歴史探偵さかもとさん

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【神仏習合の面影を色濃く遺す和志取神社】歴史探偵さかもとさん

2017-12-12 10:07:24 | 日記
【神仏習合の面影を色濃く遺す和志取神社】歴史探偵さかもとさん

歴史探偵 さかもとさんがゆく!!【和志取神社】

創立については不明な点があるが、『延喜式』巻9・10に記載された古代の碧海郡6座のうちの一つとされる。創建は奈良時代にまでさかのぼって考えられ、碧海郡下の駅家郷や鳥取駅家との密接な関係が推測される。平安時代末期から鎌倉時代にかけて成立したとされる『三河国内神明名帳』に、「正五位下鷲取天神」と記されている。
祭神は五十狭城入彦皇子。西本郷町の蓮華寺の西に和志山古墳と呼ばれる古墳がある。すなわちこれが五十狭城入彦皇子の墓である。
1870年(明治3年)に長谷部神社と改称。1874年(明治7年)5月、教部省の指令で式内和志取神社とされたが、翌1875年(明治8年)2月に取り消され旧称に戻った。1879年(明治12年)に未定式社和志取神社の社号を認められ、1916年(大正5年)12月28日、郷社とされた。
明治時代初期の廃仏毀釈の折、境内にあった大日堂が東隣に移転する。大日堂所蔵の木造金剛界大日如来坐像と木造聖観世音菩薩立像は1961年(昭和36年)3月30日に岡崎市指定文化財目録に指定されている[2]。
江戸時代から明治の中期頃までは、本神社の祭礼といえば「おまんとう」または「オマント」であり(馬之塔の意)、煙火が上がるのが通例であった。
毎年、祈年祭、春季祭、例祭、新嘗祭と4回大祭が行われている。特に秋の新嘗祭では、豊年を祝う甘酒祭が1915年(大正4年)から今日まで続けられている。また、矢作西小学校の児童が浦安の舞を受け継いでいる。


神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象[1]。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。

Wikipediaより抜粋

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