歴史探偵さかもとさん

岡崎・三河の歴史を紹介しています

古墳シリーズ【宇頭2号北裏古墳】 歴史探偵さかもとさん

2017-12-31 14:42:37 | 日記
古墳シリーズ【宇頭2号北裏古墳】 歴史探偵さかもとさん


歴史探偵 さかもとさんがゆく!!【宇頭2号北裏古墳】
岡崎市宇頭町の宇頭古墳群は、北部古墳群3基と、南部古墳群8基、和志山古墳群5基からなる古墳群。
2号北裏古墳は、大塚古墳(薬王寺)の北西に位置し、現在は大塚公園となっている。円墳で、直径27m,高さ4m
小針町の大友皇子の墓と伝わる、小針一号古墳によく似た大きさと雰囲気です

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古墳シリーズ【和志山古墳(五十狭城入彦皇子の墓)】歴史探偵さかもとさん

2017-12-31 01:21:39 | 日記
古墳シリーズ【和志山古墳(五十狭城入彦皇子の墓)】歴史探偵さかもとさん

歴史探偵 さかもとさんがゆく!!【和志山古墳(五十狭城入彦皇子の墓)】
愛知県岡崎市西本郷町にある、和志山古墳です。
このお墓は墳丘長58mの前方後円墳で、五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)の墓といわれています。
五十狭城入彦皇子は第12代景行天皇の息子で、日本武尊(やまとたける)とは腹違いの兄弟です。
そんな皇族のお墓が、こんなところにあるだなんて、驚きですね。
宮内庁管轄のため、中には入れないようになっています。



五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ、生没年不詳)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族。
『日本書紀』では「五十狭城入彦皇子」、他文献では「五十狭城入彦命」とも表記される。『古事記』に記載はなく、『日本書紀』でも事績に関する記載はない。
第12代景行天皇の皇子である。

『日本書紀』によれば、第12代景行天皇と、後皇后の八坂入媛命との間に生まれた7男6女のうち、10番目に生まれた皇子である。
『先代旧事本紀』「天皇本紀」においても景行天皇皇子として五十狭城入彦の名が見え、さらに同書では五十狭城入彦が三河長谷部直の祖であるとする[1]。
また『新撰姓氏録』左京皇別 御使朝臣条・右京皇別 御立史条では、景行天皇皇子の気入彦命(けいりひこのみこと)が応神天皇の命により、逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕えたと見える。この「気入彦命」の記載は『日本書紀』『古事記』には無いため、五十狭城入彦と同一視する説がある[1][注 1]。
五十狭城入彦皇子の墓は、宮内庁により愛知県岡崎市西本郷町和志山にある五十狭城入彦皇子墓(位置)に治定されている[2]。考古学名は「和志山古墳(わしやまこふん)」[3]。
この古墳は墳丘長58メートル(推定復元60-80メートル)の前方後円墳で[4]、4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定される[5]。明治28年(1895年)に宮内省(現・宮内庁)により陵墓伝説地(被葬候補者:気入彦命)に指定されたのち、明治29年(1896年)には墳丘上にあった薬師堂・石塔が撤去され、大正15年(1926年)頃に「矢作陵墓参考地」に名称変更、昭和16年(1941年)に五十狭城入彦皇子墓に治定されている[4]。
また同古墳の南東の方向には、式内社論社の和志取神社(岡崎市西本郷町御立)が鎮座する。五十狭城入彦を祭神に祀るとともに、五十狭城入彦が逆臣の大王主(大任主)を当地で討ったとする由緒を伝えている[1][6]。西本郷の地は、東本郷と併せて『和名抄』に見える三河国碧海郡谷部郷(はせべごう)に比定されることから、五十狭城入彦後裔の長谷部氏が同地に来住したとする説もある[3]。

Wikipediaより抜粋

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素晴しい巨木と出逢える神社 歴史探偵さかもとさん

2017-12-22 13:24:03 | 日記
素晴しい巨木と出逢える神社 歴史探偵さかもとさん

歴史探偵 さかもとさんがゆく!!【和志取神社】

岡崎市西本郷町の和志取神社は、豊かな自然が残されている神社です。
本堂の裏手に廻ると、素晴しい楠と出逢う事が出来ます
巨木は人の心を感動させます。さかもとさんも、とても気に入ったようですよ。
ぜひ、パワーをもらいに行ってくださいね


創立については不明な点があるが、『延喜式』巻9・10に記載された古代の碧海郡6座のうちの一つとされる。創建は奈良時代にまでさかのぼって考えられ、碧海郡下の駅家郷や鳥取駅家との密接な関係が推測される。平安時代末期から鎌倉時代にかけて成立したとされる『三河国内神明名帳』に、「正五位下鷲取天神」と記されている。
祭神は五十狭城入彦皇子。西本郷町の蓮華寺の西に和志山古墳と呼ばれる古墳がある。すなわちこれが五十狭城入彦皇子の墓である。
1870年(明治3年)に長谷部神社と改称。1874年(明治7年)5月、教部省の指令で式内和志取神社とされたが、翌1875年(明治8年)2月に取り消され旧称に戻った。1879年(明治12年)に未定式社和志取神社の社号を認められ、1916年(大正5年)12月28日、郷社とされた。
明治時代初期の廃仏毀釈の折、境内にあった大日堂が東隣に移転する。大日堂所蔵の木造金剛界大日如来坐像と木造聖観世音菩薩立像は1961年(昭和36年)3月30日に岡崎市指定文化財目録に指定されている[2]。
江戸時代から明治の中期頃までは、本神社の祭礼といえば「おまんとう」または「オマント」であり(馬之塔の意)、煙火が上がるのが通例であった。
毎年、祈年祭、春季祭、例祭、新嘗祭と4回大祭が行われている。特に秋の新嘗祭では、豊年を祝う甘酒祭が1915年(大正4年)から今日まで続けられている。また、矢作西小学校の児童が浦安の舞を受け継いでいる。


神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象[1]。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。

Wikipediaより抜粋

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【神仏習合の面影を色濃く遺す和志取神社】歴史探偵さかもとさん

2017-12-12 10:07:24 | 日記
【神仏習合の面影を色濃く遺す和志取神社】歴史探偵さかもとさん

歴史探偵 さかもとさんがゆく!!【和志取神社】

創立については不明な点があるが、『延喜式』巻9・10に記載された古代の碧海郡6座のうちの一つとされる。創建は奈良時代にまでさかのぼって考えられ、碧海郡下の駅家郷や鳥取駅家との密接な関係が推測される。平安時代末期から鎌倉時代にかけて成立したとされる『三河国内神明名帳』に、「正五位下鷲取天神」と記されている。
祭神は五十狭城入彦皇子。西本郷町の蓮華寺の西に和志山古墳と呼ばれる古墳がある。すなわちこれが五十狭城入彦皇子の墓である。
1870年(明治3年)に長谷部神社と改称。1874年(明治7年)5月、教部省の指令で式内和志取神社とされたが、翌1875年(明治8年)2月に取り消され旧称に戻った。1879年(明治12年)に未定式社和志取神社の社号を認められ、1916年(大正5年)12月28日、郷社とされた。
明治時代初期の廃仏毀釈の折、境内にあった大日堂が東隣に移転する。大日堂所蔵の木造金剛界大日如来坐像と木造聖観世音菩薩立像は1961年(昭和36年)3月30日に岡崎市指定文化財目録に指定されている[2]。
江戸時代から明治の中期頃までは、本神社の祭礼といえば「おまんとう」または「オマント」であり(馬之塔の意)、煙火が上がるのが通例であった。
毎年、祈年祭、春季祭、例祭、新嘗祭と4回大祭が行われている。特に秋の新嘗祭では、豊年を祝う甘酒祭が1915年(大正4年)から今日まで続けられている。また、矢作西小学校の児童が浦安の舞を受け継いでいる。


神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象[1]。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。

Wikipediaより抜粋

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【家康公が生まれた場所・板谷邸址】歴史探偵さかもとさん

2017-12-08 11:50:25 | 日記
【家康公が生まれた場所・板谷邸址】歴史探偵さかもとさん


歴史探偵 さかもとさんがゆく!!【家康公が生まれた場所・板谷邸址】

岡崎公園にある家康公産湯の井戸のすぐ近くに、よーく見ると小さな石碑が建っています。
実はコレ、家康公が生まれた建物の跡。家康公の生母、於大の方が刈谷からココへ来たときに
建てられたそうで、100人から200人の女の人が働いていたそうです。
現在は松林となっていますが、この松は建物跡に植えられたもので、当時はココまで樹はなかったとのこと。
そして、於大の方が、幼い竹千代と別れた場所もここ。幸せな想い出と、悲しい想い出が同居する場所です。

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