にわか日ハムファンのブログ記念館

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生まれて初めて通天閣に登ってきました

2011-12-12 23:34:25 | 関西は燃えているか
 地元の名所というのはなかなか行かないものです。いつでも行ける、何もわざわざという思いがあるだけに、なかなか足が向かないものです。
 私の場合、通天閣がそうでした。加えて通天閣界隈の「新世界」にまつわるイメージが、私を長年遠ざけてきたのです。
 とはいえ、近年では新世界も通天閣と串カツを切り札に観光地化に成功。今や誰もが楽しめる大阪の名所として蘇りました。
 そんなこともあり、この年にになって初めて通天閣に登ってみることにしたのです。



 堺筋を東に折れてしばらく歩くと、「大阪」のステレオタイプが現れます。



 づぼらや。大阪のイメージを形作る看板の1つです。間近で見るとすごい迫力。



 名物てっちり。比較的最近まで知らなかったんですが、「てっちり」って標準語じゃなかったんですね。



 通天閣が少しは見えてきました。念のためお断りしておきますが、大阪中が全部こんな街になってるわけではないですからね。これはあくまでも一部で、他は……他なりに凄いです。



 で、ようやく全体が見えたわけです。



 通天閣の真下まで来ました。この地下には今年7月から「通天閣劇場」ができて、松竹芸能の芸人さんによるステージが繰り広げられています。この人形はご存知、安田大サーカスのものですね。
 大阪のお笑いと言えば吉本というイメージが強いのですが、他地方向けに薄めていない真の大阪の味を知りたければ、松竹を外すわけにはいきません。
 吉本がウインドウズなら松竹はマック、吉本がヤマダ電機なら松竹はJOSHIN、吉本がラピートなら松竹は阪堺電車、だんだんわけがわからなくなってきましたが、それだけディープな人向けなのです(ぇ



 通天閣の足元には、坂田三吉を記念した王将の碑があります。この人と初代桂春団治のエピソードを融合してデフォルメすれば、戦前の大阪男のステレオタイプが出来上がります。



 通天閣に入り、まずは2回に上がります。売店に入ってすぐ、似顔絵のコーナーがありました。



 ……ま、そりゃ、ね[;;0J0]



 大阪名物として紹介されるアヒルちゃん。最新の写真が紹介されていたのは嬉しいですね。



 そして、新たな大阪名物の座を狙うのが、この通天閣ロボ。



 顔は展望台。以前「有事の時には東京都庁がロボ化する」と聞きましたが、通天閣は平時からロボなのです。



 しかもアメブロまで持ってます。アメブロってところがタレントっぽさを演出してますね。



 あげく住民登録済み。もっとも、大阪市はいずれ消えるんで、あらためて大阪都民として登録しないといけないわけですが。



 さて、ここから通天閣の展望台に上がりましょう。梨田前監督なら階段で上がるところですが、私はエレベーターを使います。階数表示が古風でいいですね。



 で、展望台に上がりました。この向きは西成区から大阪港方面まで見通せます。



 足元では旧フェスティバルゲートが解体中。フェスゲと言えば鳴り物入りでオープンしたのですが、数年でポシャった竜頭蛇尾の典型。こんなはずじゃなかったんですが……



 反対側を見ましょう。すぐ下の天王寺動物園に続いて、奥に見えるのは生駒山系です。



 建設中の阿部野橋ターミナルビル。完成すれば通天閣をはるかに上回る300m級のビルになります。そんな需要があるのかとかテナントが入るのかとか考えてはいけません。



 一通り周囲を見渡し、ビリケンさんの足をさすったところで3階に降ります。
 実は、今年が新世界のそばを走る阪堺電車阪堺線開通100周年、来年2012年は新世界ができて100周年ということで、当時の様子を再現したジオラマが展示されています。



 阪堺線の起点、恵美須町駅。看板の行先表示を見る限り、1914年以降のものと考えられます。



 こちらは新世界入口のゲートを再現したものです。



 ライオン歯磨というのに時代を感じます。



 戦前の新世界は今以上の一大歓楽街となっていました。奥に見える塔が初代通天閣ですが、今のものとはまるで趣が違い、パリの凱旋門の上にエッフェル塔をつけたという、奇抜としか言いようのないデザインです。
 通天閣の南側には遊園地「ルナパーク」が開園、通天閣からはロープウェイで行き来できるようになっていました。手前に見える籠がそれです。
 しかし、戦争の拡大と共に通天閣は金属供出のため解体され、さらに大阪大空襲で新世界は壊滅。その後1956年に建てられたのが、現在の通天閣(2代目)です。
 その後も庶民の歓楽街として新世界は長らく親しまれてはきましたが、徐々に時の流れから取り残されていき、衰退していきます。そしていつしか、新世界は関西人にとっても近寄りがたい土地へと化してしまいました。
 ただ、世の中何が幸いするか分かりません。時代から外れた新世界は、「古き良き」大阪の雰囲気を残す街として逆に関心を集めるようになりました。
 この間の経緯をまとめた資料はないので、詳しいことは何とも言えませんが、体感的な関西の時代の流れから考えるに、2000年代に入ってから、新世界に何がしかの転機が訪れたのではないかとは思います。
 ともあれ、今では地元に住む庶民の歓楽街から、国内外の観光客の目を引く大阪のショーケースへと変化し、新世界はこの日も活気にあふれています。
 もっとも、新世界「だけ」が大阪のイメージとして捉えられているとすれば、それはそれで複雑な思いがするのですが……


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