突然ですが
大きい病院2ヶ月、小さい病院約5ヶ月入院して最期まで飲食できないまま逝ってしまいました。
今まで肺がん、何年か前に胃がんになった時もけして諦めることはなく果敢に手術、治療に励み、まわりがびっくりする程華麗に復活しました。
大きな病院に二ヶ月入院の時期は、せん妄があっても、父に戻る時間もあり、歩く練習(リハビリ)もしてました。
私が(医師の許可を得て)父の足裏やふくらはぎにアロママッサージするのも恒例になって、『いい匂いだなぁ』『気持ちいいなぁ』と言ってくれたときも(ぜったい大丈夫!)と思ってました。笑
日に日に会話も怪しくなり父は過去の色々な時代にいってるようでした。
母との恋愛時代へワープした時は爆笑ものでした。母も『そんな古い話やめてよー』と嬉しそう。笑
ただ、何も食べれなかった。(7ヶ月間)
嚥下トレーニングも誤嚥性肺炎になる可能性が大で「怖くてできない」もよう。
栄養は点滴でいれてましたが、「胃ろう」を提案されたけれど中心静脈栄養法(TPN)を選びました。
十二指腸に穴があいて入院しましたが、穴も薬物治療でふさがり、治療するところはないと退院せざるえなく、
この際も葛藤につぐ葛藤💧
自宅介護にするか療養型病院へ行くか。
父の状態では、その2択でした。
どちらを選んでも悩ましい💦
母も高齢なので考えまくった末に療養型病棟のある小さな病院へ移りました。
一番多く言われた言葉が
『夢を見ないでください』
『今が1番良い状態で、ここから良くなることはありません』
でした。
低空飛行のまま飛んでるイメージ、いつ墜落してもおかしくない。
小さい病院の時は、本当に寝たきり。
意思疎通がだんだんと出来なくなり、何を言ってるのか分からないけれど、おしゃべりしてくれることが嬉しくて「うんうん、それで?』と聴いてました。笑
面会時間は30分。2人まで。
母、姉、私、かわるがわる週3回面会に行ってました。
母と私のチームは家から病院までアシスト自転車🚲で。(平地で20分、いい有酸素運動になったようです。←母が。)
その習慣が8月から4ヶ月以上ありましたが、時たま襲ってくる葛藤ぐるぐる🌀
父が『家に帰りたい』(←こういう時はハッキリ聞こえる)と涙浮かべながら言う姿は、切なくて胸が張り裂けそうでした。
でも、次回行くと忘れてる?言わない。
一度、本当に自宅介護しようと決意し、ドクターと面談したり、家で介護用ベッドを入れるスペースを作り、いざ!って時に父の状態が不安定になり、自宅に帰ることはできませんでした。
悟りましたよ〜。家に戻しても又病院に逆戻りする可能性が大きいことを。
そんな私たち家族をケアしてくださったのも看護師さんたちでした。
父にも家族にも優しく寄り添ってくれて、本当にココロが救われました。
大きい病院も小さい病院も看護師さんやヘルパーさんに支えられました。
最後はインフルエンザ流行で病院が面会禁止となり1週間以上会いに行けなくなり😢
看取りが迫ったら個室に移し、最後の時間を過ごすと決めていたのですが(急変すぎて)叶いませんでした。
それまで安定していたから、名古屋(ドリカム)に行けたし安定していたから映画にも行った。
恐るべしインフルエンザ😷(誰が悪いってことはけしてありません)
最期の日、病院から電話があり朝方(4時半)病院へ駆けつけて、ひとりづつ病室へ入り、お別れすることができました。
ただ眠っているみたいに、穏やかな顔で安心しました♡
最後まで残るのは聴覚。耳元で感謝と「お疲れ様でした」と。
なんか笑った気がしたのは気のせい??
入院中に、既に亡くなったおばあちゃん(父の母)亡くなった兄妹、友達が来たと父が言うようになってから『そっち見ちゃだめ!お母さんを見て!』と良く言ってたんですよね。笑
こちらは3人(母姉私)あちらの世界は大勢!面会ができない間に勢力争いに負けた気がしました。笑
でも、あちらの世界で父を迎えてくれる人がたくさんいると思うと安心です♡
2024年の手帳は
こんな分厚くなりました。(毎度のことですが😅)
この中の6月以降、父のことも多く書いてあって、父との会話、自分の気持ち、葛藤etc 読み返すと、もう遠い出来事のような気がします💧
子供の頃は思いきり『お父さんっ子』でした。大人になり疎遠気味になり(笑)また最後は『お父さんっ子』に戻れた感じです。笑
本当にこの数ヶ月、まわりの方々にお世話になりました。
目に見えない優しさが伝わってきて😢
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました♡
長々とブログをお読みくださったみなさま、ありがとうございました。(年末にスミマセン💦)
今までの過程を何度もブログに書いていたのですが、アップすることができませんでした💦(下書きのまま😅)
これから、父の入院生活での思い出も、たまに綴らせて頂こうかなと思います。
よろしくお願いいたします。