障害児と学校 → 頑じいの歯ぎしり

障害がある子とない子と → 頑固爺の「ごまめの歯ぎしり」

原発が安上がりというウソ

2017年07月18日 | 歯ぎしり
 使用済み核燃料の再処理工場の建設費が7500億円も増えたことを経済産業省の認可法人が正式に公表しなかったのは、経産省の指示だったことが分かりました。(テレビ朝日系(ANN))

 やっぱりね。「原発が一番安上がり」というウソの一部・・・。

6月28日記事

2017年07月02日 | なし

ニッポン礼賛

2017年07月01日 | なし
 長崎新聞6圧28日の記事です。「テレビや書店に『ニッポン礼賛』があふれて久しい」「これらの多くが個々の技術やサービスの『すごさ』にとどまらず」「だから日本『人』はすごいという論理が接続されている」「すごい日本に住む自分もすごい」という感情やイデオロギーとしての機能を果たしている」という記事文があります。
 そうです、ここには皇国史観の影響が色濃くあります。つまり彼らが言う「自虐史観」の裏返しなのです。
「俺はすごい」「俺はすごい」と言って回るのは、ふつう恥ずかしいいことではないかと思うんですが、恥ずかしいと感じない人もいるのですね。

ありがとうございました。

2017年06月28日 | なし
 ブログを再開したのは4月半ば、それから2か月毎日毎日書きたい放題のことを書いてきた。偉そうに……上から目線で。客観的にみればおいぼれの世迷言なのに。「歯ぎしり」も世迷言。
 言いたいことも尽きたし、気力も衰えた。初めがあれば終わりがある。そろそろいいころか。ブログを毎日更新するのは、これで終わり。あとはときどき気がむいたときに世間話をしようと思う。    

「障害」ということば

2017年06月27日 | ことば
障害のことを「障害」というのは仕方がない。障害という事実があって、その現象を著す言葉が必要であり、現実には「障害」という言葉しかない。字面にこだわって「障がい」なんて書いたって、「じゃ、障のほうはいいのか?」ということになる。
 障害児・者に障害があるのは事実であり、障害そのものは一つの個性である。恥でも何でもない。障害児を支援するのは当然である。それを「障害児教育」「障害児学校」と言わずに「特別支援教育」「特別支援学校」と命名した感覚のほうがずっとおかしい。

ドンケツを追い出せば

2017年06月26日 | 教育
2・30人の子どもがいれば、その中に団体行動に追いつけない子どもが必ず何人かいる。その子にとって団体行動訓練は苦痛以外の何物でもない。また訓練の実施者やほかの子は、その子を追い出したい欲求を必ず感じる。
全国学力調査という名前の「数字で表せる学力競争」では、それが学校や校長や学級担任の成績、予算、給与につながるだけになおさらである。障害児を特別支援学級・学校に追い出せば成績アップは簡単だ。一番下を追い出せば新しい一番下が生まれる。それも発達障害という新たしい障害児に仕立てれば………

黙祷をお願いします

2017年06月25日 | ことば
 東北大震災慰霊祭のニュースで「黙祷! をお願いします」という場面があって、とても珍しいなと思った。「黙祷!」というのは命令形だが「黙祷をお願いします」というのは命令ではない。つまり「黙祷!」でタイミングを揃えてその後命令形を回避したわけである。そういう配慮が必要だと感じるだけ世間の言語感覚は変わってきているのだけど、もう一歩進んで黙祷を1秒の誤差もなく一斉にする必要があるのか考えたい。初めから「黙祷をお願いします」と言えば、黙祷の開始に4・5秒のばらつきが生じるかもしれないけれど、それでどれほどの不都合があろうか。「言語感覚」から「個の尊重」に感覚を進めてほしい。

この学歴があってこそ

2017年06月24日 | 歯ぎしり
東京大学法学部卒業、ハーバード大学留学という華麗な学歴で、問題続出の自民党2期目の国会議員がまたまたやってくれた。人格を疑う暴言、暴力、私は泥酔状態だと思ったのだけど、まったくの素面だったらしい。「学歴と人格は無関係、そんなことはわかっているじゃないか」と言われるだろうけど、現にこの人が国会議員になったのはこの学歴があってこそ。現役学生やまだ若い人が学歴を問われるのはいいとしても、卒業後何十年もたった人まで学歴をぶら下げ、一般社会の側がそれを認めていていること、例えばメディアが学歴を前提としたクイズ番組を作ることが学歴社会を増長させているのではないだろうか。


号令

2017年06月23日 | ことば
団体行動を統率するのは、号令である。「前に倣え」「右向け右」「前に進め」号令は命令形である。完璧にタイミングをそろえるためには「まわれー右」というふうに「予令」をする。予令しなくてもそろう状態の時は「礼(をせよ)」となる。統率の方法には号令のほかに「合図」がある。合図は指示ではあるが命令ではない。合図には音による合図、動作による合図などがある。ホイッスル、バトンや指揮棒がこれに当たる。

韓国、脱原発

2017年06月22日 | 歯ぎしり
昨日の新聞報道では、韓国の新大統領が脱原発宣言をした。現在、世界では60基の原発が稼働しているといわれ、アジアでは韓国が25基で最大の原発大国であり、前政権までは推進政策をとっていた。脱原発の方針を明確にしたのは、欧州ではスイス、ドイツ、アジアではベトナム、台湾に続く3国目である。
原発が発電所だけに限れば一番コスト安であることは事実であり、新興国の間ではまだまだ建設をめざす国がある。日本は民主党政権時代に脱原発宣言をしたが、自民党政権に戻って消えてしまった。日本が原発に執着するのは、自治体に対する交付金等発電所外での潤いのほか、豊富な技術と経験を売り物にした新興国向けの発電所建設売り込みがあるからである。


団体行動の必要性

2017年06月21日 | 歯ぎしり
 オリンピックなど国際的なスポーツ行事の開会式・閉会式で見られる光景であるが、一糸乱れず行進する国と日本人の感覚ではだらしなく見える国がある。だらしなく見えるのは個人主義の国である。日本も戦後は「国」ではなく「民」が主になった個人主義の国であるはずだが、日本人は戦前の感覚・習慣を引きずっていて団体行動に抵抗を感じない。個人主義の国の学校では「まえにならえ!」がない。なんでまっすぐ並ぶ必要がある。所属がわかり話が聞こえる範囲で集まればいいじゃないかと考える。
 日本が民主主義の国であれば、自衛隊、警察、消防の個を捨てることが必要な職業に就いた人、個人の好みでマーチングバンドやチアガールなどに所属した人だけが団体行動の訓練をすればいい。他の国民は災害時の防災訓練以外の団体行動は必要ではない。だから学校教育の場では団体行動訓練は必要ない。しかし、現在日本政府は学習指導要領で学校で団体行動訓練をすることを義務付けている。日本の学校教育は著しく個の尊重という思想が欠けている。これがおもしろくない学校、息苦しい学校を作り、いじめや不登校を生んでいる。

個人主義

2017年06月20日 | 歯ぎしり
 現在の日本では、学習指導要領によって学校がちゃんとした歴史を教えないので、若者は残念ながら歴史を知らない。そんな若者に少し説明したい。
「個人主義」を「利己主義」と混同しないでほしい。利己主義とは「自分さえよければ他はどうでもいい」という通常は個人の性格や情緒の表現である。しかし、「アメリカファースト」のように国家としての利己主義を主張する国家もある。国家はどこでも本音の部分では利己的ではあるが、これまで恥ずかしげもなく公表する国はなかった。
 対する「個人主義」は、国家や社会体制の表現で、「個人主義」に対するのは「全体主義」である。「個人主義」では個人の権利尊重が大切で、「民」を「主」とする民主主義はこれに当たる。これに対して「全体主義」では「個人より全体(国家や社会)のほうが大切だ」という考えで軍国主義などがこれに当たる。
現在の国際社会を見渡すと、共産主義国家に全体主義的傾向がみられる。もっとも民主主義国家であるはずだけど「個人は国を守るために戦え!」とわめく政府もどこかにあるが………。これこそが全体主義であり、「たとえ国が滅びようともオレは戦わない」というのが個人主義である。


非核2原則

2017年06月19日 | 歯ぎしり
 国連の核禁条約制定会議に参加しない日本政府の態度に関する、長崎市長の参加要請を伝える被爆者団体に対して日本の国連大使は「日本は『核の傘』で守られているから」という理由でこれまでどおりの不参加を表明した。
 ところで一方で、日本は非核3原則によって「日本の領海を含む国土」に核はないことになっている。いったい日本を守っている「核の傘」の核はどこにあるのだろうか?


2こ上の先輩

2017年06月18日 | ことば
「ダイジョーブす」がどう言ったらいいか適当な言葉が浮かばないときのための用語であるのに対し、「2こ上の先輩」はもちろん「歳」とか「学年」とかの正しい用語を知っているけれど、はやりの言い方のほうがかっこいいからという理由で使っている。
「ダイジョーブす」が一形容動詞の問題であるのに対して、「こ」は助数詞系列全体に影響が及ぶので問題が大きい。つまり「3この人」とか「2この手袋」というような言い方も発生する。このさい「手袋」のように「つがい」のものは何双の手袋を意味しているのか、「片っ方の手袋」をどう言うのかなど煩雑な問題が生じるおそれがある。


自分と私

2017年06月17日 | ことば
「自分」という言葉は、本来「自分自身」「おのれ」の意味である。
軍国時代の日本、陸軍では新兵に対するいじめが過酷だった。個を捨てて全体に尽くす軍人を作るため、自分を「私」とか「僕」とか呼ぶことを軟弱だとして禁止した。「『わたし』だと‼お前はそれでもきんたまがついとるのか。自分のことは『自分』と呼べ!」つまり一人称としての「自分」は陸軍発祥である。スマート好みの海軍では「わたくし」だったと思う。
 当然この用法は占領時代中消滅していた。ところが敗後10年目の1956年、日本は国連加盟が認められ被占領状況が終了した。と同時に「逆コース」時代が発足し、一人称としての「自分」も復活した。私が復活した「自分」を初めて聞いたのは現役の柔道選手山下泰裕さんからである。つまり陸軍用語から体育会系用語として復活した。現在も高校・大学の体育会では相当の普及率である。残念ながら日本語に定着したようだ。 何も軍隊が陰湿ないじめに使ったことばを復活しなくてもねぇ。