原ノ町駅に戻ると、窓口に駅員はおらず、改札も開いたまま。どうしたものかとしばらく見ていたのだが、どうも中に入っても問題はなさそうだ。
はたしてホームに出ると、既に乗車中の人もいる。切符を見せる相手がいなかったのは、折り返しの駅だからなのか何なのか。
とまれ、ホームから駅の様子を見ることにする。先の相馬駅とは違い、この駅では不通区間の駅名が案内標から隠されていない。
完全な素人目だが、空間放射線量を見る限り、小高までなら路盤さえ何とかなれば再開できるのでは、という淡い希望は感じるのだが、現実がどうなのかは分からない。
ただ、私が分かり得る現実は、相馬から南への列車が運転されることはしばらくはなく、原ノ町駅もそのつもりで営業しているということだ。ホームも1つしか必要なく、跨線橋は相馬同様閉ざされている。
その南を向くと、線路は冬でも草の中。辛うじて先に続くのが見えるだけだ。
振り返ると、発車を待つ相馬行から離れて、特急電車が佇んでいる。
かつてスーパーひたちとして、上野から仙台までを駆け抜けた特急電車。あの日以来、北にも南にも出口のない、断ち切られた特急街道に取り残されている。
その後のダイヤ改正で、僚友の姿は常磐線からほぼ消えて行った。走ることを奪われたこの編成のみが、あの日から止まった時間の中で、ぽつりと残されている。
そして、かつての特急電車は、鈍行電車と連結されて留置されている。
この編成もまた、南から来て、帰れなくなったのだ。
相馬方面を望む。こちらの線路は、そう遠くはない将来、相馬から先に延びて、仙台からの鉄路と再びつながるのだろう。
しかし、その時に仙台から原ノ町の間で特急が運転されるだろうかというと、疑問ではある。
何より、既に何年も経過した後で、雨ざらしになり続けた「旧型」車両が、再び第一線に帰ることができるだろうか。
むしろ、鉄路が再びつながり、再び得られるであろう出口は、この特急電車にとって、死出の旅への入口になるのかも知れない。
一方の鈍行電車も、本来なら浜通りを抜けて茨城辺りが根城となるもので、今行き来する電車とは仕様が異なる。細かい話は避けるが、仙台までの区間を走らせるには、早い話がオーバースペックなのだ。
「春の枯葉」、という太宰治の小説があったのを思い出す。長く厳しい冬を耐え、待ち望んだ春が来た時、枯葉は、やはり枯葉でしかなかった、という登場人物の独白があったように憶えている。
ただ、この電車たちにとっての冬は、彼らに微塵の責任もないものなのだ。
たまたま、この辺りを通っていただけ。たったそれだけのこと。
ただ、それでも春は来る。枯葉は打ち捨てられようが、春が来て、それが過ぎれば夏は来る。それはある人々には福音であり、ある人々には絶望である。
しかし、そのどちらも、おそらくは大した意味はないのかも知れない。春と呼べる時期があるとすれば、ただそれは来たり、そしてまた去っていくだけのものなのだ。
そして、ただこの街に来た私自身も、ただ去っていく時間になったようだ。電車に乗り込み、動き出すのに身を任せる。
帰りは接続時間もほとんどなく、相馬から亘理行の代行バスに乗り込む。
途中、行きしなに寝過ごした新地駅停留所を通る。停留所から方向転換のためにしばらく走ると、再び太平洋まで続く平原が見通せた。
向きを変え、再び国道6号線に入る途中、新地駅停留所の前を通る。
代行バスの待合室は、駅舎に擬せられたようにも見える。新たな駅は線路を敷き直し、この辺りに建てられるらしいが、それがどんなものになるかは分からない。もし再訪することができれば、その時に見るしかない。
そしてバスはそのまま来た道を走り、亘理駅に着く。
強風で一部ダイヤが乱れているとは言うものの、浜吉田からの電車はほぼ定刻通りホームに入ってくる。その電車にただ乗り込み、私はこの地を後にした。
(了)
はたしてホームに出ると、既に乗車中の人もいる。切符を見せる相手がいなかったのは、折り返しの駅だからなのか何なのか。
とまれ、ホームから駅の様子を見ることにする。先の相馬駅とは違い、この駅では不通区間の駅名が案内標から隠されていない。
完全な素人目だが、空間放射線量を見る限り、小高までなら路盤さえ何とかなれば再開できるのでは、という淡い希望は感じるのだが、現実がどうなのかは分からない。
ただ、私が分かり得る現実は、相馬から南への列車が運転されることはしばらくはなく、原ノ町駅もそのつもりで営業しているということだ。ホームも1つしか必要なく、跨線橋は相馬同様閉ざされている。
その南を向くと、線路は冬でも草の中。辛うじて先に続くのが見えるだけだ。
振り返ると、発車を待つ相馬行から離れて、特急電車が佇んでいる。
かつてスーパーひたちとして、上野から仙台までを駆け抜けた特急電車。あの日以来、北にも南にも出口のない、断ち切られた特急街道に取り残されている。
その後のダイヤ改正で、僚友の姿は常磐線からほぼ消えて行った。走ることを奪われたこの編成のみが、あの日から止まった時間の中で、ぽつりと残されている。
そして、かつての特急電車は、鈍行電車と連結されて留置されている。
この編成もまた、南から来て、帰れなくなったのだ。
相馬方面を望む。こちらの線路は、そう遠くはない将来、相馬から先に延びて、仙台からの鉄路と再びつながるのだろう。
しかし、その時に仙台から原ノ町の間で特急が運転されるだろうかというと、疑問ではある。
何より、既に何年も経過した後で、雨ざらしになり続けた「旧型」車両が、再び第一線に帰ることができるだろうか。
むしろ、鉄路が再びつながり、再び得られるであろう出口は、この特急電車にとって、死出の旅への入口になるのかも知れない。
一方の鈍行電車も、本来なら浜通りを抜けて茨城辺りが根城となるもので、今行き来する電車とは仕様が異なる。細かい話は避けるが、仙台までの区間を走らせるには、早い話がオーバースペックなのだ。
「春の枯葉」、という太宰治の小説があったのを思い出す。長く厳しい冬を耐え、待ち望んだ春が来た時、枯葉は、やはり枯葉でしかなかった、という登場人物の独白があったように憶えている。
ただ、この電車たちにとっての冬は、彼らに微塵の責任もないものなのだ。
たまたま、この辺りを通っていただけ。たったそれだけのこと。
ただ、それでも春は来る。枯葉は打ち捨てられようが、春が来て、それが過ぎれば夏は来る。それはある人々には福音であり、ある人々には絶望である。
しかし、そのどちらも、おそらくは大した意味はないのかも知れない。春と呼べる時期があるとすれば、ただそれは来たり、そしてまた去っていくだけのものなのだ。
そして、ただこの街に来た私自身も、ただ去っていく時間になったようだ。電車に乗り込み、動き出すのに身を任せる。
帰りは接続時間もほとんどなく、相馬から亘理行の代行バスに乗り込む。
途中、行きしなに寝過ごした新地駅停留所を通る。停留所から方向転換のためにしばらく走ると、再び太平洋まで続く平原が見通せた。
向きを変え、再び国道6号線に入る途中、新地駅停留所の前を通る。
代行バスの待合室は、駅舎に擬せられたようにも見える。新たな駅は線路を敷き直し、この辺りに建てられるらしいが、それがどんなものになるかは分からない。もし再訪することができれば、その時に見るしかない。
そしてバスはそのまま来た道を走り、亘理駅に着く。
強風で一部ダイヤが乱れているとは言うものの、浜吉田からの電車はほぼ定刻通りホームに入ってくる。その電車にただ乗り込み、私はこの地を後にした。
(了)