Re-Bone

自社ブランド製品やエキゾチックレザー情報などをご紹介。

カスタマイズできる財布の20秒動画

2023-06-14 14:19:12 | 財布
NEW !
テーマ:
 

カスタマイズできる財布の20秒動画

 

こんにちは。

 

今日はカスタマイズできる財布を20秒程度の動画でご紹介します。

シェア、拡散等していただけたら、とってもありがたいです。よろしくお願い致します!m(__)m。

 

※サドルレザー(黒)と、空(オーストリッチ青とカロング白)、ライチ(オーストリッチ赤とカロング白)、鱗二重緑(ピラルク緑とパイソン緑)

 

 

誰でも簡単にカスタマイズできる財布で、今までに販売されている財布は69種類あり、その全ての財布同士でカスタマイズできます。その数なんと4,761通り!ベルトもあわせるともう、わけわかんない数です。

 

だから、人と被ることのない財布をお探しの方にはうってつけです。

 

 

※リザード(トカゲ革)のリボーンウォレットを使って撮影してます。

 

片側が通しマチになっていて見た目以上に容量がある財布で、スマホだって収納できちゃうこの財布。

 

 

長財布の折り目部分に付けられたファスナーによって、スマホやクレジットカードなどは財布を開かなくても、ファスナーで出し入れできちゃいます。

 

 

そんなリボーンウォレット、今なら期間限定価格で販売中なので、よかったら覗いてみてください。

 

 

 

 

失礼しました。

 

 

 

 


カスタマイズできる財布の20秒動画

2023-06-14 14:19:12 | 財布
NEW !
テーマ:
 

カスタマイズできる財布の20秒動画

 

こんにちは。

 

今日はカスタマイズできる財布を20秒程度の動画でご紹介します。

シェア、拡散等していただけたら、とってもありがたいです。よろしくお願い致します!m(__)m。

 

※サドルレザー(黒)と、空(オーストリッチ青とカロング白)、ライチ(オーストリッチ赤とカロング白)、鱗二重緑(ピラルク緑とパイソン緑)

 

 

誰でも簡単にカスタマイズできる財布で、今までに販売されている財布は69種類あり、その全ての財布同士でカスタマイズできます。その数なんと4,761通り!ベルトもあわせるともう、わけわかんない数です。

 

だから、人と被ることのない財布をお探しの方にはうってつけです。

 

 

※リザード(トカゲ革)のリボーンウォレットを使って撮影してます。

 

片側が通しマチになっていて見た目以上に容量がある財布で、スマホだって収納できちゃうこの財布。

 

 

長財布の折り目部分に付けられたファスナーによって、スマホやクレジットカードなどは財布を開かなくても、ファスナーで出し入れできちゃいます。

 

 

そんなリボーンウォレット、今なら期間限定価格で販売中なので、よかったら覗いてみてください。

 

 

 

 

失礼しました。

 

 

 

 


人生の想い出ーその3昭和の想い出・3『川崎大師とくず餅と』

2023-06-13 18:30:39 | 人生の想い出
NEW !
テーマ:

昭和の想い出ーその3

『川崎大師とくず餅と』

 
 

東京大空襲と二度の命拾い

 
 
僕の祖母は、『鬼滅の刃』の舞台ともなっている大正時代、アメリカの独立記念日である7月4日に山形県で生まれました。
 
そして20代の頃、結婚をして二人の娘を産んでいた祖母は、当時の旦那さん(宮本さん)と幼かった母を山形県に残したまま、まだ赤ちゃんだった母の妹をおぶって、東京大空襲の中、東京に降り立ったそうです。
 
東京で母と母の妹と三人で東京に移住するために、暮らす家を探しに上京しました。
 
理由は、旦那の宮本さんの妾が跡取りである男の子を出産したからだそうです。
 
当時の日本では妾(第二婦人)は、特別なことではなかったそうです。
 
『自分は跡取りを産むことができなかったので身を引きます』そう言って、住居が決まるまではと母の面倒をお願いして東京に来たそうです。
 
そして東京大空襲の爆弾が行きかう中で、二度ほど命の危険に晒されたそうです。
 
 
一度目は、交番に道を聞きに行った時で、交番の警察官の方が親切丁寧に道順を教えてくれて、『ここは危ないから早くここから離れなさい!』そう言われて、母の妹をおぶったままダッシュで走り交番から離れていった時、その交番に爆弾が直撃。
 
振り返ってみたときには、その交番は跡形もなくなっていたそうです。
 
 
 
『あの時に優しく接してくれた警察官の方の優しい笑顔は今でも忘れられない』そう祖母から聞かされたことがあります。
 
 
二度目は、防空壕が二つあって、そのうちの一つの防空壕を選んで身を潜めていたそうです。
 
 
そのうちに爆弾が落ちてきて凄い音がしたそうです。
 
祖母たちが身を潜めていた防空壕は無事だったのですが、祖母が選ばなかったもう一つの防空壕に爆弾が直撃していて、中で身を潜めていた人たちは全滅だったそうです。
 
『あの時に私が判断を間違っていたら、あなたもいなかったのよ』なんて言われました。
 
その後、祖母は東京で生活するための家を見つけて、母を山形県に迎えに行き、祖母と母と妹での三人での生活が始まり戦争も終結しました。
 
 
志村けんさんのお陰で有名な、東村山で生活していたそうです。
 
旦那さんは、祖母に会いに何度も東京に来て『戻ってきて欲しい』と言っていたそうですが、祖母が宮本さんの元に戻ることは二度とありませんでしたが、結婚するまで母の苗字は宮本でした。
 
祖母の苗字は柳橋だったので、子供の頃に母の結婚前の苗字を聞かされた時は「何で親子なのに苗字が違うんだろう?」と思ったことがあったのですが、“大人の事情”だったのですね。きっと祖母なりの“想い”があったのだと思います。
 
『東京に来てから、結婚して欲しいっていう人も居たのよ』なんてちょっと自慢気に話をしていた祖母の笑顔は今でも覚えています。
 
 
 

川崎大師とくず餅と

 
そんな祖母に連れられて、川崎大師へ行った時の話。
 
なぜか祖母は、川崎大師が好きで良く行っていたんですね。
 
当時、僕はまだ幼くて3~4歳くらいだったんじゃないですかね。
 
川崎大師といえば“くず餅”が有名ですよね。
 
川崎大師へは、くず餅につられて祖母に付いていったんですが時刻は夕暮れ時で、お店もほとんど閉まり始めていました。
 
たまたま、まだ開いていたお店に行ってみたのですが、くず餅は売切れだと言われて、僕はしょんぼりしていました。
 
その時に祖母が、『くず餅を食べるのを楽しみに川崎大師に来たこの子の分だけでも、ほんの少しだけでもありませんか?』と聞いてくれました。
 
お店の人は、『一人分に少し満たない量でも良いのなら』と言って、くず餅を出してくれました。
 
あの時に食べたくず餅の想い出は、忘れられません。
 
くず餅を食べられたこともですが、祖母がお店の人に交渉してくれたことが嬉しかったんです。
 
 
 
僕にとって、そんなノスタルジックな想い出のある川崎大師へ、10年前の2013年に久しぶりに訪れました。
 
子供の頃にとても長く感じていた駅からの道のりは、大人の足で歩くとそれ程でもなく、何とも言えない懐かしさやあの頃の情感が蘇ってきました。
 
 
そして2022年4月には、長男と二人で川崎大師へ行ってきました。
 
道すがら、あの時の『祖母とのくず餅の想い出』なんかを話したりしながら、何とも心地良い時間を過ごすことができました。
 
 
 
あの日、祖母に手を引かれてしょんぼりしていた子供は、くず餅を食べさせてもらって、今では自分の子供と酒を酌み交わせるほどに成長しました。
 
 
ばばちゃん、ありがとうございました。
 
 
 
最後までお読みいただきありがとうございました。
 
 
 

あなたにとって、素敵で幸せな日常でありますように願いを篭めて

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その3へつづきます
 
 
 
 
 

人生の想い出ーその2昭和の想い出・2『座敷わらしと建て替えと』

2023-06-11 17:13:31 | 人生の想い出
NEW !
テーマ:
 

昭和の想い出ーその2

『座敷わらしと建て替えと』

 

七人目の家族

 
 
ちんじとのお別れは、まだ幼かったので、その瞬間ていうのは覚えてないんですよね。
 
でも、その存在は頭の片隅に残っていたりはします。
 
存在と言えば、皆さんは“座敷わらし”っていると思いますか?
 
 
いつからだろう?
 
僕の家には座敷わらしがいました。
 
迷信だと言われていますが、昭和から平成に変わる2年ほど前、僕が18歳になるまではたしかに実家に座敷わらしがいました。
 
見たことはないのですが、ウチの家族みんな座敷わらしの存在を感じていました。
 
その当時ウチは、祖母、父、母、姉、兄、僕と6人家族でしたが、7人目の家族と呼べるほどに皆、その存在を感じていました。
 
 
僕は幽霊とか亡霊みたいなものは一切信じていないんですが、あの頃の実家には確かに座敷わらしがいました。
 
家族全員、その不思議な存在を感じる出来事を何度となく体験していて、いつからか“ウチには座敷わらしがいる”ということで、皆納得するようになったのでした。
 
 
 
 
気配がするんですよね、それも確かな気配です。
 
建て替え前の実家は、木造建築でかなり古い家だったんですね。
 
家の二階に一人でいるときに、玄関が開く音が聞こえて、“母親が帰ってきたな~”なんて思っていても誰も二階に上がってこない。
 
一階でなにかしているんだろうな、なんて気にしていなかったんですけど。
 
その後暫~くしてから、一階のトイレに行ったんですけど、母親はいない・・・。
 
“あれ?又どこかに出掛けたのかな?”そんなことを思っていたら、母親が勢いよくドアを開けて帰ってきたので、「アレ?さっき帰ってこなかった?」って聞いたら「帰ってきてないよ、座敷わらしじゃない?」、みたいなやりとり、そんな日常でした。
 
そんな体験をする時は、大抵一人のときだったので、どこか“気のせいかもしれない”とも思ってもいました。
 
築年数の経った家だったし、湿度とかで家が軋んだりしているんだろう(でも気配を感じていたのも確かでした。)
 
 

二人同時に感じた座敷わらしの気配

 
そんなある日、“これはもう、間違いなく座敷わらしが居る”そう確信する出来事がありました。
 
ある日の夕方くらいの時間、僕と兄は二段ベッドの上と下でお昼寝(?)をしてました。
 
僕には4歳年上の兄がいて、二段ベッドの上で兄が寝て、下で僕が寝ていました。
 
年齢的なことは本当に覚えていなくて、たぶん僕が小学生で兄が中学生くらいだったんじゃないですかね。
 
季節はおそらく、今頃の梅雨時期か秋頃の少し肌寒い日だったと思います。
 
夕暮れ時の肌寒い日は、僕と兄は寝るでもなく布団に包まったりしていたからです。
 
寝ているか寝ていないか、微妙な感覚の中で、一階の玄関が開く音がしました。
 
祖母の気配です。おおよそいつも通りの時間の祖母の帰宅です。
 
その後、みしみしと階段を上ってくる音と気配がしました。
 
祖母の部屋は2階の階段を上ったところにあったので、自分の部屋に入るんだな、と思っていました。
 
いつもの祖母のルーティーンです。
 
ところが、その日は違ったのです。
 
祖母の気配は、自分の部屋を通り過ぎて、ス~っと僕たちの部屋の方へと向かってきました。
 
『何か話でもあるのかな?』僕はそんな風に思っていました。
 
祖母の気配は、僕と兄が寝ている部屋の閉じた扉の前で立ち止まりました。
 
部屋の前まできた祖母は、ドアを開けるでもなく話しかけるわけでもなく、立ち止まったままです。
 
僕は、ちょっと不思議に思いました。
 
いつもの祖母だったら、ドアを開けるか話しかけるかしてくるのに、どうしたんだろう?と思っていました。
 
 
時間にして5~6秒くらいでしょうか、いや、もしかしたら10秒くらいの時間が経っていたのかもしれません。
 
僕がドアを開けてみようと思った瞬間に、上で寝ていたと思っていた兄が突然、二段ベッドから飛び降りて凄い勢いでドアを開けたんです。
 
 
 

兄が一言『 アレッ!? 居ない?! 』

 
僕は『えっ!?』そんなバカな?!とビックリしました。
 
僕が言うより先に兄が『今、ババちゃん帰ってきたよね!?』
 
僕もビックリしました、祖母が帰ってきた気配を全くタイミングで、同じように兄も感じていたからです。
 
そして二人で話をしたら、祖母が帰ってきたタイミングも、その後の階段を上る音も気配も、ス~っと部屋の前まできて立ち止まったタイミングも全て一致していました。
 
 
座敷わらしがいることが確信に変わった瞬間でした。
 
 
でも不思議と怖さは全く感じませんでした。
 
それよりも、祖母の身に何かあったのでは!?と二人で心配しましたが、その後ほどなくして無事に祖母も帰宅してホッとしたのでした。
 
 
 
今思うと、あの座敷わらしは父を産んですぐに亡くなってしまったという、もう一人の祖母だったのかな~なんて考えたりもするんですけどね、その祖母の命日が兄の誕生日だったりするのも縁を感じますね。
 
 
僕が高校を卒業した年に兄は台湾へと旅立っていき、実家を建て替えてからはもう、あの不思議な七人目の家族の気配を感じることは二度とありませんでした。
 
 
最後までお読みいただきありがとうございました。
 
 
 

 
 
 
その3へつづきます
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

人生の想い出ーその1昭和の想い出・1『家の前の飯場と八幡神社と』

2023-06-09 20:00:00 | 人生の想い出
NEW !
テーマ:

昭和の想い出ーその1

『家の前の飯場と八幡神社と』

 
1969年(昭和44年)生まれの僕は、既に人生を折り返しているんですね。
 
子供の頃に一緒だった祖母と両親はすでに旅立っているので、最近は“生と死”について考えたりもするんですよ。(実はあんまり考えてませんけど)
 
旅立ってしまった友達も沢山いますし、人はいつ旅立つのか誰にも分かりません。
 
40年後かもしれないし、明日かもしれない。
 
そんなわけで、自分が生きた証というか、これまでの人生の想い出を書き綴ってみたいと思います。
 
昭和を知らない人には「へ~日本もそんな時代があったんだ~」とか思ってもらえたり、同年代の人には懐かしんでもらえたら良いな~とか思うのです。
 
※小学校1~2年生頃の給食時の一コマ。左側後ろで変な顔をしているのが僕です。
隣にいるのは、戸田さんで向かいに居るのは田中くんです。(意外と覚えているもんなんですね)
 

飯場のお兄ちゃん“ちんじ”

 
ということで、僕が生まれたのは1969年(昭和44年)1月23日、第二次ベビーブームの頃で、小学校は6クラスありました。
 
高井戸第三小学校という小学校に通っていました。
 
当時はたしか全校生徒1200人くらい居たんじゃないですかね。
 
僕は1~2歳ごろまで下井草に住んでいて、それから下高井戸に引っ越ししたそうです。
恐らく下井草時代だと思うのですが、バスだか路面電車だかを家族で待って乗り込んだような風景を、一コマだけ覚えています。
 
このころの写真は白黒のものが多いですね、時代を感じます笑
 
テレビも古い昔のテレビですね、週に一度の道徳の時間に見る「明るい仲間」が好きでした。(理由はお察しの通り)
 
僕が幼い頃の下高井戸辺りは、空き地も多くてアスファルトではない土の道路があちこちにありました。
 
だから雨の日は靴が泥だらけになるんですね、それが嫌で雨の日は長靴を履いていました。
 
まだ幼稚園に通う前の3~4歳頃、僕の家の前は土の山が高く積み上げられていて、その片隅には飯場がありました。
 
幼い頃の僕は積極的な子供だったらしく、その飯場に毎日遊びに行っていたそうです。
 
飯場に行くと、飯場の人たちに元気よく『おっちゅ!』とか言っていたみたいです。(まだ幼く舌足らずでオスっていえなかったみたいです)
 
そこの飯場に僕より少し年上のお兄ちゃんがいました。
 
※当時慕っていた飯場のお兄ちゃん“ちんじ”と家の前の飯場で
 
 
 
『シンジ』っていう名前だったんですけど、いつも僕は『ちんじ~、ちんじ~』って言いながら後をついて回っていたのだと父から聞かされました。
 
ハッキリとした記憶としては残っていませんが、ほんの少しだけ頭の片隅に残っている想い出です。
 
僕が幼稚園に上がるころには、もう飯場は引っ越ししてまったように思います。
 
ちんじと会うことはもうないけれど、元気でいてくれたらいいな~、とか思います。
 
 
とっても昭和の時代を感じさせる一枚だと思いませんか?
 
写真向かって右側に土の山があり、その奥に飯場があって、飯場の向こう側には畑が広がっていました。
 
キャベツ畑に、モンシロチョウの幼虫を取りに行ったりしてました。
 
 

下高井戸八幡神社ー階段の想い出

 
幼稚園に上がってからの話。
 
これはもう何歳頃の話か覚えていないんですけど、とにかくまだ幼い頃の話です。
 
家から徒歩5~6分のところに八幡神社がありました。
 
 
 
昨年の2022年に、下高井戸八幡神社に行った時に撮った写真ですけど何だか神々しいですよね。
 
当時階段ではなくて、土の坂になっていて下り坂になっていたんです。
 
幼い日のある日、僕は自転車で八幡神社に遊びに行った帰り、勢いよくその坂道を駆け下りていきました。
 
いつもは減速しながら下っていたのですが、その日に限って魔が差したのでしょうか、減速することなくブレーキをかけずに駆け下りていったのでした。
 
その刹那、悪い予感がしたのですが、そういう悪い予感て当たるんですよね~。
 
左側から走ってきた自動車と接触事故を起こしてしまったんです。
 
倒れて頭を打ったように記憶しているのですが、幸いにもお相手の車はそれほどスピードを出していなかったので大事故には至りませんでした。(あの時のお相手の方、本当にすみませんでした。m(__)m)
 
頭のレントゲン写真を撮ったのは覚えていて、頭から出血していたように記憶しています。
 
大事には至らなかったのですが、大事を取って、その頃予定していた家族旅行は医者から止められました。
 
旅行に行けなくなってしまったことを後悔しましたし、家族にも迷惑をかけてしまいました。
 
 
その後すぐに僕が起こした事故がキッカケで、階段がつけられたそうです。
 
母から聞いた話では、僕が事故を起こす前からたまに事故があって近所の住民から『階段をつけて欲しい』という声が上がっていたらしいです。
 
何はともあれ、その後すぐに取り付けられた階段によって接触事故はなくなりました。
 
僕は今でも、“下高井戸八幡神社に命を救ってもらった”と思っていますし、感謝しております。
 
僕に何かあったら、お相手の方にもご迷惑をおかけするわけでしたし。
 
あの頃一緒に住んでいた祖母や両親は旅立ってしまっているので、あの頃の実家は無いし下高井戸八幡神社に行くこともめっきり減りましたが、下高井戸八幡神社に感謝する気持ちはずっと残っています。
 
下高井戸八幡神社の階段をみると、あの日のことを想い出します。
 
 
今でもたまにお祭りの日には、同級生が何人か集まったりしますし、子供の頃の友達とか想い出って、ある意味僕にとっての“故郷(ふるさと)”だったりします。
 
 
 
 
 
 
皆さんの忘れられない想い出ってなんですか?
 
 
 
 
 
 
 
最後までお読みいただきありがとうございました。
 
 

あなたにとって、素敵で幸せな日常でありますように。

 
 
 
 
その2へつづきます