今日はお彼岸の入りの日です。今週末にかけてたくさんの方々がお墓参りにこられると思います。
道中、くれぐれも気をつけておいで下さい。
ご存知の方も多いと思いますが、チベットのラサで独立への抗議行動が行われ、その結果中国軍が介入し、80人あまりの方々の命が失われました。
ビルマでもそうでしたが、抗議行動をとられた方の中には僧侶の姿がありました。同じ仏教を奉ずるものとして、こういった行動への軍政の武力での対応には強く抗議するものであります。
ダライラマ14世法王が、国際的な独立調査団の現地立ち入り、調査が望ましいと会見で述べておられます。
チベットのおかれている現実が、しっかりと世界中に伝えられ、これ以上の犠牲が出ないことを切に望みます。
「地藏堂の秋」
子育て地藏様のおはなし、今回が最終回です。
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子育地蔵、災除観音の由来記 ③
内山 義則
そんなある日、掘り出されたお地蔵さまや観音さまに、
いつまでも名前がないのではお参りするのに都合が悪かろうと、
慈宗老師を含めた町内の有志が集まって名づけの会議をすることになりました。
会議の中ではいろんな霊験や様々な奇跡が話題に上りました。
仏さまが発掘されたときから毎朝、石の仏さま達の体を洗いつづけていた
派出所前の伊藤のお婆さんは、十年来の神経痛が治ったと言う話や、
狐小路の飲み屋の女性が、湿疹ができたのでお地蔵さまを洗った水で体を拭いたら、
たちまちきれいになったという話も出ました。
お地蔵様に子供の病気のことを教えてもらったとか、
また私自身も、妻との間に十二年間子宝に恵まれなかったのが、
お地蔵さまにお願いしたら男の子を授かるという幸運にあいました。
そのようなことから、お地蔵さまには子供の健康を守る「子育て地蔵」、
観音さまには出征兵士や残された家族、地域住民らの災難除けのために「災除観音」と命名することになりました。
昭和20年3月9日夜から10日朝にかけての大空襲によって、
東京は一面焼け野原と化し、筆舌に尽くしがたいほどの惨状の中で私達は終戦を迎えることとなりました。
死を覚悟しながら地獄のような毎日を過ごし、それでも死なずにいられたのも災除観音さまのおかげと、
終戦の日から数日後、私たち夫婦は倫勝寺の仏さまを探しに出かけました。
逆井橋に立って小松川二丁目の方を眺めても、見えるのはただ一面の焼け野原と、
その中にポツンと立つ工場とお風呂屋さんの煙突だけ。
お寺があったと思われる場所は低地で水が溜まり、戦争の悲惨さにあらためて涙がこぼれる思いがしました。
しかし、瓦礫に足を取られながらよくあたりを捜してみると、
お地蔵さまと観音さまは、黒焦げになりながらも以前と変わらぬお姿で元の場所に立っておられたのでした。
その有難さと不思議さに、私たちは思わず合掌せずにはいられませんでした。
その後、倫勝寺は以前あった所が工場になるために現在の場所(注・旧小松川倫勝寺のこと)に移転し、
本堂前に幼稚園を建て、その入り口にお地蔵さまや観音さまをお祀りして御供養を続けるようになりました。
お参りが盛んだったころには、お地蔵さまや観音さまの御姿が印刷された御札が発行され、
出征兵士の家族達は、こぞって観音さまの御札を戦地への慰問袋に入れて送っていました。
また、子供のいる家庭にはお地蔵さまの御札が必ず一枚、家のどこかに貼ってあったものでした。
現代でも表に出れば交通事故、家の中にいてもケガや災難はついて回ります。
子育てに、家族の厄除け、健康のために小松川倫勝寺の「子育て地蔵さま」
「災除観音さま」に私の体験からしても一度お参りになることをお勧めします。
(おわり)
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今日のおまけ
ユキヤナギが咲き始めました。
これからいろんな花が咲き出します。花見のシーズンも、もうすぐですねえ(^^♪
今日はここまで。
言問橋の悲劇を見て子供たちが固まっていました。
チベット、ビルマ、ダルフール、いろんなところで紛争や殺戮がいまこの瞬間もおこっているのかとおもうと、私達になにができるかを考えざるをえません。
小さいことかもしれませんが、このブログからも何かを発信できればとおもいます。
お地蔵さまのお話興味深く読ませていただきました。
お参りする都度焦げたように見えて向き合っていました。
お話を伺ってジイ~ンとしほっといたします。
チベットのことも、世界が何故平和になれないのか、何故人を殺すのか、むさぼる心は何なのか、心を痛める毎日です。