先週のお出かけ日記より
今日は一人ぼっちの休みでした。
雨の天気予報だったからお掃除でもしとこうか…と思ってたけど、陽の光が差してきて…
エッ😀
ウェザーニュースを見ると1時間毎の天気は☀マークの連続
これは、外に出ないともったいない
で、テーブルの片付け途中で、見つけたパンフレット↓
を手に取り、よし決〜めた
兵庫県太子町にある鵤荘中心に文化財をジョギングで見て回ることに
善は急げ
参加者:私一人…寂し…
太子町総合公園から出発。
陸上競技場、野球場、テニスコートのある運動公園です⚽
最近、野球場の南側の芝生広場に子どもたちが遊ぶ大きな遊具が設置されて賑わってます。
木の枝がチョッキリと切られて見晴らしが良くなりましたありがたや
公園の中の太子町散策マップ。こんなんあったんやなぁ…と感心しながら、
あっ、太子町の「太子」は何を隠そう「聖徳太子」の「太子」です
今日の散策のメイン、「斑鳩寺」は聖徳太子が建立したとされてます。最後に斑鳩寺到着コースで回りたいと思います
まずは総合公園の北にある、荒神社。
全国どこにでもあると思っていましたが、荒神信仰が盛んだった瀬戸内地方に多いとのこと。
荒神社は「荒神さん」と呼んで小さい時から親しみのある神社で実家の近くにもあり、毎年こどもの日に荒神さんでお菓子をもらってた記憶があります。
幼稚園の柵にある看板。
「史と和のまち太子」斑鳩寺を中心に聖徳太子ゆかりの町として歴史があります。ここから、更に東に行くと
村の中の新しい住宅地の中に「松田の地蔵」がありました
お地蔵さんは村の入口に建てられ、村に悪いものが入ってこないようお守りしてくださるので、ここが昔は龍田村の入口だったのかな
今では立ち並ぶ住宅の中に、それも最近建てられたと思しき家の庭の真ん前に鎮座してました
でも、村の人がお世話されてるようできれいな花が供えてありました
龍田村のこの入り口から西へ中心部へ向かいます
可愛い💞
オッ龍田村を示す道路元標
大正時代には各市町村に1個ずつ設置され、現代には道路元標マニアの方もおられます
でも、この元標を守る法律はないので開発の流れの中、消失したものがたくさんあるそう
それでも、兵庫県は残存する道路元標が多い県だそうで、この太子町にも14個の道路元標が存在、その一つの龍田村道路元標を発見することができました
…歩いてみないと分からないですね
じゃあ、この元標が角に立つ、法心寺周辺が昔から栄えてたということかな🤔こちらは浄土真宗のお寺です。
この路地から南下し、近代の車道に出ると、
こんな感じで、交互通行の道路の間を割ってまで動かさずに大切にしたい石🪨があります😱(矢印のところ)
こんな感じで、交互通行の道路の間を割ってまで動かさずに大切にしたい石🪨があります😱(矢印のところ)
聖徳太子が推古天皇から太子町の土地を賜り、この辺りは「鵤荘」と呼ばれていました。
条里制で区画された鵤荘は、聖徳太子が斑鳩寺創建時に荘園の周辺約12ヶ所にぼうじ石🪨を設けて境界を明らかにしたとされてます。
確かに、現代の鵤地域も碁盤の目のようになってます
他にも、荘園の範囲を決めるのに檀特山の頂上から聖徳太子が石🪨を投げたという説もあり、「投げ石」とも呼ばれています。
とりあえず町内には現存するぼうじ石🪨が5か所にあり、そのうちの3つが今いる龍田地区にあります
その1つがこの「平方の投げ石」🪨
(とてもじゃないけど、檀特山からここまでは投げれません)
畦の中にぽつんと置かれたぼうじ石🪨畦ごと保存されてるのが面白いです
近代の道も分かれさせてしまうほどの扱いで存在します
近代の道も分かれさせてしまうほどの扱いで存在します
ちなみにこの日はルートに入ってないので行っていませんが、スタート地点の総合公園内に「松ヶ下のぼうじ石」🪨があります。
工場建設で元の場所から動かされ、本当は約25m東の水田の中にあったのだそう。
さて、平方のぼうじ石🪨を過ぎると、大きく成長した木々に隠れるように大歳神社があります。
大歳神社は歳神様がお祀りされてます。
柳田國男先生曰く、一年を守護する神、農作を守護する神、家を守護する祖霊の3つの神を1つの神として信仰した素朴な民間神が歳神様。
大歳神社を北上し、東西に延びるこの水路辺りが「筑紫大道」でしょうか
大歳神社を北上し、東西に延びるこの水路辺りが「筑紫大道」でしょうか
筑紫大道は中世(鎌倉、室町)の山陽道、大宰府と都を繋いでいた主要道です。(いやぁロマンを感じます)
筑紫大道は真正面の坊主山の裾を西へ続きます。太子龍野バイパスの工事に先駆けた発掘調査でこの筑紫大道が発見されました。
この近くに「桜ヶ坪のぼうじ石」🪨があるようですが、この日は見つけられませんでした
後日、再チャレンジし、見つけました
「桜ヶ坪のぼうじ石」🪨。大和会館の駐車場に入らせてもらい、パシャリ📸
なんの案内表示もありません
🪨があるだけマシなのか、どうなのか…
でも、この石🪨だけが唯一、「播磨国鵤荘絵図」(嘉暦4年・1329年)に●黒丸で示されてる位置と現在の位置とがほぼ同じところに位置するとのこと…
でも聖徳太子が投げたとされる伝説がこの石にはないって……なぁんやソレ
斎場奥の坊主山の墓地には六地蔵と共にお地蔵さんがおられます。
室町時代に作られたお地蔵さんで補修されて自力では立てず、両脇から支えられてます。六地蔵は最近のもの風ですね。
その時代から坊主山は墓地だそうで、ここに平成15年「筑紫の丘斎場」という立派な公営火葬場が建てられました。
坊主山の裾を周り、
筑紫大道と思われる道を西へ
この辺に「鵤北山根の投げ石」があるバズなのですが見つけられません
改めて、後日出直し、少し丘陵になってる城山団地の中の駐車場から下を覗いて発見しました。
(こりゃ下からのアプローチでは分からんわ)
でもこの石は、荘園の中にあるらしく、ぼうじ石ではない疑惑もあり、でも昔から聖徳太子が投げた石として、動かされずに大切に保管されてます🤔
「筑紫大道」を更に西へ
途中、細い路地のずっと奥に神社を発見
「三王神社」
R179を横断し、
太子龍野バイパスの高架をくぐって
林田川の堤防に出ました。
阿曽井堰。その取水口のある竹林の中に水争いのときに用水路の堰を身を挺して守ったと言われる「弥治平の碑」があります。
昔はそこら中で水争いが絶えなかったんだろうなと、最近、水路散策をしてるのでヒシと感じます。
川の向こう岸に渡って「弥治平の堰」へ行ってみます。
その前に阿宗神社にお参り。
ここから南下して誉田小学校を過ぎると
水路の脇に「弥治平の堰」の石碑
林田川に注ぎ込むような位置にあるので昔の水路とは異なるのかな
人が思うように、水を相手にするのは難しいんでしょうね。色々偉人さんが
堰や水路に登場するので一つ一つにストーリーがあるんだと思うと感慨深いです。
また、堤防に上がり南下
先程、くぐった太子龍野バイパスですが、バイパスも南下しながら西に通ってるので、またこの太子龍野バイパスにぶつかり、今度はバイパス横の歩道を東へ戻り、
林田川の堤防を更に南下
県道を横断し、
↑「林田川の渡し」があったところ
ここから、進路を東に変え、真正面に続く道が江戸時代の「西国街道」(山陽道)です。京都から下関まで続きます。参勤交代に使われた道ですね
右奥の山は立岡山です。
「茶屋垣内の地蔵」
「茶屋垣内の地蔵」
村の入口となるここに立派な建屋付きのお地蔵さんが祀られてます。
パンフレットではここに「一里塚跡」があるそうですが分かりませんでした松の木もありません
西国街道を東へ
「式内阿宗神社丁石」
先程、寄った阿宗神社が、この北8丁にあることを示す石碑です。一丁は約109mなので約900m北ということですね🤔
昔は立岡山にこの阿宗神社があり、立岡山は神様を祀る神奈備山でしたが、今は頂上に給水塔、腹の中は新幹線が通り、神様が住めそうにありません
(╭☞•́⍛•̀)╭☞^_________^(✷‿✷)
まだまだ斑鳩寺にたどりつけそうにないのでここで一旦、続くにします
尻切れトンボですが…
ここまでお付き合いいただきありがとうございました