「Shall We ダンス?」の周防正行監督、草刈民代、役所広司の3人が再び顔を合わせた愛と生命を巡るドラマ。強い絆で結ばれた患者から最期を託された女医の決断が、やがて殺人罪を問う刑事事件に発展する。原作は現役弁護士でもある朔立木の同名小説。「桜田門外ノ変」の大沢たかお、「バトルシップ」の浅野忠信が共演。

あらすじ:折井綾乃(草刈民代)は、患者からの評判も良い呼吸器内科のエリート医師。しかし、長く不倫関係にあった同僚の医師・高井(浅野忠信)から別れを告げられ、失意のあまり自殺未遂騒動を引き起こしてしまう。そんな彼女の心の傷を癒したのは、重度の喘息で入退院を繰り返していた患者、江木秦三(役所広司)の優しさだった。
互いの心の内を語り合い、医師と患者の関係を越えた深い絆で結ばれてゆく綾乃と江木。やがて、病状の悪化によって自分の死期が迫っていることを自覚した江木は綾乃に懇願する。“信頼できるのは先生だけだ。最期のときは早く楽にしてほしい”と……。
2か月後、江木が心肺停止状態に陥り、綾乃は決断を迫られる。約束通り治療を中止するのか、命ある限り延命の努力を続けるのか……。“愛”と“医療”の狭間に揺れる綾乃は、ついに重大な決断を下す。
3年後、その決断が刑事事件に発展。綾乃を殺人罪で厳しく追及する検察官の塚原(大沢たかお)。綾乃も強い意志を持って塚原に向き合うが……。(作品資料より)

<感想>「それでもボクはやってない」で映画賞を総なめした2007年。妻であるバレリーナ、草刈民代のラスト・ダンスを追ったバレエ映画「ダンシング・チャップリン」を挟んで、5年ぶりの劇映画が完成した。患者から「最期の時は、長引かせないでほしい」と最期を託された女医が殺人の罪で告訴される。
この映画は、死をめぐる善意が巻き起こした悲劇である。極限まで無駄なものがそぎ落とされた周防映画の一つの到達点ともいうべき秀作です。冒頭で、折井綾乃が検察庁の待合室で予定時間を超えて待たされている間に、回想で彼女と患者の江木秦三の関係と彼の死までが描かれ、それは担当医綾乃と喘息患者江木の固い絆が育まれた長きに渡る時間と、その女医と検察官の息詰まる攻防を鮮烈に対比させながら、ラストの遠ざかる女医の姿をもって見る者に判断を問いかける。
観客は否応なく綾乃の視点に立たされ、検察官、塚原の強い口調の言葉に圧迫感を感じるはめになる。見ていて患者と女医との信頼関係で、患者が最も心を許せる相手である医者に最期を託し、その意志に添おうとした医者が殺人罪を科せられる。まるで「人殺し」とあなたは「殺人」を犯したと決めつける台詞の責めぎ合いに、何と悪魔的手法に満ちた映画だろうと感じた。

一見して患者と医者との人間愛溢れるラブストリーにも見えるのだが、患者の最期を看取るということは、看護にあたる家族の心の葛藤、酷く苦しむ患者に早く楽にしてあげたいと思う願いは、「尊厳死」を望む家族に対しての医療行為が適切かどうか、それが問いただせられる内容かというと、そうでもない。
患者が救急で運ばれてから、蘇生による医療で意識不明のままの状態で入院。家族はあまり見舞いには来なかった。それで、綾乃が元気なころの江木との約束を思い出し、延命治療の管を外すことを家族に承諾させる。これがまた見ていて壮絶なシーンで、人間は意識がなく植物状態になっても、生きるという力が湧き、ガァ~という叫び声ともとれる呼吸をして暴れるシーンを見て、気管に通している管を外すのはその命綱ともいえる管なので、いくらお願いされたからといってもそうすることはいかがなものかと思った。確かに入院が長引くと医療費もかさみますが、そういってもまだ生きている人間をこうまでして死なせるのは、やはり医者の個人的見解だともとれる。

周防正行監督と主人公に奥さまである草刈民代さん、この映画を鑑賞して、亡くなった伊丹十三監督と奥さまの宮本信子さんの「お葬式」の映画を思い出します。劇中に夫の浮気相手がやってきて、林の中で関係を持つシーンなど、葬式という厳粛な暗くなる題材をユーモアを交えて撮った秀作です。本作もそれと似ているような、劇中に主人公の同僚との恋愛事情を描き、病院内での草刈民代さんのベットシーンまで見せつける。

朔立木の「命の終わりを決める時」に収録された同名小説をもとに、構成は原作と同じで台詞までがほぼそのままである。舞台調の長台詞を違和感なく聞かせ、かつ人物の背景、枝葉の描写を映画は削いでいるだけに、俳優さんたちの演技や、存在感を引きだして人物像に奥行きを与える演出力が無ければ成り立たなかったでしょう。
もしこの映画が「安楽死」というものの是非を問うというテーマであるとするならば、劇中の終わりに裁判のシーンを描く必要があったはず。尊厳死の法制が囁かれている現状ではなおさらである。しかし、この映画が検察権力というものの理不尽さを訴えているのだとすれば、見ている側としては少しほっとするに違いない。
2012年劇場鑑賞作品・・・114
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あらすじ:折井綾乃(草刈民代)は、患者からの評判も良い呼吸器内科のエリート医師。しかし、長く不倫関係にあった同僚の医師・高井(浅野忠信)から別れを告げられ、失意のあまり自殺未遂騒動を引き起こしてしまう。そんな彼女の心の傷を癒したのは、重度の喘息で入退院を繰り返していた患者、江木秦三(役所広司)の優しさだった。
互いの心の内を語り合い、医師と患者の関係を越えた深い絆で結ばれてゆく綾乃と江木。やがて、病状の悪化によって自分の死期が迫っていることを自覚した江木は綾乃に懇願する。“信頼できるのは先生だけだ。最期のときは早く楽にしてほしい”と……。
2か月後、江木が心肺停止状態に陥り、綾乃は決断を迫られる。約束通り治療を中止するのか、命ある限り延命の努力を続けるのか……。“愛”と“医療”の狭間に揺れる綾乃は、ついに重大な決断を下す。
3年後、その決断が刑事事件に発展。綾乃を殺人罪で厳しく追及する検察官の塚原(大沢たかお)。綾乃も強い意志を持って塚原に向き合うが……。(作品資料より)

<感想>「それでもボクはやってない」で映画賞を総なめした2007年。妻であるバレリーナ、草刈民代のラスト・ダンスを追ったバレエ映画「ダンシング・チャップリン」を挟んで、5年ぶりの劇映画が完成した。患者から「最期の時は、長引かせないでほしい」と最期を託された女医が殺人の罪で告訴される。
この映画は、死をめぐる善意が巻き起こした悲劇である。極限まで無駄なものがそぎ落とされた周防映画の一つの到達点ともいうべき秀作です。冒頭で、折井綾乃が検察庁の待合室で予定時間を超えて待たされている間に、回想で彼女と患者の江木秦三の関係と彼の死までが描かれ、それは担当医綾乃と喘息患者江木の固い絆が育まれた長きに渡る時間と、その女医と検察官の息詰まる攻防を鮮烈に対比させながら、ラストの遠ざかる女医の姿をもって見る者に判断を問いかける。
観客は否応なく綾乃の視点に立たされ、検察官、塚原の強い口調の言葉に圧迫感を感じるはめになる。見ていて患者と女医との信頼関係で、患者が最も心を許せる相手である医者に最期を託し、その意志に添おうとした医者が殺人罪を科せられる。まるで「人殺し」とあなたは「殺人」を犯したと決めつける台詞の責めぎ合いに、何と悪魔的手法に満ちた映画だろうと感じた。

一見して患者と医者との人間愛溢れるラブストリーにも見えるのだが、患者の最期を看取るということは、看護にあたる家族の心の葛藤、酷く苦しむ患者に早く楽にしてあげたいと思う願いは、「尊厳死」を望む家族に対しての医療行為が適切かどうか、それが問いただせられる内容かというと、そうでもない。
患者が救急で運ばれてから、蘇生による医療で意識不明のままの状態で入院。家族はあまり見舞いには来なかった。それで、綾乃が元気なころの江木との約束を思い出し、延命治療の管を外すことを家族に承諾させる。これがまた見ていて壮絶なシーンで、人間は意識がなく植物状態になっても、生きるという力が湧き、ガァ~という叫び声ともとれる呼吸をして暴れるシーンを見て、気管に通している管を外すのはその命綱ともいえる管なので、いくらお願いされたからといってもそうすることはいかがなものかと思った。確かに入院が長引くと医療費もかさみますが、そういってもまだ生きている人間をこうまでして死なせるのは、やはり医者の個人的見解だともとれる。

周防正行監督と主人公に奥さまである草刈民代さん、この映画を鑑賞して、亡くなった伊丹十三監督と奥さまの宮本信子さんの「お葬式」の映画を思い出します。劇中に夫の浮気相手がやってきて、林の中で関係を持つシーンなど、葬式という厳粛な暗くなる題材をユーモアを交えて撮った秀作です。本作もそれと似ているような、劇中に主人公の同僚との恋愛事情を描き、病院内での草刈民代さんのベットシーンまで見せつける。

朔立木の「命の終わりを決める時」に収録された同名小説をもとに、構成は原作と同じで台詞までがほぼそのままである。舞台調の長台詞を違和感なく聞かせ、かつ人物の背景、枝葉の描写を映画は削いでいるだけに、俳優さんたちの演技や、存在感を引きだして人物像に奥行きを与える演出力が無ければ成り立たなかったでしょう。
もしこの映画が「安楽死」というものの是非を問うというテーマであるとするならば、劇中の終わりに裁判のシーンを描く必要があったはず。尊厳死の法制が囁かれている現状ではなおさらである。しかし、この映画が検察権力というものの理不尽さを訴えているのだとすれば、見ている側としては少しほっとするに違いない。
2012年劇場鑑賞作品・・・114
