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「燕子花図屏風」その3 我は橋なり

幾度となく根津美術館を訪れ、「燕子花図屏風」を眺めるうちに、私にはある思いがこみ上げてきました。それは一見華麗に見える「燕子花図屏風」の中に、何やら寂しげな感覚、言い換えるならば、仏教的な無常観とでもいうのでしょうか。そんな思いを持ったのは私だけなのでしょうか。それに何故、光琳はあえて橋を描かなかったのでしょうか・・・


■八橋

光琳は「伊勢物語八橋の段」を題材にしたと思われる「燕子花図」を多数残しています。物語風に燕子花の花をめでる人物を配したものもあれば、「八橋」にはつき物である「板橋」を描いたものもあります。「八橋」のモチーフは絵画だけに留まらず、国立博物館所蔵の国宝「八橋蒔絵螺鈿硯箱」では燕子花は鮑貝を磨いて切り抜いた螺鈿細工で、また板橋は表面をわざと荒らした鉛板を使用して、人が良く通る様子を表現しています。


■「伊勢物語八橋の段」

光琳のこれらの作品のモチーフとなった「伊勢物語、八橋の段」とはどのようなものなのでしょうか。簡単に内容をご紹介しましょう。

二条天皇の后、高子(たかいこ)との道ならぬ恋に破れ、都を追われ東国へ下る在原業平は三河の国八橋に来た時、咲き誇る杜若の花を見て後世に残る有名な歌を詠みました。『からごろも  きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ』というのが有名な「伊勢物語、八橋の段」です。


■能楽「杜若」と無常観

光琳は若年の頃から能楽に親しみ、成人する頃には能の演者としては相当の腕前であったようです。「雁金屋」は禁裏出入りの呉服商でしたので、公家達との交流もあり、光琳は高位の公家衆の前でその腕前を披露していたと伝わっています。光琳が好んで書いた燕子花図は彼の趣味であった能楽への思いが強く込められているようです。能楽には世阿弥作とされる「杜若」(かきつばた)という演目があります。この演目は「伊勢物語、八橋の段」をモチーフとして作られたものです。

諸国を旅する僧が三河の国、八橋に差し掛かった時、僧の前に一人の里の女が現れます。女は粗末な庵に僧を案内するやいなや変身し、眼にも鮮やかな美しい着物に男物の冠をかぶって現れます。実は、里の女は杜若の花の精なのです。花の精が被る冠は業平の形見であり、艶やかな衣装は高子のものです。花の精はあるときは業平となり、またあるときは高子となって昔を偲んで舞を舞います。「杜若」はドラマ性よりもファンタジー性が高い作品ですが、その底流には仏教の「草木国土悉皆成仏」の教義が語られています。

おそらく「杜若」は光琳の好きな演目であり、自ら好んで演じていたのかもしれません。また光琳は多くの肉親に先立たれるという悲しい体験をしています。この体験が後の光琳の生き方に大きな影を落としたということを何かの本で読んだことがあります。家督相続後、遊蕩に身を任せ、身代をつぶしてしまったということも、人の世の無常を感じての所業ではないかとも思えるのです。


■「法橋光琳」

「燕子花図屏風」の光琳の署名は「法橋光琳」と墨書されています。「法橋」(ほっきょう)とは僧侶に贈られる位階でしたが、後に「仏師」にも贈られるようになりました。有名な「快慶」もこの位階を授かっています。「法橋」とは「仏への橋渡しをする人」という意味です。

後に、この位階は仏師に限らず、絵画や彫刻などの特に優れた匠に授けられるようになったようです。絵師としては最高の名誉であったようです。元禄14年に光琳は法橋位を受けています。以後尾形光琳は「法橋光琳」と名乗るようになりました。


■「我は橋なり」

光琳は「伊勢物語の八橋の段」を「燕子花図屏風」で表現したのではないと私は考えます。能の優れた演者であった光琳は、能楽「杜若」を強く意識していたのではないでしょうか。おそらく光琳は、簡略・抽象化された能の幽玄の世界を、あえてシンプルな花の図柄のみで表現したかったに違いないと思うのです。

光琳の創作イメージの中で、屏風の前に立つ者は艶やかな衣装で舞う「杜若」の花の精であり、花の精を演じているのは他ならぬ光琳自身であったのかもしれません。観客の視点で見た能楽「杜若」こそが「燕子花図屏風」のテーマに違いないと私は思うのです。

そして屏風に描かれた世界は、「草木国土悉皆成仏」という仏の教えであり、見る者をその世界へと誘うのは、誰あろう「法橋光琳」ではなかったのでしょうか。

「燕子花図屏風」を前にして私がその推論に達した時、『我こそが橋なり・・・』という光琳の声が聞こえたような気がしました。



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