歴史の足跡

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『歴史憧憬のエッセー』(5)”縄文時代と弥生時代の光景”

2014-06-05 06:46:25 | 例会・催事のお知らせ
『歴史憧憬のエッセー』“縄文時代と弥生時代の光景”
日本の考古学・歴史学の中で関わりの少ない「縄文時代と弥生時代」を規定するならば、縄文時代が1万6500年前から西暦前300年の弥生時代の出現までとされている。また弥生時代は縄文時代の末期から西暦300年の古墳時代までとされている。縄文時代の名前の由来については土器に縄を巻き縄の模様を形を付ける土器を制作した時代に由来すると言う。縄文遺跡ついては「山内丸山遺跡」「亀ヶ岡遺跡」「尖石遺跡」から千葉県・神奈川県・愛知県・岡山県に「貝塚」が点在する。「弥生」の名前の由来については東京の弥生町の貝塚で発見された土器の特徴を弥生時代の制作として「弥生」と名付けられた。弥生遺跡には青森の「砂沢遺跡」東京の「弥生遺跡」静岡の「登呂遺跡」佐賀の「吉野ヶ里遺跡」などがある。日本人のルーツを探る場合、遺伝的にも顔や体格、骨格などを見ても縄文人と弥生人と現代人へと繋がって行ったかの推測・推定については北方から南下する土着民族と、南方方面より海流によって北上する漂着民族が長きに渡って先住民族として、縄文人として形成をしていたが、大陸での戦乱か何らかの理由・都合で、後発の弥生人となる民族の移動が大陸から朝鮮半島より大量に流入し、縄文人が飲み込まれていったのではないかとするのが、一般的である。縄文から弥生への従属者、征服者の熾烈な戦いの跡に人骨の破損や集落の破壊後を窺い知れる。1万6500年から住み続けた縄文人は北へ北へと移動を余儀なくされ、「記紀」に出てくる地方の豪族に天孫降臨の末裔によって征服されていくさまの光景が縄文遺跡から、弥生遺跡から窺い知れるものである。
しかし縄文人と弥生人の戦いによる征服だけでなく、融和・同化を繰り返しながら、大陸から離れた日本列島の位置条件が独自の民族風土文化を形成されていったのであろう。






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