八、「乙巳の変」の中大兄と鎌足
大化元年(645)六月十二日に古代最大の政変「乙巳の変」が起きた。大化の改新の起因となった「乙巳の変」は前兆として蘇我入鹿(そがいるか)の傲慢な振る舞いと、上宮家の山背大兄王(やましろのおえのおう)への襲撃であり、露骨な越権(えっけん)行為(こうい)が群下や豪族たちの反目を買った。
何より危機感を持ったのは中大兄皇子であった。次は自分かも知れない、そんな危機意識に察知し、そっと中大兄に近づく鎌足がいた。
「乙巳の変」の起る要因に蘇我氏の横暴があった。朝廷の政治を担っていた厩戸皇子(聖徳太子)が死去し、蘇我氏に対する抑えを効くものがいなくなって、蘇我の天下になってしまった。
その専横は天皇家を凌ぐほどになり、蘇我馬子が亡くなってこの蝦夷が大臣になり推古が後継者を決めずに崩御した。
有力な後継者に田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)がいて血統的には山背大兄王が優位だったが、有能な山背大兄王を嫌って蝦夷は田村の皇子(舒明天皇)を指した。
蘇我氏主導の政治に豪族たちは朝廷には出廷せず、蘇我家に出向く始末、舒明天皇即位の十三年後崩御、その後を皇后の宝皇女が即位し王権に就いた。
即位後蘇我家は天皇家しか許されない「雨乞いの儀式」を仏式の法り読経させ祈祷させたとこ呂雨は一向に降らず、翌月皇極が雨乞いをしたところ、雷雨になって五日間降ったと言う説話が残されている。
専横は止まる所知らずに、入鹿は蘇我の血を引く古人大兄皇子を次期天皇に擁立ためには、有力候補の山背大兄王を抹殺するために刺客を差し向けた。
巨勢徳多・土師娑婆連の軍勢は山背大兄王の斑鳩宮(いかるがみや)を攻め込んだ。必死の抵抗をしたが持ち堪えられず上宮王家は一族共々滅亡した。
これを機に一期に蘇我家に対する反目が皇族内、豪族内に広まって、中大兄皇子・藤原鎌足の蜂起に繋がって行った。
中大兄皇子(天智天皇)(西暦661年~668年)父は舒(じょ)明天皇(めいてんのう)、母は皇后で舒明亡きあと皇位を継ぎ皇(こう)極(ぎょく)天皇(てんのう)で蘇我系の血筋を引くにも関わらず対立をしていた。
中臣鎌足(西暦614年~669年)藤原氏の祖。父は中臣御食子、母は大伴夫人。中臣氏は代々神祇祭祀を司る家柄であった。鎌足は家業を嫌って病と称し三島(大阪府高槻・茨城付近)に引き籠っていたと言う。その後中大兄が通う学問所、南淵請安(みなぶちのしょうあん)の許に通い接触し結び、蘇我入鹿の打倒に協力し大化の改新を進めた。
乙巳の変に参画した蘇我入鹿の包囲網の面々は、首謀者の若き中大兄皇子は十九歳、この時すでに中大兄には蘇我倉田山石川麻呂の娘の遠知娘の間に大田皇女・持統も生まれていた。
蘇我も傍流の倉田山石川麻呂も本家とは敵対する中大兄の姻戚関係で阻害されていたのか、すでに入鹿打倒の計画に参画をしていたのだろう。そして企画演出者の鎌足は三十一歳であった。
記述によると物語はこう伝えられている。
入鹿暗殺当日は、三韓進調の日の儀式に決定され、石川麻呂が三韓の国書を皇極天皇の前で宣読する役で、勿論蘇我入鹿も左大臣として出席をする。そこに佐伯連子麻呂が切り込み一太刀を浴びせる手はずが中々出てこない。
その内に石川麻呂は震え汗が出る始末、不審に思った入鹿は尋ねた。「どうして震えているのか」
「大王の前で畏れ多く緊張しているのです」と石川麻呂は答えた。
その場を取り繕ったが、中々斬り突ける者が居ない。それもそのはず権勢を誇って、その威の恐れて斬り蹴られるものはいない。
見かねて中大兄が気合い諸共に「やあつ!」と切りつけた。続いて子麻呂も斬り付けた。
不意を突かれた入鹿は動転し、立ち上がろうとすると、又も斬り付ける。傍若無人の入鹿も。玉座まで転がり、土下座をして命乞いをした。その惨劇を見て皇極は「いったい何事だ!」と中大兄に尋ねた。
「大王家を滅ぼし、王位を傾けようとしております」
余りの突然に何も言わず宮中に入ってしまった。その後、尚切り付け続け入鹿も絶命、雨の降りしきる中、入鹿の遺体に菰がかけられた。
この場面を一部始終見ていた古人大兄は、謎めいた言葉を残し甘樫丘の私邸に引き籠った。
王族は蘇我の反撃に備えたが、高向国押ら説得で蘇我入鹿らは自決し事態は終結した。
この蘇我本家の滅亡後、大化の改新へと大きく舵は切られた。
★中大兄皇子・天智天皇(626~671)葛城皇子・開別皇子とも言う。父は舒明天皇、母は皇極天皇。同母兄弟に大海人皇子(天武天皇)間人皇女がいる。異母兄に古人大兄皇子がいる。古人大兄の妹倭姫を皇后とし『日本書紀』によれば八人の嬪に四人の皇子と十人の皇女がいたが血筋の良い皇子に恵まれず、後継者で後々問題の起ることになる。
★藤原(ふじわら)鎌足(かまたり)(614~669)藤原氏の祖。本姓は中臣連鎌子と言う。父は中臣御食子、母は大伴夫人。子に不比等・定恵・氷上娘・五百重娘がいる。
中国からの僧旻に学んだ。家業は神祇祭祀を継がず、政治に志した。乙巳の変も大化の改新も、外交、内政にも関与したようである。藤原氏の氏寺興福寺を興した。
※乙巳の変は大化の改新に繋がり、一体のもので蘇我本家の滅亡が何故、改革に繋がったのかそれは仏教伝来とともに大陸の中国文化の導入にあったと思われる。乙巳の変でも活躍した高向玄理(タカムククロマロ)による学識が要因だろうと思われる。高向玄理(?~655)高向(たかむく)黒(くろ)麻呂(まろ)ともいう。
官人。百済系渡来人の漢人(アヤヒト)推古朝から舒明朝まで隋・唐で留学。乙巳の変後新政権で国博士に登用された。遣新羅使にとなり金春秋を伴い帰国。新羅と接触したのち入唐し唐高宗に謁見し緊急時には新羅を救援せよ、お墨付き状を授かる。帰国することなく唐で客死する。こう言った学者らがもたらした文化が大化の改新の原動力となった。
また「乙巳の変」の政変は軽皇子の首謀説があって、軽皇子の本拠地が難波周辺にあって遷都をにらんだ変後の布石とも思われている説。また皇極天皇と中大兄皇子との不仲説などがある。