保護司になって19年、早いものです。
先日、ある所から保護司のお話を書いてくれと原稿依頼がありました。
いろいろと悩んだ挙句、下記の拙い文章をお渡しすることになりました。
ご笑覧ください(タイトルや文章の一部を変えてあります)。
・・・・・・・・・・
『初めての少年、彼は15歳だった』
「地区の保護司さんが辞めてしまって困ってるんで、方丈さん、やってくんないかなぁ」
知り合いの石屋さんからざっくばらんな様子で口説かれたのは、年末の忙しい時期、境内のトイレを掃除していた時でした。
私が生まれ育ったところは山形県の内陸地方、田んぼの広がる田舎の村。平和な村でした。
保護司が関わるような事件や事故も殆どなく(実際はあったのでしょうけれど)、子供の私は何も知らずにのんびりと育ちました。
ですから保護司のなんたるかも知らず、困ってる人がいるならじゃあ一肌脱ぐかと能天気に受けてしまったお役目は、
驚きと戸惑いと失意と怒りといろんな感情が入り混じる、長谷川平蔵を夢想していた私にとっては想像以上に大変なお仕事でした。
2001年2月11日に辞令をいただき、戸塚区の保護司として活動を始めることになりました。
最初に引き受けた対象者はまだ15歳。中学を卒業したばかりの子供でした。
夜遊び、万引き、窃盗で補導され、都内の親元を離れて戸塚区に住む知り合いの土建業の親方に預けられた子でした。
初めての対象者でしたからこちらも意気込んで相手をしたのですが、かえってそれが良くなかったのかもしれません。
兄貴分の同僚に連れられて面接には来るのですが、向かい合って席についても何もしゃべらない、泣きそうな顔をして下を向く、
押しても引いても上げても下げてもただ黙って時間を過ごすだけ。
たまに喋れば「この前、朝方に駅前で同じ年頃の地元のヤツらにからまれた」「親なんか嫌いだ」。
心の内を知ることなどとてもできない状況が続きました。
観察の終わる20歳すぎまでこのままか・・とうんざりしていたところ、親方から本人がいなくなったと急報がありました。
観察所に連絡し、東京下町に住むご両親に会って状況を説明し、と慌ただしい中に心配が募る日が続きました。
その後10日ほどして都内で自転車窃盗の現行犯で補導され、また戸塚に戻されることになったのですが、
彼はその後も仕事先からの逃走を繰り返し、結局両親が引き取るという形で都内の保護区に担当変更となり私の最初の保護観察は終了となってしまいました。
あの時あんな対応をしていなければ、こういう話し方があったのではなかったか、
もうすこし自分に怒りをおさえられるだけの自制心があれば・・いまでもこの事案が悔やまれてなりません。
あれから19年。私も長年お勤めさせていただいたご縁で表彰などもされるようになりましたが、いまだにこの案件が心から離れません。
彼が元気でいればもう34歳になっているはずです。
今どのよう暮らしているのか、良い方向にいっていればよいが、まさか反社会集団に・・などいろいろと考えてしまうこともあります。
2038年9月30日が私の保護司定年の日になります。あと18年。
最後の時まであの少年のことは忘れられないでしょう。いや、忘れずにいなければならないのだと思います。
・・・・・・・・・・
保護司のお仕事はけっこうタイヘン。
対象者(いろんな罪を犯して保護司の指導を受けることになった人のことをいいます)にもいろんな人がいます。
何でこの人がこんな罪を・・という人がいれば、ああ、やっぱりしょうがないな‥という人もありなのです。
ほんの少しだけどその方の人生に関わらせていただく、というのはやはりある意味覚悟がないといけないな、と思います。
覚悟がないまま関わった、最初の対象者。
申し訳なかったな、という悔いばかりが残る19年前のお話でした。
・・・・・・・
フジのX-T100というカメラを下取りに出して、中古のツアイス Touit 1.8/32 というレンズを買いました。
キレ良し、ボケ良し、サイズ良し、であります。
保護司の文章に挿入してある写真は X-e3 に Touit をつけて撮ったもの。
うちのサンゴちゃん、可愛く取れました (⋈◍>◡<◍)
冒頭のユキヤナギと以下の写真は、ペンタックスk-1改に DFA100macro のセット。
今朝は雨が降ってましたが、雨粒も以前とは違ってほんの少し温かく感じられました。
今日は東京大空襲のあった日です。私が生まれる、ほんの15年前の出来事。
忘れてはいけません。
今日はここまで。