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日本人に謝りたい ② 天皇制は古代からユダヤ民族の理想だった

前回の続きです。


■天皇制は古代からユダヤ民族の理想だった



日本民族のもつ最大の財産は天皇制である。これは全く世界に類例のない偉大なものであり、人類の理想とするものである。

かつてユダヤ人の大思想家でフランス革命に大きな思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で次の如きことをいっている。

「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである。」

ここでいう君民共治というのは、君主が決して国民大衆に対して搾取者の位置にあることなく、したがって国民大衆も君主から搾取されることのない政治体制のことである。

ところがここで驚いたのは、日本人にこの話をするとみな不思議そうな顔でキョトンとする。私は最初その意味が全くわからなかった。しかし、だんだんその意味がわかってきた。日本の天皇制にはそのような搾取者と被搾取者の関係が存在しない、ということを私が知らされたからである。今度は私の方が驚かされた。

日本人のためにちょっと説明しておくと、欧州でも、また最近追放されたイランの王室でも、君主はみな国民大衆に対しては搾取者の地位にあるものである。したがって、亡命するときは財産を持って高飛びする。これが常識である。だが、日本人の知っている限り、このようなことは君主制というものの概念の中には全く存在しないのである。

しかるに、ユダヤ人ルソーの思想は搾取、被搾取の関係にない君主制を求めているわけである。これは確かに理想である。しかし残念ながら、ルソーはそのようなものが実在できるはずもないからやむを得ず、民主主義を選ぶというものである。

私がルソーの時代に生きていたならば、ルソーにこういったであろう。「直ちに書きかけの社会契約論など破り捨て、速やかに東洋の偉大な君主国へ馳せ参ぜよ」と。

ここで非常に重要なことをルソーはいっているのである。今日本で絶対の善玉の神として一切の批判をタブー化されている民主主義というものは、ルソーによれば君民共治の代替物にすぎないということである。私が日本人を最高に尊敬するようになったのも、この天皇制というものの比類ない本質を知ったからである。

日本では戦前、比類なき国体という言葉があった。またポツダム宣言受諾の際にも、この国体の護持という点が一番問題になったのである。これは真に賢明なことであった。

この日本の天皇制はユダヤ思想の理想であったことはルソーの言葉でもわかるが、他にもあるユダヤ人の言った言葉に次のようなものがある。

「わがユダヤの王は、目に見えない護衛だけで守られる。われらの王は威厳にみちてその権力を行使するのは人民の幸福のためにだけであり、決して王自身や王朝一族のためにこれを用うることはない。かくして王への尊敬と威厳はいやが上にも高まり、人民に崇拝され敬愛されるのである。そのため王は神格化されるだろうが、それはひとえに王の権威が人民に安らぎと幸福を保証するコーディネーターの役を果たすからに他ならない。」

断っておくが、これは日本の天皇制の描写ではない。ユダヤ民族の理想の表現なのである。これを見てもおわかりと思うが、ユダヤ人はルソーのいった如く、国民との利害関係をもたない君主が理想なのである。

私が日本の天皇制の本質を知ったときの驚きが如何なるものであったかは、推して知られたい。地球上にユダヤ民族の理想が実在したのである。一般のヨーロッパ人は、とてもこのようなすばらしいものを創ることはできないであろう。我々ユダヤ民族も残念ながら未だ創ってはいないのであるが、しかしそれがすばらしい理想であるということを知っているだけでも日本人に近く、ヨーロッパ人よりも優れていることを日本人に認めていただければ無上の光栄である。

一般にユダヤ人が天皇制の類い稀な点を発見したのは、戦後の天皇とマッカーサーの会見の時であった。かといって、ユダヤ人全部が知ったわけではない。今日本で勝手気ままにペンを走らせている若僧たちはもとより、こんなところまで知っているわけではない。

それではユダヤ人が初めて天皇制の類い稀れな世界に燦たる本質、我々ユダヤ民族の理想である要素を完全に我々に教えてくれた、天皇とマッカーサーの会見の時の様子を述べてみよう。 


■世界に類例のない君民共治

天皇が開口一番、自分の事はどうなってもいいから国民を救ってほしいと切り出した時、マッカーサーは驚天せんばかりであった。この席にルソーが同席していなかったのが真に残念であるが、西洋の君主というものはそれこそマルクスのいう支配者、搾取者である。一般大衆は被支配者、被搾取者に甘んじなければならない。

西洋の君主は、大衆から収奪した莫大な財産をもっている。戦後GHQが天皇の資産16億円と発表した時、日本人はキョトンとしていた。つまり、GHQは西洋の君主並みに日本の天皇も収奪した財産をもっているはずであると考えたから、それを直ちに国民の前にみせつけたわけであろう。ところがこれを聞かされた日本人は一様に、そういう感覚の持主もいるのかと内心驚いたということである。しかし西洋の常識としてはこれは奇異でもなんでもなく、至極当然なことだったのである。

かような西洋の君主は、いざ革命、戦争、政変などのあった場合は、直ちに自己の生命の保証と財産の保全を求めて亡命などを計るのを常とする。したがって、マッカーサーも最初天星が訪問の希望を述べた時、非常にきびしい顔をしていたという。いってみればそれは当然のことであろう。日本の天皇もいよいよ生命の保証と財産の保全のためどこか適当な亡命先の斡旋を懇願に来るのであろうとマッカーサーが考えたのも、無理からぬ話であろう。

しかるに前述の如く、天皇は開口一番、自己の生命や財産の保証ではなく、国民の財産や生命の保証を求めたのであった。国民を質入れして自己の保身を計る西洋の君主とは逆に、自己を質入れして国民の救済を求めたということである。マッカーサーたるもの、すべからくルソーに対して自分が味わった感激を報告すべきであろう。

戦後の占領改革にも拘らず天皇制が存続できたことは、私の最も喜びとするところである。これはひとえに当時GHQを牛耳っていたニューディール派、つまりユダヤ勢力が天皇制に自己の民族の理想を見出したからに他ならないのである。

日本国憲法は後で詳しく述べる如くユダヤ人がユダヤ思想に基づいて作った作品であるが、その憲法の冒頭に天皇の項を設けたのはこのためである。

 
■なぜ欧州では君主を輸入したのか──万世一系の天皇との違い

万世一系の天皇を頂く日本人は幸せである。この万世一系の天皇は、如何なる意味をもつとお考えであろうか。この点では、ユダヤ人が借越ながら日本人に少々参考になる意見をお聴かせできるかも知れない。

日本人からすると、万世一系の天皇といってもピンとこないかも知れない。他にどんな天皇があるのか、と反問されるであろう。だから日本人は幸せだと思うのである。何故か。ヨーロッパの王朝というものはみな混血王朝である。歴史上、しょっちゅう外国から国王や王女を輸入した。しかも王朝の権力が強くなればなるほど、外国からますます輸入するようになる。何故か。王朝の権力を弱める必要からである。国内から昇格させようとすると当然争いが起こり、国内が乱れるのでまずい。その点、外国からの輸入君主は当りさわりが少なくしかも飾りものなので、最も有効な方法ということになる。

こんな話をすると、日本人は全くお話にならんと思われるかもしれない。まさにそうなのである。私が万世一系の天皇をもつ日本人は最高に幸せですといった意味が、これでお分かり頂けたことと思う。

しかし、では何故に王朝の権力が国民がいぶかるほど強くなるのか。また、王朝の権力が強くなることはどうして悪いことなのか、と疑問をお持ちのことと思う。

ここでもう一度、われらの大思想家ジャン・ジャック・ルソーの言葉を思い出して頂ければ幸いである。ルソーは「我もし随意に祖国を選べといわれれば君主と国民との間に利害関係の対立のない国を選ぶ。しかし現実にそのような国があろうはずもないから、止むを得ずその代替物として民主主義国を選ぶ」といっている。

ここにすべてが盛られている。ヨーロッパの王朝では常に君主と国民の利害が対立している。然るに、日本の天皇制には決して利害関係の対立などない。仁徳天皇の「民のかまどに立つ煙」の故事を引き合いに出すまでもなく、また前述の天皇とマッカーサーの会見時の模様を説明するまでもなく、利害関係の対立は全くないのである。これこそ、君民共治の完壁な見本である。

このような天皇制では、常に天皇と国民の間には強固な理性的バランスがとれているのである。人間精神の最も高尚なものが両者を結んでいるのである。そこには物質的欲得など、みじんも入り込むすきはない。なんとすばらしいことであろうか。このような国で、なんの必要があって天皇を外国のものと取り替える必要があろうか。

ユダヤ人はルソーの言を待つまでもなく、長年このような君主制を夢に描いてきたのである。しかし祖国を持たないわがユダヤ人は、王を頂くこともできなかったのである。わずかにユダヤ教を「携帯祖国」としてもち、これによって民族の連帯と発展を推し進めてきたのである。キリスト教国では、このような高尚な理想をもった国は永遠に現われないであろうと思う。その点から見ても、ユダヤ人は日本人には及ばないが、一般西洋人よりは優れた民族であると日本人に認めていただければ、甚だ光栄である。


■ユダヤ人の教条主義的誤り──戦前の天皇制攻撃

これから本論として述べる如く、我々は戦後の占領改革において大きな過誤を犯したのであるが、ただ一つの喜びは、天皇制の偉大さを認識でき、それを憲法の冒頭で存続させることができたことである。

だがここで日本人に謝らなければならないのは、戦前において我々の認識不足から、天皇制を最大限に攻撃し、なんとかこれを打倒しようと努力してきたのも我々ユダヤ人である、ということなのである。全く穴があれば入りたい気持ちである。

フランス革命でフランスの君主制を打倒したのが、我々の最初の大事業であった。つづいて、ヨーロッパの主な君主制を打倒することが至上任務となるのである。

何故そうなるのかということは、マルクス主義の国家論をお考え頂ければ十分と思う。マルクス主義というものは別章で詳しく述べる如く、ユダヤ人が自己の民族的解放事業のための道具として編み出した虚構論理なのである。マルクス主義の国家論はご存知のように、国家とは破壊、転覆すべきものであるということを根本原理としているものである。国家というものがあるためにユダヤ人は過去幾千年、迫害、虐殺をくり返されていたものである。自己をこのような悲惨な境遇から救うためには、国家というものを転覆することが唯一の方法であったのだ。

つまり、それによりユダヤ人が権力と財産──後にこれは生産手段という社会科学的用語にかえられたが──を奪取することによってのみ解放されるということである。これがマルクス主義の根本原理なのであるが、この国家の破壊という大事業の前に最も邪魔になるのが君主制という制度であったのだ。そのため特に、君主制の打倒ということが最大の目的となったわけである。

今世紀に入ってからは、第一次大戦時に、ヨーロッパの主な三つの王冠、ドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリーにおける君主制の打倒に成功したのであった。

さて後に残された有力な君主制は、東洋の一角に燦然と輝く日本の天皇制だったのだ。ユダヤ人は、これの打倒に全精力を注ぐことになったわけである。

ただここで、日本人は一つの疑問をおもちになることと思う。ヨーロッパでは各国でユダヤ人が王制のもとに苦しんでいたのであるからこれらを打倒するのはわかるが、では何故にユダヤ人のいない日本で天皇制を打倒しなければならないのかという疑問であろう。

ユダヤ人の単純な教条主義的思考なのか、君主制と名のつくものはすべて敵であるとする単純な発想からくる誤ちなのか。答は否である。このことは日本人はいまだほとんどご存知ないだろうが、ユダヤ人には天皇制を打倒する理由があったのである。それについては別章で述べる機会があると思うので、今は触れないでおこう。


次回は
■美濃部達吉の「天皇機関説」はユダヤ人が吹き込んだ


●「日本人に謝りたい」
 ーあるユダヤ長老の懺悔ー  より
1979年 日新報道(刊)
モルデカイ・モーゼ (著), 久保田 政男 (翻訳) 

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