋はさきほどの批判のなかで、「あの大きな戦争にすらも人間的な関心を示さずに素通りできた作家」と康成を決めつけた。
だが康成は戦後、数々の古典回帰宣言をした。その最初の「島木健作追悼」の中の「私の生涯は……すでに終つたと、今は感ぜられてならない。古(いにしへ)の山河にひとり還つてゆくだけである」という言葉、「山里に厭離(おんり)したい気持」と
いう言葉だけでも、いかにこの作家が敗戦を心の内奥で受け止め、深い悲しみに包まれていたかを、如実にあらわしている。
「私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない」という決意は、日本の敗亡の悲しみの中からほとばしり出た、不退転の言葉ではなかろうか。
戦争を素通りしたどころか、敗戦を真正面から受けとめた、決然とした覚悟の言葉なのである。
そして実際、これから見てゆくように、康成はこの決意を、愚直といえるほど正直に、作品に直接に実現してゆく。
生(なま)なかたちで戦場の悲惨を書くことだけが、戦争の文学なのではない。戦争を心の奥底で受けとめ、そこから得たものを自己に忠実に表現してゆくことこそ、作家の誠実なのである。川嶋至は、この点でも誤解していた。康成ほど心底から戦争を受けとめ、それによって作品を根本的に変貌させた作家は、ほかになかったとさえいえるのである。
「生命の樹」の項は、この第4回で終わりです。
また、別の章を、つづきに掲載します。
川端康成と鹿屋特攻基地(2)
拙著「魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―」(勉誠出版、2014年8月30日刊行)第5章「戦後の出発―自己変革の時代(2)」から
第一節 「再会」と「生命の樹」
創作の再開
戦争末期の1945年(昭和20)年に、康成は小説を2編しか発表しなかった。1月に発表した「故園」最終回(未完)と、4月に発表した「冬の曲」(『文藝』)だけである。
戦争の終わった8月以降も、作品は発表していない。文芸雑誌が壊滅状態という事情もあった。出版社鎌倉文庫設立のために奔走していたこともある。
それが昭和21年に入ると、堰を切ったように、小説を発表しはじめる。
戦争終結によって心の重圧が除かれたせいであろうか、戦後の旺盛な創作欲を予感させる作品を書きつづけてゆく。
1月には、みずから創刊した雑誌『人間』に、短編「女の手」を発表した。
(中略)
同1月に、康成は『世界文化』創刊号に「感傷の塔」という短篇も発表している。
これは、作家である「私」が、以前から時々手紙をくれた若い女性ファンへの返書という形式で、その他の女性たちを含めた、ここ数年間の日本の女たちの有為転変を描いた作品である。
手紙の対象である藍子が山口市に住んでいることから、大内氏の築いた瑠璃光寺の五重塔を、題名としたものだろう。
ここには、戦争中に結婚し、あるいはその夫に戦死された女性たちの消息が点綴されている。たとえば藍子は、戦争の初めに結婚して、妻となり母となったが、夫の海軍大尉が昭和20年3月末、九州東方海面で戦死して、未亡人となっているのである。これを受けて「戦が終りました時に、私の生涯も終つたと、私は感じました」と、「私」は現在の心境を語っている。
同胞とともに戦へませんでした私はただ戦ふ同胞を昔ながらのあはれと思ふことで戦の下に生きてまゐりましたが、今戦敗れた同胞にそのあはれが極まりまして昔なら出家するところでありませう。
これは、「島木健作追悼」に述べた心境と同じである。康成の当時の心のうちを率直に吐露したと考えられるし、一方、太平洋戦争の数年間に日本の女性たちを襲った運命の激変への心痛をも語った一節と思われる。
「感傷の塔」は、そのような戦争直後の康成の心境を語った作品である。
「感傷の塔」は、そのような戦争直後の康成の心境を語った作品である。
第5章 戦後の出発
戦後文学の出発「再会」
昭和21年の『世界』2月号に、康成は「再会」という注目すべき作品を掲載した。つづいて『文藝春秋』6月号に、「過去」という題名で続編が発表され、同誌のつづく7月号に、ふたたび「過去」という同名の作品が発表された。
この3編は昭和28年2月、三笠書房から刊行された『再婚者』に「再会」と命名されて、収録された。ただし、このとき、前後の2編が採録されて、6月号発表の第2回は削除された。以後、この『再婚者』の本文が諸全集に定本として収録されている。本稿でも、この本文をもとに考察を加えることとする。
「再会」は、このように書き出される。
敗戦後の厚木祐三の生活は富士子との再会から始まりさうだ。あるひは、富士子と再会したと言ふよりも、祐三自身と再会したと言ふべきかもしれなかつた。
祐三の富士子との再会を、康成は冒頭から、祐三は「自身と再会した」と述べている。ここに、作品の主題は凝縮されている。
「ああ、生きてゐたと、祐三は富士子を見て驚きに打たれた。それは歓びも悲しみもまじへない単純な驚きだつた」と康成は書く。
「祐三は過去に出会つたのだ」「眼前で過去が現在へつながつたことに祐三は驚いたのだつた」とも書いている。
今の祐三の場合の過去と現在との間には、戦争があつた。
祐三の迂闊な驚きも無論戦争のせゐにちがひなかつた。
戦争に埋没してゐたものが復活した驚愕とも言へるだらう。あの殺戮と破壊の怒濤が、しかし微小な男女間の瑣事を消滅し得なかつたのだ。
祐三と富士子は、戦争前に男女の仲であった。それが戦争の間におそらく自然に別れ、それぞれの生活に埋没して、相手のことをほとんど忘れていたのである。
それほどに戦争の暴威はすさまじかった。「あの殺戮と破壊の怒濤」の数年間が、男女の仲を裂いたどころか、相手を忘れるほどまでに、それを「過去」のこととしていたのだ。
それが一瞬に、眼前で「過去が現在へつながつた」。そのことに祐三は驚く。
ふたりが再会したのは、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の境内である。降伏からまだ2ヶ月余りの、「多くの人々は国家と個人の過去と現在と未来とが解体して錯乱する渦巻に溺れてゐるやうな時」である。
実朝(さねとも)の文事から発想されたらしい「文墨祭」が催されて、進駐軍も招待されている。
人々はまだ空襲下の、戦災者の服装から脱していない。そこへ、振り袖の令嬢の一群が現れて、祐三は眼の覚める思いをしたところだった。木立の中に茶席をもうけて、アメリカ兵を接待するための少女たちである。
やがて社の舞殿で踊りが始まる。
浦安の舞、獅子舞、静(しづか)の舞、元禄花見踊――亡び去った日本の姿が笛の音のように祐三の胸を流れた。令嬢たちの振り袖が「泥沼の花」のように見えた。
その舞姿を目で追っている祐三の視線が、ふと富士子の顔を認めたのだ。
おやと驚くと祐三はかへつて瞬間ぼんやりした。こいつを見てゐるとつまらないことになるぞと内心警戒しながら、しかも相手の富士子が生きた人間とも自分に害を及ぼす物とも感じられなくて、直ぐには目をそむけようとしなかつた。
無意識のうちに女との再会を警戒する祐三は、もはや人生の辛酸をある程度経験している中年の男である。40を1つ2つ過ぎた年齢だ。しかも祐三は心の隙に、「なにか肉体的な温かさ、自分の一部に出会つたやうな親しさが、生き生きとこみあげて」きて、それが警戒心を上回るのである。
祐三は失心しさうな人を呼びさますやうな気組で、いきなり富士子の背に手をおいた。
「ああ。」
富士子はゆつくり倒れかかつて来さうに見えて、しやんと立つと、體(からだ)のびりびり顫(ふる)へるのが、祐三の腕に伝はつた。
なまなましい再会である。この再会の危険と魅惑を、康成は次のように書く。
この女と祐三が再会すれば道徳上の問題や実生活の面倒がむし返されるはずで、言はば好んで腐れ縁につかまるのだから、さつきも警戒心がひらめいたのだが、ひよつと溝を飛び越えるやうに、富士子を拾つてしまつた。
当然ながら、祐三には妻と家族があった。富士子はひとり身であった。再会すれば「道徳上の問題」「実生活の面倒」がむし返されることになる「腐れ縁」である。それを無意識のうちに認めながら、祐三は富士子を拾ってしまった。
ふたりは、戦争の間の消息を、お互いに探り合う。どちらも家を焼かれ、あるいは焼け出されていた。
富士子は祐三が「お変りにならないわねえ」と言う。これに対して祐三は、富士子が小太りだったのがげっそり瘦せて、切れの長い目ばかりが不自然に光るのを見る。以前気になったほどの年齢差が感じられなくなっている。
「祐三が富士子と別れ得たのは、幾年かの悪縁から放たれたのは、戦争の暴力のせゐだつたらう。微小な男女間の瑣事にからまる良心などは激流に棄ててゐられたのだらう。」
その激流を経たおかげで、富士子は祐三を非難したり恨んだりしたりすることを忘れているようであった。
しかし富士子は、祐三に早速、難題をふりかける。
「ねえ、お願ひ、聞いて下さらなければいやよ。」
「…………。」
「ねえ、私を養つて頂戴。」
「え、養ふつて……?」
「ほんの、ほんのちよつとの間でいいの。御迷惑かけないでおとなしくしてるわ。」
祐三はついいやな顔をして富士子を見た。
「今どうして暮してるの?」
「食べられないことはないのよ。さういふんぢやないの。私生活をし直したいの。あなたのところから出発させてほしいの。」
「出発ぢやなくて、逆戻りぢやないか。」
「逆戻りぢやないわ。出発の気合をかけていただくだけよ。きつと私ひとりで直ぐ出てゆくわ。―このままぢやだめ、このままぢや私だめよ。ね、ちよつとだけつかまらせて頂戴。」
どこまで本音か、祐三は聞きわけかねた。巧妙な罠のようにも感じた。
―ここで舞台はがらりと転換する。
群衆の拍手の中を、進駐軍の軍楽隊が入場してくる。20人ばかりだ。そして彼らは舞台に上がると、無造作に吹奏楽を吹き鳴らした。
その吹奏楽器の第一音がいっせいに鳴った瞬間、祐三はあっと胸を起こす。目が覚めたように頭の雲が拭われた。
なんという明るい国だろうと、祐三はいまさらながら、アメリカという国に驚く。
」」
「再会」の意義
「再会」の後半、祐三と富士子は、何ということもなく電車に乗って東京へ出る。
横浜を過ぎるころから、夕べの色が沈んできた。
」
長いこと鼻についていた焦げくさい臭気はさすがにもうなくなったが、いつまでも埃を立てているような焼け跡だ。
祐三がいつもは降りる品川も通りすぎてしまう。かつて、ふたりは新橋で降りて銀座へ出たものだったが、その新橋も通りすぎてしまう。
富士子は、いま自分の住んでいる土地を明かさない。祐三も、友人の六畳間に置いてもらっている、というばかりだ。再会したばかりなのに、祐三の胸には、今度もうまく富士子を振り落とすことができるだろうかという狡猾な打算もはたらく。
東京駅のホオムで、祐三は通勤の折々、しばしば目にした餓死に近い姿の復員兵の群れを思い出す。
この戦争のやうに多くの兵員を遠隔の外地に置き去りして後退し、そのまま見捨てて降伏した敗戦は、歴史に例があるまい。
と思う。これは、祐三の心に託して、作者の怒りが噴出した言葉であろう。日本軍の行った戦争に対する康成の評価として重要だ。
東京駅のホオムを降りて、丸ビルの横に出るが、それまでにふたりは、帰国の汽車を待つ朝鮮人の群れや、翌日の切符の売り出しを待つ日本人の疲れた行列も見る。
丸ビルの前へ来ると、16,7の汚い娘がいて、アメリカ兵が通りかかるたび、取りすがるように呼びかける光景も見た。乞食か浮浪児か気ちがいか、わからぬが、富士子は眉をひそめる。
――夜になって、銀座のあたりから、人通りの稀な焼け跡の暗がりを、ふたりは根比べのように歩く。
富士子がふと告白する。
こんな晩に、上野駅に行列していたとき、「あらと気がついて、うしろへ手をやると濡れてるの」と息をつめた口調で、「うしろの人に、着物をよごされたのよ。」「……私、ぞうつと顫へて、列を離れちやつたの。男の人つて気味が悪いのねえ。あんな時によくまあ……。おお、こはい。」
敗戦後の錯綜した空気の中でも、痴漢めいた行為をする男はいたのだ。
――焼け跡にも、ぽつぽつ、建ちかけのバラックがあった。夜が深まってきたころ、ふたりは、瓦礫の上で結ばれる。
温かく柔かいものはなんとも言へぬ親しさで、あまりに素直な安息に似て、むしろ神秘な驚きにしびれるやうでもあつた。
そこには、病後に会う女の甘い恢復があった。
手にふれる富士子の肩は瘦せ出た骨だし、胸にもたれかかつて来るのは深い疲労の重みなのに、祐三は異性そのものとの再会と感じるのだつた。
生き生きと復活して来るものがあつた。
祐三は瓦礫の上からバラツクの方へ降りた。
窓の戸も床もまだないらしく、傍によると薄い板の踏み破れる音がした。
「再会」は、このような文章で閉じられる。
地下水のような人間の内面
この作品の主題は、いうまでもなく、「生き生きと復活して来るものがあつた」という一行に凝縮されている。
祐三は自分自身に再会したのであり、過去に再会したのだ。
あの殺戮と破壊の怒濤のなかで完全に抹消されたはずの男女間の瑣事がよみがえったことへの新鮮な驚き、それがこの作品の眼目である。建ちかけのバラックの散見する焼け跡の瓦礫の上で結ばれたとき、祐三のうちに「生き生きと復活して来るものがあつた」というのは、あの未曾有の戦争をくぐり抜けたあとの、虚脱と活気が奇妙に交錯していた一時期をありありと読者に追体験させる。同時に、戦争の怒濤でさえも吹き消すことのできぬ、人間の心の不可思議さを、あらためて読者に開示しているのである。
この発見――つまり、いかなる外圧をもってしても搔き消すことのできぬ人間の深層心理の無気味な生命力、地下水のように脈々と過去から現在へと流れつづける人間の内面の奥深い部分――。
これを確認したとき、康成は戦後を生き始めたのであり、あえていうと、「再会」を書き終えた瞬間、康成の晩年は始まっていた。
そして「生命の樹」を経て「反橋」(そりはし)「しぐれ」「住吉」の3部作によって、康成はもはや引き返すことの不可能な領域に決定的に踏み込んだ、といえるのである。
もう1つ、この作品で驚かされるのは、敗戦後2ヶ月の、鎌倉と東京の、情景と風俗・世相が、微細に描きこまれていることだ。
鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の境内の情景、鎌倉から東京へ出る電車から見えた景色、そして何よりも、東京駅のホオムから構内、そこから茫漠とひろがる焼け跡の情景と風俗・世相が、みごとに活写されている。
康成が「私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものもあるひは信じない」と宣言するのは、翌22年10月の「哀愁」においてであるが、それは決して、戦後の世相、風俗から目を逸(そ)らす、という意味ではなかった。それどころか、康成は恐ろしいばかりの冷徹な眼によって、戦前から様変わりした戦後の日本の現実を凝視し、その本質を洞察しているのである。
ただ、康成は、戦後の現実をとらえても、それに同調し、同化されるのではなかった。戦時下から戦後にかけて、みずからの内に確乎として定めた、「日本古来の悲しみ」のほかのことは一行も書かぬ、という決意が揺らぐことはなかった。
富士子との再会が祐三にもたらしたものは、「自身の発見」であり、「過去への再会」であり、男女の仲のもつ、「温かく柔かいもの」であり、「素直な安息」、「神秘な驚き」であり、しびれるような「病後に会ふ女の甘い恢復」であった。
男と女の仲こそ、日本古来の人々が最も大切にし、また溺れてきた「あはれ」である。
「再会」は、康成が戦後に最初に描いた男女の物語であり、それは「住吉」連作を経て「山の音」「千羽鶴」へと飛躍してゆく、男女の物語の嚆矢(こうし)だったのである。
以下つづく
拙著「魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―」(勉誠出版、2014年8月30日刊行)第5章「戦後の出発―自己変革の時代(2)」から
第一節 「再会」と「生命の樹」
創作の再開
戦争末期の1945年(昭和20)年に、康成は小説を2編しか発表しなかった。1月に発表した「故園」最終回(未完)と、4月に発表した「冬の曲」(『文藝』)だけである。
戦争の終わった8月以降も、作品は発表していない。文芸雑誌が壊滅状態という事情もあった。出版社鎌倉文庫設立のために奔走していたこともある。
それが昭和21年に入ると、堰を切ったように、小説を発表しはじめる。
戦争終結によって心の重圧が除かれたせいであろうか、戦後の旺盛な創作欲を予感させる作品を書きつづけてゆく。
1月には、みずから創刊した雑誌『人間』に、短編「女の手」を発表した。
(中略)
同1月に、康成は『世界文化』創刊号に「感傷の塔」という短篇も発表している。
これは、作家である「私」が、以前から時々手紙をくれた若い女性ファンへの返書という形式で、その他の女性たちを含めた、ここ数年間の日本の女たちの有為転変を描いた作品である。
手紙の対象である藍子が山口市に住んでいることから、大内氏の築いた瑠璃光寺の五重塔を、題名としたものだろう。
ここには、戦争中に結婚し、あるいはその夫に戦死された女性たちの消息が点綴されている。たとえば藍子は、戦争の初めに結婚して、妻となり母となったが、夫の海軍大尉が昭和20年3月末、九州東方海面で戦死して、未亡人となっているのである。これを受けて「戦が終りました時に、私の生涯も終つたと、私は感じました」と、「私」は現在の心境を語っている。
同胞とともに戦へませんでした私はただ戦ふ同胞を昔ながらのあはれと思ふことで戦の下に生きてまゐりましたが、今戦敗れた同胞にそのあはれが極まりまして昔なら出家するところでありませう。
これは、「島木健作追悼」に述べた心境と同じである。康成の当時の心のうちを率直に吐露したと考えられるし、一方、太平洋戦争の数年間に日本の女性たちを襲った運命の激変への心痛をも語った一節と思われる。
「感傷の塔」は、そのような戦争直後の康成の心境を語った作品である。
「感傷の塔」は、そのような戦争直後の康成の心境を語った作品である。
第5章 戦後の出発
戦後文学の出発「再会」
昭和21年の『世界』2月号に、康成は「再会」という注目すべき作品を掲載した。つづいて『文藝春秋』6月号に、「過去」という題名で続編が発表され、同誌のつづく7月号に、ふたたび「過去」という同名の作品が発表された。
この3編は昭和28年2月、三笠書房から刊行された『再婚者』に「再会」と命名されて、収録された。ただし、このとき、前後の2編が採録されて、6月号発表の第2回は削除された。以後、この『再婚者』の本文が諸全集に定本として収録されている。本稿でも、この本文をもとに考察を加えることとする。
「再会」は、このように書き出される。
敗戦後の厚木祐三の生活は富士子との再会から始まりさうだ。あるひは、富士子と再会したと言ふよりも、祐三自身と再会したと言ふべきかもしれなかつた。
祐三の富士子との再会を、康成は冒頭から、祐三は「自身と再会した」と述べている。ここに、作品の主題は凝縮されている。
「ああ、生きてゐたと、祐三は富士子を見て驚きに打たれた。それは歓びも悲しみもまじへない単純な驚きだつた」と康成は書く。
「祐三は過去に出会つたのだ」「眼前で過去が現在へつながつたことに祐三は驚いたのだつた」とも書いている。
今の祐三の場合の過去と現在との間には、戦争があつた。
祐三の迂闊な驚きも無論戦争のせゐにちがひなかつた。
戦争に埋没してゐたものが復活した驚愕とも言へるだらう。あの殺戮と破壊の怒濤が、しかし微小な男女間の瑣事を消滅し得なかつたのだ。
祐三と富士子は、戦争前に男女の仲であった。それが戦争の間におそらく自然に別れ、それぞれの生活に埋没して、相手のことをほとんど忘れていたのである。
それほどに戦争の暴威はすさまじかった。「あの殺戮と破壊の怒濤」の数年間が、男女の仲を裂いたどころか、相手を忘れるほどまでに、それを「過去」のこととしていたのだ。
それが一瞬に、眼前で「過去が現在へつながつた」。そのことに祐三は驚く。
ふたりが再会したのは、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の境内である。降伏からまだ2ヶ月余りの、「多くの人々は国家と個人の過去と現在と未来とが解体して錯乱する渦巻に溺れてゐるやうな時」である。
実朝(さねとも)の文事から発想されたらしい「文墨祭」が催されて、進駐軍も招待されている。
人々はまだ空襲下の、戦災者の服装から脱していない。そこへ、振り袖の令嬢の一群が現れて、祐三は眼の覚める思いをしたところだった。木立の中に茶席をもうけて、アメリカ兵を接待するための少女たちである。
やがて社の舞殿で踊りが始まる。
浦安の舞、獅子舞、静(しづか)の舞、元禄花見踊――亡び去った日本の姿が笛の音のように祐三の胸を流れた。令嬢たちの振り袖が「泥沼の花」のように見えた。
その舞姿を目で追っている祐三の視線が、ふと富士子の顔を認めたのだ。
おやと驚くと祐三はかへつて瞬間ぼんやりした。こいつを見てゐるとつまらないことになるぞと内心警戒しながら、しかも相手の富士子が生きた人間とも自分に害を及ぼす物とも感じられなくて、直ぐには目をそむけようとしなかつた。
無意識のうちに女との再会を警戒する祐三は、もはや人生の辛酸をある程度経験している中年の男である。40を1つ2つ過ぎた年齢だ。しかも祐三は心の隙に、「なにか肉体的な温かさ、自分の一部に出会つたやうな親しさが、生き生きとこみあげて」きて、それが警戒心を上回るのである。
祐三は失心しさうな人を呼びさますやうな気組で、いきなり富士子の背に手をおいた。
「ああ。」
富士子はゆつくり倒れかかつて来さうに見えて、しやんと立つと、體(からだ)のびりびり顫(ふる)へるのが、祐三の腕に伝はつた。
なまなましい再会である。この再会の危険と魅惑を、康成は次のように書く。
この女と祐三が再会すれば道徳上の問題や実生活の面倒がむし返されるはずで、言はば好んで腐れ縁につかまるのだから、さつきも警戒心がひらめいたのだが、ひよつと溝を飛び越えるやうに、富士子を拾つてしまつた。
当然ながら、祐三には妻と家族があった。富士子はひとり身であった。再会すれば「道徳上の問題」「実生活の面倒」がむし返されることになる「腐れ縁」である。それを無意識のうちに認めながら、祐三は富士子を拾ってしまった。
ふたりは、戦争の間の消息を、お互いに探り合う。どちらも家を焼かれ、あるいは焼け出されていた。
富士子は祐三が「お変りにならないわねえ」と言う。これに対して祐三は、富士子が小太りだったのがげっそり瘦せて、切れの長い目ばかりが不自然に光るのを見る。以前気になったほどの年齢差が感じられなくなっている。
「祐三が富士子と別れ得たのは、幾年かの悪縁から放たれたのは、戦争の暴力のせゐだつたらう。微小な男女間の瑣事にからまる良心などは激流に棄ててゐられたのだらう。」
その激流を経たおかげで、富士子は祐三を非難したり恨んだりしたりすることを忘れているようであった。
しかし富士子は、祐三に早速、難題をふりかける。
「ねえ、お願ひ、聞いて下さらなければいやよ。」
「…………。」
「ねえ、私を養つて頂戴。」
「え、養ふつて……?」
「ほんの、ほんのちよつとの間でいいの。御迷惑かけないでおとなしくしてるわ。」
祐三はついいやな顔をして富士子を見た。
「今どうして暮してるの?」
「食べられないことはないのよ。さういふんぢやないの。私生活をし直したいの。あなたのところから出発させてほしいの。」
「出発ぢやなくて、逆戻りぢやないか。」
「逆戻りぢやないわ。出発の気合をかけていただくだけよ。きつと私ひとりで直ぐ出てゆくわ。―このままぢやだめ、このままぢや私だめよ。ね、ちよつとだけつかまらせて頂戴。」
どこまで本音か、祐三は聞きわけかねた。巧妙な罠のようにも感じた。
―ここで舞台はがらりと転換する。
群衆の拍手の中を、進駐軍の軍楽隊が入場してくる。20人ばかりだ。そして彼らは舞台に上がると、無造作に吹奏楽を吹き鳴らした。
その吹奏楽器の第一音がいっせいに鳴った瞬間、祐三はあっと胸を起こす。目が覚めたように頭の雲が拭われた。
なんという明るい国だろうと、祐三はいまさらながら、アメリカという国に驚く。
」」
「再会」の意義
「再会」の後半、祐三と富士子は、何ということもなく電車に乗って東京へ出る。
横浜を過ぎるころから、夕べの色が沈んできた。
」
長いこと鼻についていた焦げくさい臭気はさすがにもうなくなったが、いつまでも埃を立てているような焼け跡だ。
祐三がいつもは降りる品川も通りすぎてしまう。かつて、ふたりは新橋で降りて銀座へ出たものだったが、その新橋も通りすぎてしまう。
富士子は、いま自分の住んでいる土地を明かさない。祐三も、友人の六畳間に置いてもらっている、というばかりだ。再会したばかりなのに、祐三の胸には、今度もうまく富士子を振り落とすことができるだろうかという狡猾な打算もはたらく。
東京駅のホオムで、祐三は通勤の折々、しばしば目にした餓死に近い姿の復員兵の群れを思い出す。
この戦争のやうに多くの兵員を遠隔の外地に置き去りして後退し、そのまま見捨てて降伏した敗戦は、歴史に例があるまい。
と思う。これは、祐三の心に託して、作者の怒りが噴出した言葉であろう。日本軍の行った戦争に対する康成の評価として重要だ。
東京駅のホオムを降りて、丸ビルの横に出るが、それまでにふたりは、帰国の汽車を待つ朝鮮人の群れや、翌日の切符の売り出しを待つ日本人の疲れた行列も見る。
丸ビルの前へ来ると、16,7の汚い娘がいて、アメリカ兵が通りかかるたび、取りすがるように呼びかける光景も見た。乞食か浮浪児か気ちがいか、わからぬが、富士子は眉をひそめる。
――夜になって、銀座のあたりから、人通りの稀な焼け跡の暗がりを、ふたりは根比べのように歩く。
富士子がふと告白する。
こんな晩に、上野駅に行列していたとき、「あらと気がついて、うしろへ手をやると濡れてるの」と息をつめた口調で、「うしろの人に、着物をよごされたのよ。」「……私、ぞうつと顫へて、列を離れちやつたの。男の人つて気味が悪いのねえ。あんな時によくまあ……。おお、こはい。」
敗戦後の錯綜した空気の中でも、痴漢めいた行為をする男はいたのだ。
――焼け跡にも、ぽつぽつ、建ちかけのバラックがあった。夜が深まってきたころ、ふたりは、瓦礫の上で結ばれる。
温かく柔かいものはなんとも言へぬ親しさで、あまりに素直な安息に似て、むしろ神秘な驚きにしびれるやうでもあつた。
そこには、病後に会う女の甘い恢復があった。
手にふれる富士子の肩は瘦せ出た骨だし、胸にもたれかかつて来るのは深い疲労の重みなのに、祐三は異性そのものとの再会と感じるのだつた。
生き生きと復活して来るものがあつた。
祐三は瓦礫の上からバラツクの方へ降りた。
窓の戸も床もまだないらしく、傍によると薄い板の踏み破れる音がした。
「再会」は、このような文章で閉じられる。
地下水のような人間の内面
この作品の主題は、いうまでもなく、「生き生きと復活して来るものがあつた」という一行に凝縮されている。
祐三は自分自身に再会したのであり、過去に再会したのだ。
あの殺戮と破壊の怒濤のなかで完全に抹消されたはずの男女間の瑣事がよみがえったことへの新鮮な驚き、それがこの作品の眼目である。建ちかけのバラックの散見する焼け跡の瓦礫の上で結ばれたとき、祐三のうちに「生き生きと復活して来るものがあつた」というのは、あの未曾有の戦争をくぐり抜けたあとの、虚脱と活気が奇妙に交錯していた一時期をありありと読者に追体験させる。同時に、戦争の怒濤でさえも吹き消すことのできぬ、人間の心の不可思議さを、あらためて読者に開示しているのである。
この発見――つまり、いかなる外圧をもってしても搔き消すことのできぬ人間の深層心理の無気味な生命力、地下水のように脈々と過去から現在へと流れつづける人間の内面の奥深い部分――。
これを確認したとき、康成は戦後を生き始めたのであり、あえていうと、「再会」を書き終えた瞬間、康成の晩年は始まっていた。
そして「生命の樹」を経て「反橋」(そりはし)「しぐれ」「住吉」の3部作によって、康成はもはや引き返すことの不可能な領域に決定的に踏み込んだ、といえるのである。
もう1つ、この作品で驚かされるのは、敗戦後2ヶ月の、鎌倉と東京の、情景と風俗・世相が、微細に描きこまれていることだ。
鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の境内の情景、鎌倉から東京へ出る電車から見えた景色、そして何よりも、東京駅のホオムから構内、そこから茫漠とひろがる焼け跡の情景と風俗・世相が、みごとに活写されている。
康成が「私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものもあるひは信じない」と宣言するのは、翌22年10月の「哀愁」においてであるが、それは決して、戦後の世相、風俗から目を逸(そ)らす、という意味ではなかった。それどころか、康成は恐ろしいばかりの冷徹な眼によって、戦前から様変わりした戦後の日本の現実を凝視し、その本質を洞察しているのである。
ただ、康成は、戦後の現実をとらえても、それに同調し、同化されるのではなかった。戦時下から戦後にかけて、みずからの内に確乎として定めた、「日本古来の悲しみ」のほかのことは一行も書かぬ、という決意が揺らぐことはなかった。
富士子との再会が祐三にもたらしたものは、「自身の発見」であり、「過去への再会」であり、男女の仲のもつ、「温かく柔かいもの」であり、「素直な安息」、「神秘な驚き」であり、しびれるような「病後に会ふ女の甘い恢復」であった。
男と女の仲こそ、日本古来の人々が最も大切にし、また溺れてきた「あはれ」である。
「再会」は、康成が戦後に最初に描いた男女の物語であり、それは「住吉」連作を経て「山の音」「千羽鶴」へと飛躍してゆく、男女の物語の嚆矢(こうし)だったのである。
以下つづく
川端康成と鹿屋特攻基地(2)
拙著「魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―」(勉誠出版、2014年8月30日刊行)第4章「戦時下の川端康成」から
杉山幸照『海の歌声』と川端康成
李聖傑に、康成の2度にわたる満州行と1ヶ月の鹿屋体験を検証した詳細な論考がある。
「川端康成における戦争体験について―『敗戦のころ』を手がかりに―」であるが、戦時下の「彼の身の処し方を検討」、というより厳しく論断した労作である。
ここでは、鹿屋体験の部分のみ、取り上げたい。
海軍報道班員として康成と同行した新田潤、山岡荘八の回想ももちろん言及されているが、特に注目されるのは、特攻兵の生き残りである杉山幸照の『海の歌声―神風特別攻撃隊昭和隊への挽歌―』を多く引用して、戦後の康成の沈黙を物足りなく思った杉山の内面を推測している点であろう。
わたくしも李聖傑に教えられて杉山幸照の書を入手し、検証してみた。
この書の巻末に記された著者紹介によると、杉山は大正11年3月28日、台湾に生まれ、中央大学法学部を卒業。昭和18年12月、学徒出陣した。第14 期飛行予備学生、海軍少尉。
終戦まぢかい昭和20年3月に、特攻昭和隊として鹿屋基地に配属されたが、同年6月、帰隊命令で谷部(やたべ)航空隊へ帰り、終戦を迎えた、とある。
もっとも、『川端康成全集』第35巻の年譜によると、杉山と同じ飛行機で康成が鎌倉に帰宅したのは5月24日、とあるから、「同年6月」は「同年5月末」と訂正すべきであろう。
が、それは、ほんの数日の誤差である。
杉山によると、特攻機に搭乗する大半は、「弱冠20歳前後の、父親のスネをかじって学問をしていた予備学生と、母親の甘い乳を、吸い終わったばかりの予科練生」なのだ。
さて、杉山のこの書には、命令によって特攻機に乗り、散華(さんげ)していった部下や上官、仲間たちへの愛情・哀憐と、「机上の空論」によって彼らを無謀な死へ追いやった「参謀たち」に対する怒りにあふれている。一人でも多くの、大空に散っていった仲間たちの姿を残したいという痛恨の思いがこもった、美しい文章の集積である。
この書の第4章「不滅への祈り」の第一に、「『寂』語らず」というタイトルで、康成との交流と、届かぬ無念の思いが語られている。
杉山は5月末のある日突然、本隊よりの命令で谷田部空(茨城県筑波郡にあった谷田部航空隊)に帰隊することになった。
自分一人だけ帰隊することに具合の悪い思いをしている杉山は、夕食のとき、戦友と同じ卓につく気がせず、「ちょうど顔なじみになった報道班員の川端康成さんがまずそうに食事しているところ」に近づき、「川端さん、いろいろとお世話になりました……。命令で明朝一時帰隊します。またすぐやってきます。お達者で……」と、こっそり小声で伝えた。すると、彼は突然箸をふるわせて私をじっと見すえた。皺の多い、瘦せた顔を心なしか赤くし、顔に似合わぬ大きな目玉をむいて、「自分も急用があり、身体の具合も悪いので、ちょっと帰りたいのだが、飛行機の都合がつかないので困っている」と言う。
零戦(ぜろせん)の数も少ないため、ダグラス(米軍から捕獲した戦闘機)で帰ることが決まっていた杉山は、「それでは一緒にどうですか?」と言った。
すると康成は食事を途中でやめて司令部へ交渉に出かけた。
その夜、杉山がどこに寝ようかと考えながら特攻隊員たちと盃を交わしていると、康成が駆け込んできた。
外へ連れ出すと、「ご一緒できます。よろしく頼みます」と康成は言った。
翌朝、鹿屋基地を飛び立ったダグラスは、燃料補給のため、いったん鈴鹿空(航空隊)へ降りた。士官食堂で食事をすることになったが、「瘦せて小さい彼は、飛行機で酔ったのか、顔面蒼白でトボトボとやっと歩く態であり、『こりゃ、いかん』と思」うほどであった。「やっと坐っ__________ているようで私は不安を感じた」。
しかし、出されたライスカレーは、きれいにたいらげ、だいぶ元気をとりもどして雑談になった。
「特攻の非人間性」については一段と声を落として語り合った。
私が予備学生であるのを知って安心して喋るのである。話しているうちに、私を民間人と錯覚して、熱がこもってくるのだった。
鹿屋基地に1ヶ月滞在して、連日のように特攻機の出撃を見送り、心身ともに憔悴した康成の様子がよくわかる。
また、予備学生と親しく本音の会話を交わしたこともわかる。
このように一緒に帰還した二人であったが、戦後になると状況は変わった。
彼と私は、それ以来二度と会うことはなかった。戦争が終わると面会すらできぬ、手の届かない遠いところの人になってしまい、ノーベル賞など貰ってますます有名になり、国際的な作家になってしまった。すっかり会う機会は閉ざされてしまったのである。
いまでもライスカレーを食べるとき、その上にのっていたあざやかな沢庵のきれはしと川端さんを想い出すのである。
かつての2、3の報道班員の人たちが戦後、鹿屋特攻基地を舞台に特攻隊の姿を紹介したことがあるが、それはまったく、大まかな観察である。しかし彼ら特攻隊のことを「信じられない気持」と評して彼らの霊をなぐさめ、ほめたたえてくれた。それだけで私はうれしく秘かに感謝したものである。しかしそれは、うわべの100分の1であり、隊員の心情に関してはなんら摑むところがない。私の読み方が悪いのか、私が身をもって知りすぎていたためか……。
私は川端さんがなにか書くのを長い間待った。きっと書くと思っていた。
そのときは自分の持っているすべての資料を提供して、死んだ戦友のために、りっぱな特攻隊のことを書いて、後世に遺してもらおうと思った。しかし彼は、特攻隊に関してはいっさい黙して語らない。「寂」である。(中略)
川端さんの文章を以ってすれば、どんなに人に感動をあたえることだろうと、幾度か相談しようと考えたものだが、あまりにも彼は、私には遠いところの人である。私がこの「海の歌声」を書くのもまた宿命なのかも知れないと思っている。
先引の李聖傑が書いているように、この文章にある「2、3の報道班員の人たち」とは、新田潤、山岡荘八であろう。それらの文章は杉山を「秘かに感謝」させはしたが、隊員の心情に関しては「うわべの百分の一」しか述べていない、と杉山は思った。
それだけに杉山は、川端康成に期待したのである。
しかし戦後の康成は、杉山には「面会すらできぬ、手の届かぬ人」になってしまった。
ノーベル賞を受賞して以後は、いっそう遠い存在である。
杉山には、婦人向けの雑誌である『婦人文庫』に掲載された「生命の樹」(いのちのき)が目に入らなかったのであろうか。もっとも、「生命の樹」を読んだとしても、杉山が満足したかどうかは、わからないが……。
杉山はまた、戦後10年の「敗戦のころ」(『新潮』昭和30年(1955・8・1)も、読まなかったのであろうか。
杉山がたった1度でも、康成に手紙を書いていたならば、と惜しまれる。未知の無名の読者からの手紙をもおろそかにしなかった康成である。杉山から手紙が来たら、無視することはなかったであろう。杉山の刺激によって、新しい作品が生み出された可能性もあった。
しかし、直接には「生命の樹」一作しか書かなかったとしても、鹿屋基地の体験が康成に深い衝撃を与え、敗戦後の底深い失意とかなしみの心情につながったことに違いはないのである。
付記
鹿屋基地については、多く、鹿屋市立図書館よりお借りした『鹿屋市史』下巻(鹿屋市、1995・3・31)、米永(よねなが)代一郎『半世紀の鹿屋航空隊 戦前編』(南九州新聞社、1991・9・13)、『鹿屋航空基地史料館10周年記念 魂(こころ)のさけび』(鹿屋航空基地史料館連絡協議会、2003・12・22)に拠った。
また、鹿屋航空基地史料館の久保田広美氏より多くのご教示をたまわり、資料を提供していただいた。
以下つづく
拙著「魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―」(勉誠出版、2014年8月30日刊行)第4章「戦時下の川端康成」から
杉山幸照『海の歌声』と川端康成
李聖傑に、康成の2度にわたる満州行と1ヶ月の鹿屋体験を検証した詳細な論考がある。
「川端康成における戦争体験について―『敗戦のころ』を手がかりに―」であるが、戦時下の「彼の身の処し方を検討」、というより厳しく論断した労作である。
ここでは、鹿屋体験の部分のみ、取り上げたい。
海軍報道班員として康成と同行した新田潤、山岡荘八の回想ももちろん言及されているが、特に注目されるのは、特攻兵の生き残りである杉山幸照の『海の歌声―神風特別攻撃隊昭和隊への挽歌―』を多く引用して、戦後の康成の沈黙を物足りなく思った杉山の内面を推測している点であろう。
わたくしも李聖傑に教えられて杉山幸照の書を入手し、検証してみた。
この書の巻末に記された著者紹介によると、杉山は大正11年3月28日、台湾に生まれ、中央大学法学部を卒業。昭和18年12月、学徒出陣した。第14 期飛行予備学生、海軍少尉。
終戦まぢかい昭和20年3月に、特攻昭和隊として鹿屋基地に配属されたが、同年6月、帰隊命令で谷部(やたべ)航空隊へ帰り、終戦を迎えた、とある。
もっとも、『川端康成全集』第35巻の年譜によると、杉山と同じ飛行機で康成が鎌倉に帰宅したのは5月24日、とあるから、「同年6月」は「同年5月末」と訂正すべきであろう。
が、それは、ほんの数日の誤差である。
杉山によると、特攻機に搭乗する大半は、「弱冠20歳前後の、父親のスネをかじって学問をしていた予備学生と、母親の甘い乳を、吸い終わったばかりの予科練生」なのだ。
さて、杉山のこの書には、命令によって特攻機に乗り、散華(さんげ)していった部下や上官、仲間たちへの愛情・哀憐と、「机上の空論」によって彼らを無謀な死へ追いやった「参謀たち」に対する怒りにあふれている。一人でも多くの、大空に散っていった仲間たちの姿を残したいという痛恨の思いがこもった、美しい文章の集積である。
この書の第4章「不滅への祈り」の第一に、「『寂』語らず」というタイトルで、康成との交流と、届かぬ無念の思いが語られている。
杉山は5月末のある日突然、本隊よりの命令で谷田部空(茨城県筑波郡にあった谷田部航空隊)に帰隊することになった。
自分一人だけ帰隊することに具合の悪い思いをしている杉山は、夕食のとき、戦友と同じ卓につく気がせず、「ちょうど顔なじみになった報道班員の川端康成さんがまずそうに食事しているところ」に近づき、「川端さん、いろいろとお世話になりました……。命令で明朝一時帰隊します。またすぐやってきます。お達者で……」と、こっそり小声で伝えた。すると、彼は突然箸をふるわせて私をじっと見すえた。皺の多い、瘦せた顔を心なしか赤くし、顔に似合わぬ大きな目玉をむいて、「自分も急用があり、身体の具合も悪いので、ちょっと帰りたいのだが、飛行機の都合がつかないので困っている」と言う。
零戦(ぜろせん)の数も少ないため、ダグラス(米軍から捕獲した戦闘機)で帰ることが決まっていた杉山は、「それでは一緒にどうですか?」と言った。
すると康成は食事を途中でやめて司令部へ交渉に出かけた。
その夜、杉山がどこに寝ようかと考えながら特攻隊員たちと盃を交わしていると、康成が駆け込んできた。
外へ連れ出すと、「ご一緒できます。よろしく頼みます」と康成は言った。
翌朝、鹿屋基地を飛び立ったダグラスは、燃料補給のため、いったん鈴鹿空(航空隊)へ降りた。士官食堂で食事をすることになったが、「瘦せて小さい彼は、飛行機で酔ったのか、顔面蒼白でトボトボとやっと歩く態であり、『こりゃ、いかん』と思」うほどであった。「やっと坐っ__________ているようで私は不安を感じた」。
しかし、出されたライスカレーは、きれいにたいらげ、だいぶ元気をとりもどして雑談になった。
「特攻の非人間性」については一段と声を落として語り合った。
私が予備学生であるのを知って安心して喋るのである。話しているうちに、私を民間人と錯覚して、熱がこもってくるのだった。
鹿屋基地に1ヶ月滞在して、連日のように特攻機の出撃を見送り、心身ともに憔悴した康成の様子がよくわかる。
また、予備学生と親しく本音の会話を交わしたこともわかる。
このように一緒に帰還した二人であったが、戦後になると状況は変わった。
彼と私は、それ以来二度と会うことはなかった。戦争が終わると面会すらできぬ、手の届かない遠いところの人になってしまい、ノーベル賞など貰ってますます有名になり、国際的な作家になってしまった。すっかり会う機会は閉ざされてしまったのである。
いまでもライスカレーを食べるとき、その上にのっていたあざやかな沢庵のきれはしと川端さんを想い出すのである。
かつての2、3の報道班員の人たちが戦後、鹿屋特攻基地を舞台に特攻隊の姿を紹介したことがあるが、それはまったく、大まかな観察である。しかし彼ら特攻隊のことを「信じられない気持」と評して彼らの霊をなぐさめ、ほめたたえてくれた。それだけで私はうれしく秘かに感謝したものである。しかしそれは、うわべの100分の1であり、隊員の心情に関してはなんら摑むところがない。私の読み方が悪いのか、私が身をもって知りすぎていたためか……。
私は川端さんがなにか書くのを長い間待った。きっと書くと思っていた。
そのときは自分の持っているすべての資料を提供して、死んだ戦友のために、りっぱな特攻隊のことを書いて、後世に遺してもらおうと思った。しかし彼は、特攻隊に関してはいっさい黙して語らない。「寂」である。(中略)
川端さんの文章を以ってすれば、どんなに人に感動をあたえることだろうと、幾度か相談しようと考えたものだが、あまりにも彼は、私には遠いところの人である。私がこの「海の歌声」を書くのもまた宿命なのかも知れないと思っている。
先引の李聖傑が書いているように、この文章にある「2、3の報道班員の人たち」とは、新田潤、山岡荘八であろう。それらの文章は杉山を「秘かに感謝」させはしたが、隊員の心情に関しては「うわべの百分の一」しか述べていない、と杉山は思った。
それだけに杉山は、川端康成に期待したのである。
しかし戦後の康成は、杉山には「面会すらできぬ、手の届かぬ人」になってしまった。
ノーベル賞を受賞して以後は、いっそう遠い存在である。
杉山には、婦人向けの雑誌である『婦人文庫』に掲載された「生命の樹」(いのちのき)が目に入らなかったのであろうか。もっとも、「生命の樹」を読んだとしても、杉山が満足したかどうかは、わからないが……。
杉山はまた、戦後10年の「敗戦のころ」(『新潮』昭和30年(1955・8・1)も、読まなかったのであろうか。
杉山がたった1度でも、康成に手紙を書いていたならば、と惜しまれる。未知の無名の読者からの手紙をもおろそかにしなかった康成である。杉山から手紙が来たら、無視することはなかったであろう。杉山の刺激によって、新しい作品が生み出された可能性もあった。
しかし、直接には「生命の樹」一作しか書かなかったとしても、鹿屋基地の体験が康成に深い衝撃を与え、敗戦後の底深い失意とかなしみの心情につながったことに違いはないのである。
付記
鹿屋基地については、多く、鹿屋市立図書館よりお借りした『鹿屋市史』下巻(鹿屋市、1995・3・31)、米永(よねなが)代一郎『半世紀の鹿屋航空隊 戦前編』(南九州新聞社、1991・9・13)、『鹿屋航空基地史料館10周年記念 魂(こころ)のさけび』(鹿屋航空基地史料館連絡協議会、2003・12・22)に拠った。
また、鹿屋航空基地史料館の久保田広美氏より多くのご教示をたまわり、資料を提供していただいた。
以下つづく