こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。
今日はわたくしの家のリホームについてです。
本当に昭和レトロそのものの家をできるだけ自分でリホームしようと思い、苦戦しております。
まずはペンキ塗り、雨戸から家の壁など自分でペイントしました。しかし、なんとムラができてしまい難しいこと。良く塗ったと思っても色が均一にならず、どうしても濃淡ができてしまいます。これはどうしても直すことができませんでした。でも塗ってあればいいかな?
次にドアです。
レトロですから昔のVレールが使われていて、これを探し出すのが一苦労でした。
近くのホームセンターなどで探しましたがありません。ほとんどのところで探しましたが、ありません。最終的に町の古くからある金物店と言ってよいかどうか?そこに数点ありました。店主いわく、30年くらいも前のもだからこれをいまでも使っているのが奇跡的だと。
ありがたく数本、求めました。
これでドアを4本、直しました、
昔からの店には思いもよらないものがあります。
このようなお店がいつまでも続いていただきたいと思っております。
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。
明治十四年にはアーネスト・サトウ卿の『中部・北部日本旅行案内』が発行されていて多くの外国人はこれを参考にしています。ショー司祭についてもこれを参考にして軽井沢高原を訪れたことが考えられます。A・C・ショー司祭がこれを参考にしていたことは、いままで日本についての参考になる書籍がなく、外国人は待ちに待ったものでした。これは多くの外国人の日本旅行のときの頼りになるテキストとなりました。
これに先駆け、キーリング(Wallace Edward Lloyd Keeling)の「Tourists Guide」が前年に出版されています。キーリングは英国の英学教師で御雇外国人として明治六年に来日しました。福沢諭吉にショー司祭とともに私雇の外国人として雇われました。この「Tourists Guide」より『中部・北部日本旅行案内』のほうが読まれたのは、キーリングのものより広く詳しく日本の紹介がされていたためです。明治二三年の第四版、「Keeling's Guide to Japan」ではより広く日本を紹介していますが、サトウ卿の日本案内が詳しく紹介しています。むしろキーリングの日本案内書はサトウ卿の日本案内書から多くを参考にしています。
キーリングも福沢諭吉に御雇外国人として雇われていましたが、それにしても福沢諭吉は巨きな日本の知識の集積地だったことが判ります。
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。
明治時代の別荘(サマーコテイジ)は当時、使われなくなった旅籠などの建物を再利用しています。その建物がどのくらいあるか、なた、使用していない土地がどれくらいあるかで別荘の建築数が異なってくるでしょう。
A・C・ショー司祭が旧軽井沢の大塚山に建物を建てたのは大かたの説では明治二十一年ですが、これに誤りはないと思います。しかし、軽井沢の別荘第一号ということになるとショー司祭家族が使われなくなった家を手に入れ夏を過ごした明治十八・十九年説と大塚山に新たに家を建てた明治二十一年という説があります。これについては夏を過ごすという生活形態ができた年とするか建物を移築して新たにコテージを建て完成した年、いわゆる物理的に捉えるかであります。わたしはどちらとしても誤りではないと思います。
日光の別荘建築についても軽井沢のそれと大きく変わりません。
当時の日本で外国人が別荘を持つには日本人名義にしなければならず、たいへんな苦労があったのです。
軽井沢は箱根や日光と比べ、外国人向けホテルより外国人の別荘のほうが比較的に早い時期にできていました。これの意味するところは軽井沢は他の避暑地よりきわめて保守的であったということが言えると思います。
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。
お彼岸に入り、お墓参りに行ってきました。わたくしの先祖は南佐久にある自成寺という江戸時代から続くお寺におります。
そこがわたくしの魂の故郷ということになります。
雨の上がった午後にお寺に着き、お参りを済ませました。
なかなか忙しいので行ける時間を見つけるのもたいへんですが、これは現生に生きているものの努めと思っております。
お彼岸の連休ですので東京など遠くからお見えになる方も多いようです。
ここに接する道を山を越えてゆくと秩父に行きます。
秩父までは交通標識が八十数キロとあります。遠いです。
途中、休憩できるところがあるかどうか判りませんが、一度は山を越えて行ってみたいと思っています。
先日、伺った三峰神社に残る日本オオカミの伝説的な話にも興味が湧きます。
神的な物語はわたくしたちの心の奥底に舞い降りてくるように思います。