4日目。空は相変わらずすっきりしないが、雨は降っていない。今日こそは天気がもってくれれば、いや、雨が降るぐらいならいい、列車が動ける程度で収まってくれればと願う。
朝一番で朝食をとり、そのまま宿を発った。
まずは能代駅へ。昨晩は暗くて分からなかったが、店のシャッターにイラストが描いてあるものが多い。しかも、それがことごとくバスケットボールにからんだものである。
しかも若者だけではない。お年寄りまでバスケットボールに親しんでいる。
5分ほど歩いて能代駅に着いた。平日の朝とはいえまだ7時過ぎ、静かなものである。
駅前広場にあるモニュメントを拡大してみると、やはりバスケ。能代商業の甲子園出場を祝う言葉が、どことなくおさまりが悪そうにすら見える。もっとも、前日負けてしまったから、という気もする。
能代駅に入ると、東能代に続いてまたゴールがあった。金・赤・青の王冠は、能代工業バスケ部の優勝経験を表しているらしい。
駅名標も、よく見るとバスケ。「バスケの街」を名乗るだけあって、細かいところまで凝っている。思いつきでイメージを利用したいだけなら、ここまではするまい。
さて、ここからはJR屈指のローカル線、五能線の旅に出る。なにがどう「屈指」と言われると簡単には答えづらいが、あえて言うなら「総合的な評価」となるだろうか。
距離の長さ、運転される列車の本数、季節や土地ごとの変化に豊む車窓からの風景、味わい深い土着の文化……鉄道好きなら、いや、旅行好きなら、きっと感覚で理解してくれることだろう。
能代からはいったん東能代に出た。昨夜タクシーに乗り換えただけでろくに駅を見なかったが、このような姿をしていたのだ。
五能線の起点はこの東能代駅。ここから白神山地のふもとを通り、日本海の絶景を眺め、津軽平野を横切り、終点川部まで、実に150キロ近くを走り抜けるのだ。
なお、五能線経由は能代も通る。ならば能代から乗っても良かったと思われるところだろうが、これには私なりのこだわりがある。ここで些か長くなるが、説明させていただきたい。
乗り鉄の人生において重要な目標の1つに、「鉄道全線乗りつぶし」というものがある(私鉄を含めない「JR全線乗りつぶし」というのも大事なステップの1つである)。
ここで問題となるのが、何をもってある路線に「乗った」と判断するかだ。そんなことがなぜ、と訝る方もおられるだろうが、これにも理由がある。
鉄道乗りつぶしには厳格なルールがあるわけではない。むしろ、「乗った」かどうかも含め、すべては個々人の判断に委ねられる(さらに呆れられている気もするが、続ける)。
例えば、ある路線を列車で通れば、「乗った」ことになるのはお分かりいただけるだろう。問題はそれ以外のケースだ。
ここで、昨日東能代から能代まで、JRが用意したタクシーを利用したことを思い出していただきたい。これは当該区間に「乗った」ことになるのだろうか?
おそらく、「乗ったことになる」「乗ったことにならない」どちらの判断も可能である。列車に乗ってないのだから「ならない」、列車に準ずる輸送手段を利用したのだから「なる」、どちらもあり得るのだ。
私は「なる」という立場をとる。列車の運転が再開されれば、それに乗るに越したことはないとして、それまでの間は代替的なものでも「鉄道」とみなして、当該区間に乗ったと判断するのだ。
確かに、列車には乗っていない。だからといって「ならない」という判断を取ると、災害・旅客の減少など、何らかの理由で長期間(年単位で)列車に代わる輸送手段を使っている路線に乗れなくなるのだ。
列車の運転再開を待てばいいではないか、という意見はその通りである。鉄道なのだから、列車に乗れればそれに越したことはないし、私もそれを理想としている。
しかし、いつ再開されるのか分からない路線は現に存在するし、過去に列車での運転を休止し、再開されないまま廃止になった路線は存在する。再開を待ってたら乗れませんでした、では元も子もないのだ。
以上から、昨日のようなケースの場合、東能代から能代の区間は「乗った」と私は判断する。ただ、列車の運転が再開されれば、乗り直すことが「望ましい」という条件はつける(ただし義務とはしない)。
というわけで、この日は東能代までいったん乗り直すことにしたのだ。
東能代から五能線を全線通って弘前までの各駅停車。さきほどの車両との違いが見てお分かりになるだろうか。7時41分に東能代を出発、これから4時間半ほど、この列車と旅をする。
東能代を出た列車は高校生で賑わっていたが、彼らは能代で降りてしまい、あとは数えるほどの乗客しかいない。能代の市街地を抜けると、やがて日本海が姿を現した。
岩館駅に着いた。ここで上りの列車と行き違うために10分ほど停車する。時間があるのをいいことに、駅を眺めてみた。
駅の中で見つけたポスター。ご当地ソングはネタ切れの心配はまずないし、歌の題材になった地元からすれば話題作りにもなるし、理想的なビジネスである。
車内に戻ってしばらくすると、上りの列車が到着。ほどなくこちらの列車も発車した。秋田県の駅はここまで、次の大間越からは青森県に入る。
岩館を出た列車は、日本海沿いの長い路線を走る。冬ほどではないにせよ、雲の垂れ込めた日本海はやはり荒涼とした感じがする。
五能線と並走する道路が入れ替わり立ち替わり海岸線をかすめていく。8月のこの時期でこの波である。真冬になるとさぞ激しい波が打ち寄せることだろう。
ところどころ砂浜もあるが、どう見ても水辺で遊べる時期は終わっている。波打ち際にはテトラポットと堤防があるが、大荒れになったときにはたしてこれで事足りるのだろうか。
雨が降り出した。列車の運転には支障はなさそうだが、風景の厳しさがより際立ってくる。
遠くに見える岬。五能線はそのさらに先を越えて進んでいく。
海岸線を少し離れたかと思うと、水田が現れた。寒風吹き付ける土地でも、こうして稲は育つのだ。グレースケールの風景をずっと目にしてきた者には、青田の色の鮮やかさがいや増して見える。
久しぶりに、という表現も変だが、大きめの集落を通った。向こうに見えるのは、ここに来るまでたどってきた海岸線。
突如として、それまでの風景とはまるで趣が異なる建物が登場したかと思うと列車が駅に到着。「ウェスパ椿山」という駅名からして、これが施設の名前なのだろう。
奥の建物には「物産館コロボックル」とある。屋根には何があるのかと思ったら小人の人形であった。コロボックルとはこういうものだったろうか。子どもの頃に読んだ本のイメージとは、いささか違う。
それにしても、一日数本の列車のみのローカル線と三ケタ国道だけが通る地域に、唐突で大規模な施設。地域おこしに役に立っていることを願いたいが、もしそうでなかったとしたら、と思うと気が重くなる。
バブルの頃に全国各地で描かれた地域開発の夢のうち、叶ったものはいくつあるのだろう。夢が果てた後の無残な姿なら、嫌というほど見てきたのだが。
否、ここは施設が機能する形で、しかも外から見る限りは、それなりに手入れされて、立派に残っているのだ。あまり悪いように考えこともあるまい。
ウェスパ椿山を出ると、再び海沿いに田畑を見かけるようになった。晴れていたらさぞ爽快だっただろうが、イメージする日本海のほの暗い雰囲気も悪くない。
夏から秋へ。冬の日本海にも憧れはあるが、草木が最期の輝きを見せる時期に間に合ったのは、それはそれで良かったと思う。
9時半を過ぎて、深浦駅に着いた。この駅でも10分弱停車する。何やらホームがにぎやかだと思ったら、団体客が10人単位で乗り込んできている。当然と言えば当然だが、添乗員までついている。
最近は旅行会社が企画するツアーで、ローカル線が日程に組み込まれることがある。という話には聞いたこともあれば、広告で何度も目にしたこともある。
ただ、そんな団体客に実際に出くわすのは初めてである。私が一般受けしないようなマニアックな路線ばかり乗っていたからだろうか。
ともあれ、列車が止まっている間に駅舎を撮影。五能線では主要駅の1つなので、駅舎も比較的大きい。
深浦を出ると、再び日本海に沿って線路が伸びる。相変わらずの荒涼たる風景である。
列車は驫木という駅に着いた。ここはJRでも屈指の難読駅として知られる。馬三頭という漢字はJRの駅名の中で最も画数が多いらしい。もっとも、私は駅名以外でこの字を見たためしがない。
ただ、この駅は名前のインパクトもさることながら、広大な日本海沿いの人気のない土地に、海からほとんど線路のみを隔てて面した小さな木造の駅舎が静かな人気を集めている。
この列車が驫木に停まった時も、団体客を中心に、多くの乗客が駅にカメラを向けていた。
ミーハーという死語を思い出した私だったが、ここまできて記録に残さないのも悔いが残る。そう思った結果がこれである。
ちなみに、仮にここで列車を降りたとして、次の列車が来るのが7時間20分後。ぶらり途中下車、も時と場合によるという典型である。
行けども海、さらに行けども日本海。あと数十キロは、この光景が続く。
千畳敷駅に着いたところで、ツアーの客は下車。この辺りはぱっと見ただけでも奇岩の類が多く、観光地化しているので、しばらくはこの辺りを見て回るのだろう。
乗客数ががたっと減り、元のローカル線の車内となったところで千畳敷発車。
東能代を出てから3時間を過ぎたところで、鰺ヶ沢駅に着いた。ここでも行き違いで10分ほど停車する。地元在住で映画にもなった長毛種の秋田県「わさお」が出迎える。
人間に目を転じると、鰺ヶ沢出身で知られているのはやはり元小結舞の海である。駅には今でも写真パネルが飾られている。
鰺ヶ沢駅の駅舎。岩館や深浦と比べると、モダンに見える。
とはいえそこは漁港の町。ホーム側に回れば漁船のイラストが描かれている。
これはイカ釣り漁船であろうか。足元にはロープをくくりつけて舟を岸壁につなぎとめる、昔の映画で、小林旭が片足を乗せてポーズをとっている……そう、係船柱まで揃えてある。
いかにも海沿いの雰囲気漂う鰺ヶ沢であるが、この駅を出ると、列車は日本海に別れを告げ、東に進路を変える。
2時間以上も見続けてきた日本海が離れていくのを見ると、どうにも名残惜しい気がしてきてならない。月並みにもほどがあるが、さらば日本海、また逢う日まで。
この後列車は津軽平野を横切り、五所川原へと向かう。五所川原からは津軽鉄道というローカル私鉄が出ているが、今回は時間の関係上乗りにはいかない。
どうせなら冬、名物のストーブ列車が走る季節に訪れたいのだ。地吹雪を走る列車の車内で、ストーブでするめでも焼きつつ、熱燗で喉を潤す。考えるだけで気分が高揚する。
そう、楽しみはとっておかなければならないのだ。結局、五能線の車内から撮ろうと思えば撮れた津軽鉄道の車両や駅もまったく撮影しないまま、五所川原を離れた。
五所川原からは岩木川をつかず離れず、東南に進んでいく。日本海の風景とは打って変わり、リンゴ畑があちらこちらに広がる。
そして正午前、五能線の終点川部に着いた。東能代を出てからは4時間20分が経過している。
川部では列車の向きが入れ替わるので、数分間停車する。駅を見るとこんな看板があった。今や検索バーはテレビのCMではとどまらないのかと驚く。
川部からは奥羽本線を2駅だけ進み、ついにこの列車の終着駅、弘前にたどり着いた。距離にして153.5キロ、時間にして4時間36分の旅であった。
ここまで同じ普通列車に乗り通すことはそうそうないのだが、その割に不思議と時間がかかった気がしないのは、五能線の風景が私を飽きさせてくれなかったからなのだろう。
朝一番で朝食をとり、そのまま宿を発った。
まずは能代駅へ。昨晩は暗くて分からなかったが、店のシャッターにイラストが描いてあるものが多い。しかも、それがことごとくバスケットボールにからんだものである。
しかも若者だけではない。お年寄りまでバスケットボールに親しんでいる。
5分ほど歩いて能代駅に着いた。平日の朝とはいえまだ7時過ぎ、静かなものである。
駅前広場にあるモニュメントを拡大してみると、やはりバスケ。能代商業の甲子園出場を祝う言葉が、どことなくおさまりが悪そうにすら見える。もっとも、前日負けてしまったから、という気もする。
能代駅に入ると、東能代に続いてまたゴールがあった。金・赤・青の王冠は、能代工業バスケ部の優勝経験を表しているらしい。
駅名標も、よく見るとバスケ。「バスケの街」を名乗るだけあって、細かいところまで凝っている。思いつきでイメージを利用したいだけなら、ここまではするまい。
さて、ここからはJR屈指のローカル線、五能線の旅に出る。なにがどう「屈指」と言われると簡単には答えづらいが、あえて言うなら「総合的な評価」となるだろうか。
距離の長さ、運転される列車の本数、季節や土地ごとの変化に豊む車窓からの風景、味わい深い土着の文化……鉄道好きなら、いや、旅行好きなら、きっと感覚で理解してくれることだろう。
能代からはいったん東能代に出た。昨夜タクシーに乗り換えただけでろくに駅を見なかったが、このような姿をしていたのだ。
五能線の起点はこの東能代駅。ここから白神山地のふもとを通り、日本海の絶景を眺め、津軽平野を横切り、終点川部まで、実に150キロ近くを走り抜けるのだ。
なお、五能線経由は能代も通る。ならば能代から乗っても良かったと思われるところだろうが、これには私なりのこだわりがある。ここで些か長くなるが、説明させていただきたい。
乗り鉄の人生において重要な目標の1つに、「鉄道全線乗りつぶし」というものがある(私鉄を含めない「JR全線乗りつぶし」というのも大事なステップの1つである)。
ここで問題となるのが、何をもってある路線に「乗った」と判断するかだ。そんなことがなぜ、と訝る方もおられるだろうが、これにも理由がある。
鉄道乗りつぶしには厳格なルールがあるわけではない。むしろ、「乗った」かどうかも含め、すべては個々人の判断に委ねられる(さらに呆れられている気もするが、続ける)。
例えば、ある路線を列車で通れば、「乗った」ことになるのはお分かりいただけるだろう。問題はそれ以外のケースだ。
ここで、昨日東能代から能代まで、JRが用意したタクシーを利用したことを思い出していただきたい。これは当該区間に「乗った」ことになるのだろうか?
おそらく、「乗ったことになる」「乗ったことにならない」どちらの判断も可能である。列車に乗ってないのだから「ならない」、列車に準ずる輸送手段を利用したのだから「なる」、どちらもあり得るのだ。
私は「なる」という立場をとる。列車の運転が再開されれば、それに乗るに越したことはないとして、それまでの間は代替的なものでも「鉄道」とみなして、当該区間に乗ったと判断するのだ。
確かに、列車には乗っていない。だからといって「ならない」という判断を取ると、災害・旅客の減少など、何らかの理由で長期間(年単位で)列車に代わる輸送手段を使っている路線に乗れなくなるのだ。
列車の運転再開を待てばいいではないか、という意見はその通りである。鉄道なのだから、列車に乗れればそれに越したことはないし、私もそれを理想としている。
しかし、いつ再開されるのか分からない路線は現に存在するし、過去に列車での運転を休止し、再開されないまま廃止になった路線は存在する。再開を待ってたら乗れませんでした、では元も子もないのだ。
以上から、昨日のようなケースの場合、東能代から能代の区間は「乗った」と私は判断する。ただ、列車の運転が再開されれば、乗り直すことが「望ましい」という条件はつける(ただし義務とはしない)。
というわけで、この日は東能代までいったん乗り直すことにしたのだ。
東能代から五能線を全線通って弘前までの各駅停車。さきほどの車両との違いが見てお分かりになるだろうか。7時41分に東能代を出発、これから4時間半ほど、この列車と旅をする。
東能代を出た列車は高校生で賑わっていたが、彼らは能代で降りてしまい、あとは数えるほどの乗客しかいない。能代の市街地を抜けると、やがて日本海が姿を現した。
岩館駅に着いた。ここで上りの列車と行き違うために10分ほど停車する。時間があるのをいいことに、駅を眺めてみた。
駅の中で見つけたポスター。ご当地ソングはネタ切れの心配はまずないし、歌の題材になった地元からすれば話題作りにもなるし、理想的なビジネスである。
車内に戻ってしばらくすると、上りの列車が到着。ほどなくこちらの列車も発車した。秋田県の駅はここまで、次の大間越からは青森県に入る。
岩館を出た列車は、日本海沿いの長い路線を走る。冬ほどではないにせよ、雲の垂れ込めた日本海はやはり荒涼とした感じがする。
五能線と並走する道路が入れ替わり立ち替わり海岸線をかすめていく。8月のこの時期でこの波である。真冬になるとさぞ激しい波が打ち寄せることだろう。
ところどころ砂浜もあるが、どう見ても水辺で遊べる時期は終わっている。波打ち際にはテトラポットと堤防があるが、大荒れになったときにはたしてこれで事足りるのだろうか。
雨が降り出した。列車の運転には支障はなさそうだが、風景の厳しさがより際立ってくる。
遠くに見える岬。五能線はそのさらに先を越えて進んでいく。
海岸線を少し離れたかと思うと、水田が現れた。寒風吹き付ける土地でも、こうして稲は育つのだ。グレースケールの風景をずっと目にしてきた者には、青田の色の鮮やかさがいや増して見える。
久しぶりに、という表現も変だが、大きめの集落を通った。向こうに見えるのは、ここに来るまでたどってきた海岸線。
突如として、それまでの風景とはまるで趣が異なる建物が登場したかと思うと列車が駅に到着。「ウェスパ椿山」という駅名からして、これが施設の名前なのだろう。
奥の建物には「物産館コロボックル」とある。屋根には何があるのかと思ったら小人の人形であった。コロボックルとはこういうものだったろうか。子どもの頃に読んだ本のイメージとは、いささか違う。
それにしても、一日数本の列車のみのローカル線と三ケタ国道だけが通る地域に、唐突で大規模な施設。地域おこしに役に立っていることを願いたいが、もしそうでなかったとしたら、と思うと気が重くなる。
バブルの頃に全国各地で描かれた地域開発の夢のうち、叶ったものはいくつあるのだろう。夢が果てた後の無残な姿なら、嫌というほど見てきたのだが。
否、ここは施設が機能する形で、しかも外から見る限りは、それなりに手入れされて、立派に残っているのだ。あまり悪いように考えこともあるまい。
ウェスパ椿山を出ると、再び海沿いに田畑を見かけるようになった。晴れていたらさぞ爽快だっただろうが、イメージする日本海のほの暗い雰囲気も悪くない。
夏から秋へ。冬の日本海にも憧れはあるが、草木が最期の輝きを見せる時期に間に合ったのは、それはそれで良かったと思う。
9時半を過ぎて、深浦駅に着いた。この駅でも10分弱停車する。何やらホームがにぎやかだと思ったら、団体客が10人単位で乗り込んできている。当然と言えば当然だが、添乗員までついている。
最近は旅行会社が企画するツアーで、ローカル線が日程に組み込まれることがある。という話には聞いたこともあれば、広告で何度も目にしたこともある。
ただ、そんな団体客に実際に出くわすのは初めてである。私が一般受けしないようなマニアックな路線ばかり乗っていたからだろうか。
ともあれ、列車が止まっている間に駅舎を撮影。五能線では主要駅の1つなので、駅舎も比較的大きい。
深浦を出ると、再び日本海に沿って線路が伸びる。相変わらずの荒涼たる風景である。
列車は驫木という駅に着いた。ここはJRでも屈指の難読駅として知られる。馬三頭という漢字はJRの駅名の中で最も画数が多いらしい。もっとも、私は駅名以外でこの字を見たためしがない。
ただ、この駅は名前のインパクトもさることながら、広大な日本海沿いの人気のない土地に、海からほとんど線路のみを隔てて面した小さな木造の駅舎が静かな人気を集めている。
この列車が驫木に停まった時も、団体客を中心に、多くの乗客が駅にカメラを向けていた。
ミーハーという死語を思い出した私だったが、ここまできて記録に残さないのも悔いが残る。そう思った結果がこれである。
ちなみに、仮にここで列車を降りたとして、次の列車が来るのが7時間20分後。ぶらり途中下車、も時と場合によるという典型である。
行けども海、さらに行けども日本海。あと数十キロは、この光景が続く。
千畳敷駅に着いたところで、ツアーの客は下車。この辺りはぱっと見ただけでも奇岩の類が多く、観光地化しているので、しばらくはこの辺りを見て回るのだろう。
乗客数ががたっと減り、元のローカル線の車内となったところで千畳敷発車。
東能代を出てから3時間を過ぎたところで、鰺ヶ沢駅に着いた。ここでも行き違いで10分ほど停車する。地元在住で映画にもなった長毛種の秋田県「わさお」が出迎える。
人間に目を転じると、鰺ヶ沢出身で知られているのはやはり元小結舞の海である。駅には今でも写真パネルが飾られている。
鰺ヶ沢駅の駅舎。岩館や深浦と比べると、モダンに見える。
とはいえそこは漁港の町。ホーム側に回れば漁船のイラストが描かれている。
これはイカ釣り漁船であろうか。足元にはロープをくくりつけて舟を岸壁につなぎとめる、昔の映画で、小林旭が片足を乗せてポーズをとっている……そう、係船柱まで揃えてある。
いかにも海沿いの雰囲気漂う鰺ヶ沢であるが、この駅を出ると、列車は日本海に別れを告げ、東に進路を変える。
2時間以上も見続けてきた日本海が離れていくのを見ると、どうにも名残惜しい気がしてきてならない。月並みにもほどがあるが、さらば日本海、また逢う日まで。
この後列車は津軽平野を横切り、五所川原へと向かう。五所川原からは津軽鉄道というローカル私鉄が出ているが、今回は時間の関係上乗りにはいかない。
どうせなら冬、名物のストーブ列車が走る季節に訪れたいのだ。地吹雪を走る列車の車内で、ストーブでするめでも焼きつつ、熱燗で喉を潤す。考えるだけで気分が高揚する。
そう、楽しみはとっておかなければならないのだ。結局、五能線の車内から撮ろうと思えば撮れた津軽鉄道の車両や駅もまったく撮影しないまま、五所川原を離れた。
五所川原からは岩木川をつかず離れず、東南に進んでいく。日本海の風景とは打って変わり、リンゴ畑があちらこちらに広がる。
そして正午前、五能線の終点川部に着いた。東能代を出てからは4時間20分が経過している。
川部では列車の向きが入れ替わるので、数分間停車する。駅を見るとこんな看板があった。今や検索バーはテレビのCMではとどまらないのかと驚く。
川部からは奥羽本線を2駅だけ進み、ついにこの列車の終着駅、弘前にたどり着いた。距離にして153.5キロ、時間にして4時間36分の旅であった。
ここまで同じ普通列車に乗り通すことはそうそうないのだが、その割に不思議と時間がかかった気がしないのは、五能線の風景が私を飽きさせてくれなかったからなのだろう。
本当に日本海を堪能できる素晴らしい鉄道ですよね。
某椿山の施設には小人さんがいたんですね(^-^;
津軽鉄道のストーブの暖かさは、かなり深い物がありました。
旅行好きや鉄道ファンの間で人気が高いのもうなずけます。
もっとも、そうであってはならないと思うのですが……
ストーブ列車と言えば、スルメでも焼いてワンカップの熱燗でも呷ろうかと←オッサン
広島行ったとき、宮島でポスターを見て、演歌に疎い同行者達に「ご当地演歌の女王だ」と説明。その後の尾道、福山で別の歌のポスターが。「また出たー」と一同大爆笑。
>ローカル
十和田と岳南が黄信号(赤に近い)
現地ではもはや定番と化しているようです(笑)
しかし、十和田観光電鉄のニュースは先日見ましたが、岳南もとは……
貨物需要があると思っていたのですが、それでも厳しいんですね。
旅客営業だけではさすがに苦しいでしょうし……