『心得たと思うは、心得ぬなり』
ある方丈様から聞いたお話しです。
歩道橋を渡ろうと階段を昇った時のこと。見上げると階段中ほどのところを、高齢の方が昇って行くのが見えました。
脚が不自由らしく、一段上がっては左足を持ちあげ、また右足を載せては左足を持ち上げるという動作を繰り返しています。
買い物帰りらしく、手には牛乳の入ったスーパーの袋を提げています。昇るたびに身体がゆらゆら揺れて、今にも階段から転げ落ちそうです。
危なっかしいなあと思って見ていると、案の定、バランスを崩して手摺に身体をぶつけてしまいました。
あっと思って駆け寄り、手を貸そうと「大丈夫ですか?危ないですよ!」と声をかけた瞬間、「そんなことはわかっています!」と凄い顔で睨まれてしまいました。
介助どころか、その方が歩道橋を渡り終えるまで後ろをついて行くだけになってしまいました。
何日かした後、ハッと気が付きました。
「そうか、本願寺の蓮如上人がおしゃっていた『心得たと思うは心得ぬなり』とは、このことか。」
現代の言葉に直せば「わかっていると思うのは、わかっていないということだ」ということでしょう。
蓮如さまの言葉は
「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。
少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり」
と続きます。
私はまだまだ御仏の教えを心得ていない、そんな私を阿弥陀さまがお助け下さる、なんと有難く尊いことであろうか。
謙虚に教えを聞くことが、真に心得たということだ、ほんの少しでもわかったなどと思ってはいけない、というのです。
わかっていると思ったその瞬間に、阿弥陀さまの救いの手が満ちた世界に生きていることに気づくことができなくなってしまうのです。
この御老人にしても、自分の足元が危ないことはわかっているのでしょう。
しかし、声をかけた人の心はわかっていません。
「わかっている」といったとたん、人のこころがわからなくなってしまっているのです。
自分の心に縛られて、温かな手を差し伸べてくれている方の心に気づくことができなくなっているのです。
あの御老人にはありがたい気づきを頂いたことだ、といったあと、方丈様は次のように続けました。
「でもなあ、私も自分の親や師匠にどれだけ『そんなことはわかってるよ、うるさいなあ』と口答えをしたことか・・・
いまさらながら、あの時の自分の未熟さを愧ずるばかりだ。
弟子や孫のことを想っての言葉だったはずなのに、それに気づくこともなく年月を過ごしてしまった。
オレがオレが、私が私が、の心に縛られてしまうと、何にも見えなくなってしまうんだな・・・。」
口答えしたり、不貞腐れたりは誰にでも経験があることかもしれません。
恩返しをすることもかなわない遠くに旅立った方々の私たちに対する想いに気付いた時、私たちは何をすればよいのでしょうか?
自らを省みて、謙虚であることを忘れずにいたいものです。
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昨日の激しい雨でモミジが洗われ、輝くような緋色になりました。今日明日が一番の見ごろでしょう。
今日はここまで。
さんぜのまなざし goo別院 1412
そういうときは意地悪せずに、躊躇もまた我の強い意地悪、お年寄りを見かけたら、なあんにも思慮せず真心だけでやんわり支えて差し上げるのが正しい。