前回からお地蔵さんのお話を書いています。
今回は第二回目。
「初夏の地藏堂」
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子育地蔵、災除観音の由来記 ②
内山 義則
祭壇を造り、毎朝派出所の水道でお体を洗ってご供養していたところ、
このことが読売新聞に掲載され、
また、永く地下にあって掘りだされた石仏は
人々に幸福をもたらすと言う信仰から、
都内はもとより神奈川、千葉、埼玉から御利益にあやかりたいと願う参拝の人が
数多く訪れるようになりました。
浅草の観音さまも最初は川から拾い上げられたと言うし、
将来参詣者も増えて益々賑やかになるだろうと
町内の有力者や国防婦人会、愛国婦人会、町会などの寄贈で立派なお堂ができ、
大提灯、紫幕、鈴、賽銭箱なども整えられ、
一時は夜でも参拝者が絶えることがなかったほどでした。
ところが、法律で、路傍の石仏等は寺院に収容しなければならない決まりとなり、
更にお祀りしてある場所が小松川から亀戸九丁目に渡る橋なので、
交通に差し支えるから場所を移動するようにとの小松川警察署からの通達があり、
世話役一同は思案にくれてしまいました。
結局「内山さんが最初の関係者だから」、と言うことで私に始末する役目がまわってきました。
私は、仏さまのことでもあり、拾い上げたこの場所を移すのはよくないとも思ったので、
いいかげんな場所にお祀りするのは反対だと仏様をお移しすることに応じませんでした。
そのころ、元小松川警察署の跡地が馬場慈宗老師に譲渡され、
老師はそこに倫勝寺を開いて広く仏道教化に活躍されていました。
お地蔵さまの話を聞いた慈宗老師は、よろしければ私が一切をお引き受けし、
寺の正面玄関横に安置してご供養いたしましょうと申し出てくれました。
お寺様であれば大丈夫と世話役全員の意見が一致し、
掘り出された場所で法要を行ってから倫勝寺へお移しするということになりました。
四月十五日の夜、僧侶五名を従えた慈宗老師のお導きによって、
厳かに移転法要が執り行われました。
町会や婦人会、各種団体の代表、小学生児童達が参列焼香し、
私が一番目にご焼香をさせていただきました。
その夜、紙芝十組は各戸に提灯を出してこの法要のお祝いをし、
婦人会は赤飯を炊いたり、子供たちにはお菓子や鉛筆が配られたりしました。
法要が終わった後、参列者や役員に酒肴がふるまわれました。
子供たちの健やかな成長と、戦地へ出征して行く若者達の無事を祈って
石仏達は倫勝寺へと移されたのでした。
それ以来、不思議なことに派出所の板張りの床は湧水することはなく、
また水死体が橋のたもとによりつくこともなくなったのです。
倫勝寺では掘り出された二十九日を縁日として境内に夜店や紙芝居などを出し、
うわさを聞いた参拝者が遠方からもお参りに来て賑わいを呈するようになりました。
以下次号
今日のおまけ
前日おまけで紹介した木蓮がだいぶ咲きました。
桜も絶好調です。
開きかけの木蓮には、恥じらいと言うか、セクシーさと言うか、うーん、
言葉に出来ない美しさがありますね。
冒頭の花は「さんしゅゆ」です。かわいらしい花が集まって咲いています。
今日はここまで。