1週間ほど前にようやくジッドの『狭き門』を読み終えました。
日本の作家の小説ばかり読んでいた私にとっては、訳書はやっぱり読みにくかったですね。
独特の言い回しとかが伝わりにくくなるし、小説はやっぱり原書のまま読むのがよさそうです。
とはいっても英語ならまだしも、フランス語となると原書では全く読めないわけですが……
さて『狭き門』ですが、”文学少女”の7・8巻を読んだ当初の印象は、
冬の朝のような気高く凛とした雰囲気だったんです。
しかし読み終えてみるとそんな綺麗なものではなかったです。
いや、正確に言うと「綺麗なものだけではなかった」というべきでしょうか。
以下ネタバレ防止のため背景と文字を同色にしています。
が、駄文のカタマリです……(;´~`)
物語の主人公であるジェロームと幼いころから相思相愛の中にあった従姉のアリサは、 彼との結婚に悩んだ末に地上での幸福を放棄し、神への愛を貫き、 最終的にジェロームとの結婚をあきらめ独り死んでしまう。 そんなあらすじだけを聞いていると、とても崇高なものを感じるのだけれど、 物語の最後の部分、アリサの書いた日記において彼女は悩み、苦しむ。 崇高、しかして劣欲。 それが読後の端的な感想であり、そしてそれはまさしく人間というものの姿だった。 人間の美しさと醜さを清潔感ある文体で書き切っているという意味で、いい本を読んだなと思った。 しかしながら、非キリスト教徒の私からするとアリサの選択はいまいち理解しきれない。 狭き門というのは、独りで生きることよりもむしろ、他者と交わりながら生きることではないだろうか、と思う。 本当に独りで生きることはできず、思うままに生きることは難しい。 他者からの干渉を本当の意味で避けるならば無人島にでも行けばいいが、 それでは今度は思ったことができなくなる。結局のところ人の居る中でしか独りで生きることはできず、 それは他者に依存した上でのみ成り立つ傲慢な生き方になってしまうのではないか。 そしてその擬似的な孤独はたくさんの人と交わりながら苦しみ傷付く生き方よりもたやすい。 ここまで書いてふと気づく。 要するに、人間である限りはどちらに行こうともエゴなのだ。どこまで行ってもエゴなのだ。 さて。それを知った上で私はどちらの門を選ぶ? |