1910年(明治43年) 1月23日北風が強く寒い日の湘南地方、葉山の
小坪海岸から出航した逗子開成中学のボート「箱根丸」は、江ノ島で
昼食をとっての帰途、帆走中に七里ヶ浜沖合いで転覆、小学生一人を
含む12名の少年が全員溺死した。小学生は、開成中学の生徒の弟で
あった。
真白き富士の嶺 緑の江の島 仰ぎ見るも今は涙・・・
この事件を歌った「七里が浜の哀歌」である。七里ヶ浜最東端の、
稲村ヶ崎寄りの海岸に歌詞を刻んだ記念碑が残っている。
開成中学は海軍子弟のための学校で、ボートも軍からの払い下げ品
であった。遺体捜索に二隻の駆逐艦が派遣されるほど、事件の反響は
大きかった。さらに、兄妹校である鎌倉女学校の教師をしていた三角
錫子が作詞した「哀歌」が、同年 2月 6日の合同法要の席で、鎌倉女
学校の生徒により合唱され、人々の涙をさそった。
本来、ボートを出すためにはボート部長の許可を必要とするのだが
当日は日曜の無断出艇であったのだ。乗り込んでいたのは、必ずしも
善良な生徒ばかりとは言えなかったそうだ。しかし、12名のうち7
名は中学の寮生だったので、舎監の石塚教諭は、法要の翌日に責任を
とって退職した。その後、名前を変えて生きた石塚について、宮内寒
弥が小説『七里ヶ浜』で虚実を取り混ぜ描いている。宮内は石塚教諭
の実子である。
「七里が浜の哀歌」があまりにも美しかったために、事件の陰の部
分が不問に付された趣がある。原作は長調だが、大正時代に演歌師に
よって流布された過程で短調になっていった。いかにも日本的である。
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小坪海岸から出航した逗子開成中学のボート「箱根丸」は、江ノ島で
昼食をとっての帰途、帆走中に七里ヶ浜沖合いで転覆、小学生一人を
含む12名の少年が全員溺死した。小学生は、開成中学の生徒の弟で
あった。
真白き富士の嶺 緑の江の島 仰ぎ見るも今は涙・・・
この事件を歌った「七里が浜の哀歌」である。七里ヶ浜最東端の、
稲村ヶ崎寄りの海岸に歌詞を刻んだ記念碑が残っている。
開成中学は海軍子弟のための学校で、ボートも軍からの払い下げ品
であった。遺体捜索に二隻の駆逐艦が派遣されるほど、事件の反響は
大きかった。さらに、兄妹校である鎌倉女学校の教師をしていた三角
錫子が作詞した「哀歌」が、同年 2月 6日の合同法要の席で、鎌倉女
学校の生徒により合唱され、人々の涙をさそった。
本来、ボートを出すためにはボート部長の許可を必要とするのだが
当日は日曜の無断出艇であったのだ。乗り込んでいたのは、必ずしも
善良な生徒ばかりとは言えなかったそうだ。しかし、12名のうち7
名は中学の寮生だったので、舎監の石塚教諭は、法要の翌日に責任を
とって退職した。その後、名前を変えて生きた石塚について、宮内寒
弥が小説『七里ヶ浜』で虚実を取り混ぜ描いている。宮内は石塚教諭
の実子である。
「七里が浜の哀歌」があまりにも美しかったために、事件の陰の部
分が不問に付された趣がある。原作は長調だが、大正時代に演歌師に
よって流布された過程で短調になっていった。いかにも日本的である。
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七里ガ浜にもいったことあるのに。
全然知りませんでした。
七里が浜の哀歌・・・もしかしたらどこかで聞いてるの
かも。ただうかつにも聞くだけだったのか。
別件で調べ物をしていたのですが
ちょっとしたことで、この事件を知りました。
鶴岡八幡宮から若宮大路を抜け、滑川の交差点に
出ると景色が開けますね。
大好きな場所のひとつです。
キラキラと輝くおだやかな海に
そのような事件が起こっていたとは・・・。
以前から、この鎌倉には修学旅行の生徒が多く来ていました。かつてはその生徒たちは電車(江ノ電)が
行合川にさしかかると「真白き富士の嶺 緑の江の島…」と歌い出したそうです。
明治43年1月23日のことです。海は寒く暗い冬の午後、おりから吹き出した西風はしだいにに激しさを
加えてきました。そして、腕のたつ漁師でさえも恐ろしがっている魔の風となりました。この日、膚を
突き刺す
寒い風の中を逗子開成中学校(現逗子開成学園)の生徒十数名(中に小学生1名を含む)は、軍艦松島の
払下げたカッターに乗り、江の島まで漕いで出かけました。
途中小坪海岸に寄り、気分の悪い者を降ろしました。若者たちの意気は、波のうねりが増すにつれて上がり
ました。目指す江の島に着き、帰途につくころから、風や波はいっそう激しくなりました。土地の人たちは
「この風ではあぶないから陸路で帰るように。」としきりにとめるのでした。しかし、元気いっぱいの少年たちは
カッターを出しました。風と波はこの少年たちに襲いかかります。けれども、少年たちは腕の続く限り漕ぎました。
幼い小学生までオールにしがみつき、逗子を目ざしました。行合川の沖合まで来たとき、真後ろから吹きつける西風、
山のような大波にあっという間にカッターは転覆してしまいました。全力をふりしぼって波風と戦ってきた少年たちは、
かわいそうに疲れと寒さにとうとう力が尽きてしまい、父母の名を呼び続けながら海にのまれてしまいました。
半鐘を聞いて遭難を知った腰越・坂ノ下・小坪の漁師たちは荒れ狂う波間に漁船を繰り出しました。
かわいいわが子を失った父母たちや、その朝まで起居を共にし、学んできた同級生や先生たちは、とるものも
とりあえず七里ヶ浜へ急ぎました。友を呼ぶ声、砂浜に狂い泣く母の声など、すべてはむなしく波音にかき消され、
夕やみが迫ってきました。海岸にたかれる火だけが赤々とさえ、悲しみの一夜があけました。
退役将官だった校長の要請で、横須賀軍港から「ふぶき」と「あられ」の二隻の捜索船が急派されました。
こうして必死の捜索が続けられましたが、第一の犠牲者が発見されると次々に死体があがりました。わが子に
とりすがって名を呼ぶ肉親の姿に、居合わせた人々は涙を流すのみでした。なかでもひとしお哀れだったのは、
小学生の弟をしっかりと胸にかかえこんで発見された兄弟の姿でした。
12名の遺体は学校に運ばれ、涙のなかに葬儀が行われました。兄弟校であった鎌倉女学校(現鎌倉女学院)の
生徒も参列し、三角錫子先生の作詞した「真白き富士の嶺」を歌い、霊を慰めました。
昭和39年稲村ケ崎公園に「真白き富士の嶺」の記念碑が建てられました。
この書籍の初版は昭和32(1957)年なので、当時の長老から聞き取った話である可能性もあります。
これは観光都市鎌倉の“鎮魂の章”であり、ご冥福を申し上げるばかりです。
行合川。国道 134号線を車で走行していると
七里ヶ浜近くのある小さな交叉点に「行合橋」と表示された標識を見かけます。
そうですか。あのあたりだったのですね。
コメントの詳細を拝読させていただきました。
ありがとうございます。
この記事に関しては通年でもアクセスが平均的にあります。
アクセスがあるたび
過去の出来事をできるだけ正確に伝えていくことの重要さを
再認識しています。
コーナーに今回のボート遭難の記事を発見しました。
中学高校の頃、実家が鎌倉市ということもあり郷土史研究の書籍を
読み耽っていた時期があり、この事件もその頃知りました。
そしてYahooでちょっと「逗子開成 遭難」でググってみたところ、
“らば~そうる IN MY LIFE”がヒットして驚いてしまいました。
2年前のUP時には見過ごしていたのですね…スミマセン。
そんなわけで偶然のきっかけだったのですが、この事件については
「かまくら子ども風土記」の詳細な記述が今も頭に残っており、
ご参考までに紹介させていただきました。
いえいえ、とんでもないです。
小職も、「世界の海難事件」を調査していて
本件を知りました。
別件で青函連絡船洞爺丸の惨事について触れた記事もございます。
よろしければご覧ください。