1984年閉校【土淵小へ統合】
・コメント
遠野市北東部、土淵町にあった学校。へき地等級は無級でした。
更に北部の琴畑に分校を持っていました。
学校周辺には田園風景が広がっており、学区の基幹産業は農業となっています。
開校は1877年。
昭和20年代は3~4学級、昭和30年代は4~6学級、昭和40年代は概ね6学級、昭和50年代以降は児童数が急減し4学級以下で推移したようです。
旧川井村との境にある恩徳地区は7km程離れているため、児童は国鉄バス(遠野北線、1990年代前半に廃止)で通学していました。
学校跡は工場に転用されていましたが、最近は動いていないようです。
校舎と校門、記念碑が残されていました。
校舎はブロック造2階建てで普通教室3、特別教室5(理科室、音楽室、視聴覚室、集会室、児童会室)、特別室6(職員室、保健室、教材室、管理室、放送室、校長室)という配置でした。
1968年に建てられたもので、同時期に設計されたと思われる鷹鳥屋小学校や長野小学校とよく似た建築様式です。
両端や隔壁はブロック造ですが、プレハブ感が強い校舎です。
校舎西側に新しいプレハブの建物が繋がって建っていますが、これは工場に転用した際に新しく建てたもののようです。
体育館はすでに解体されていました。
校舎の後ろにのびるボイラー&便所棟につながっていたようです。
校庭は一部舗装されており、それ以外の部分は草が茂っていました。
校庭の南端には記念碑群がありましたが、フェンスの内側だったので遠くから眺める程度にしました。

校門から校舎を眺める

校舎裏手

校庭
・コメント
遠野市北東部、土淵町にあった学校。へき地等級は無級でした。
更に北部の琴畑に分校を持っていました。
学校周辺には田園風景が広がっており、学区の基幹産業は農業となっています。
開校は1877年。
昭和20年代は3~4学級、昭和30年代は4~6学級、昭和40年代は概ね6学級、昭和50年代以降は児童数が急減し4学級以下で推移したようです。
旧川井村との境にある恩徳地区は7km程離れているため、児童は国鉄バス(遠野北線、1990年代前半に廃止)で通学していました。
学校跡は工場に転用されていましたが、最近は動いていないようです。
校舎と校門、記念碑が残されていました。
校舎はブロック造2階建てで普通教室3、特別教室5(理科室、音楽室、視聴覚室、集会室、児童会室)、特別室6(職員室、保健室、教材室、管理室、放送室、校長室)という配置でした。
1968年に建てられたもので、同時期に設計されたと思われる鷹鳥屋小学校や長野小学校とよく似た建築様式です。
両端や隔壁はブロック造ですが、プレハブ感が強い校舎です。
校舎西側に新しいプレハブの建物が繋がって建っていますが、これは工場に転用した際に新しく建てたもののようです。
体育館はすでに解体されていました。
校舎の後ろにのびるボイラー&便所棟につながっていたようです。
校庭は一部舗装されており、それ以外の部分は草が茂っていました。
校庭の南端には記念碑群がありましたが、フェンスの内側だったので遠くから眺める程度にしました。

校門から校舎を眺める

校舎裏手

校庭