
忠海から我々を乗せた客船は大久野島の第二桟橋に接岸。桟橋まで来ていた送迎バスに乗って宿に向かう。バスは海岸沿いに、島の南側にある宿まで走る。
うさぎ島と言うだけあって、さぞうさぎが多いだろうと思っていたところ、見かけないことはないのだが、決してそこら中うさぎだらけ、という感じはない。
はたしてどこにいるのか、すぐにでも見に行きたいと思ったが、それにはそれなりの準備がいる。バスが宿に着いたので、まずはチェックイン。

カフェコーナーにこんなイラストが。そのまま読めば「うさんちゅコーヒー」。何かと思ったら、「うさんちゅ=兎人」ということらしい。カフェコーナー自体「うさんちゅカフェ」という名前である。
「うさんちゅ」とは「うさぎを愛する人、うさぎをかわいがってくれる人」らしい。売店には「兎人」と大きく書かれたTシャツ等グッズが置いてあり、うさんちゅコーヒーも売っていた。フレーバーコーヒーだった。
自分で言うのもなんだが、尾道ではアヒルんちゅぶりを遺憾なく発揮した我々。はたして兎人になれるかどうか。

うさぎとの触れ合いには食べ物が必須。宿ではうさぎ用のペレットをカップ1杯100円で販売している。
妻と私と、さっそく1つずつ購入。カップを片手に、島の南側の海岸沿いにある宿から、時計回りに歩くことにした。

宿の周囲、木陰でくつろぐうさぎ。夏の昼間のことなので、エサでもなければ涼しいところで休んでいる。道理でうさぎをあまり見かけなかったわけだ。

地面がよほどひんやりしているのか、お腹をつけてぐったり。

日陰という日陰が、暑さを避けてくつろぐうさぎたちでいっぱい。
大久野島がうさぎ島と呼ばれるほどになったのは、かつて島にあった小学校で飼っていた数羽のうさぎが放たれ、野生化したことがきっかけらしい。
島には天敵らしい天敵がほとんどいなかった(といってもカラスは飛んでいるしヘビもいるようだが)ことから、うさぎの数は一気に増え、現在では200羽とも300羽とも言われるまでに至っている。
ただ、中にはペットだったうさぎが島に捨てられる例もあったようで、毛が長かったり耳が折れていたり、明らかに違う品種の血が混ざったうさぎも見られる。
そういう点からすれば、この島が「うさぎ島」となった経緯は決して好ましい話とは言えない。なお、現在ではペットのうさぎを捨てることは固く禁じられている。
ただ、うさぎが繁殖したと言っても、素人目で見た限り、島の植生が荒れているようには見えない。夏なので芝生の草は少なめだが、それでもちゃんと生えている。うさぎが食べ尽くしたなどということはない。

今ではうさぎで知られる大久野島だが、かつては旧日本軍の毒ガス製造施設が秘密裡に置かれていた。戦後施設は解体され、貯蔵されていた毒ガスも処分されてはいるが、島には往時の廃墟が各地に残っている。
これは宿舎のすぐ近くにある貯蔵庫跡。施設保護のため木の柵が置かれ、人の立ち入りが禁じられてはいるが、うさぎはお構いなしに入り込んでいる。
さて、ここからは島を時計回りに歩いてみよう。宿にはレンタサイクルもあるようだが、自転車で走っていてはうさぎたちと触れ合うことはできないので、暑くても自分の足で歩くことにする。

こちらも貯蔵庫跡。

かつての様子を示す写真が示されていた(フルサイズはこちら)。写真だからまだいいが、これが現実に私の目の前にあったとしたら、立ちすくむか、あるいは身震いが止まらないかも知れない。

しばらく歩くと日本庭園跡に出た。とても庭園があったようには見えないが、とにかく跡らしい。

道路上でたたずむうさぎたち。大久野島は自家用車の乗り入れが禁止になっているが、島の関係者の車がたまに走っているし、自転車もいる。事故でもあったら大変だ(なので道路上でのエサやりは避けること)。

さらに歩くと、大きなコンクリート造りの廃墟が現れた。ここが島内最大の長浦毒ガス貯蔵庫跡だ。施設は戦後火焔放射で焼き払われており、中は黒こげになっている。

長浦貯蔵庫跡の案内板(フルサイズ画像)。施設の規模が大きかっただけに、その処理も非常に大がかりなものだったようだ。
しかし貯蔵庫跡は今も安全とは言い難く、中に入ることはできない。

島にはほかにも戦争遺跡があるという。そんな中でもうさぎたちは今日も元気に生きている。その様子を見に、さらに先に進むとしよう。
(参考資料)
■ 休暇村大久野島ウェブサイト「大久野島のご案内」
■ 毒ガス島歴史研究所
うさぎ島と言うだけあって、さぞうさぎが多いだろうと思っていたところ、見かけないことはないのだが、決してそこら中うさぎだらけ、という感じはない。
はたしてどこにいるのか、すぐにでも見に行きたいと思ったが、それにはそれなりの準備がいる。バスが宿に着いたので、まずはチェックイン。

カフェコーナーにこんなイラストが。そのまま読めば「うさんちゅコーヒー」。何かと思ったら、「うさんちゅ=兎人」ということらしい。カフェコーナー自体「うさんちゅカフェ」という名前である。
「うさんちゅ」とは「うさぎを愛する人、うさぎをかわいがってくれる人」らしい。売店には「兎人」と大きく書かれたTシャツ等グッズが置いてあり、うさんちゅコーヒーも売っていた。フレーバーコーヒーだった。
自分で言うのもなんだが、尾道ではアヒルんちゅぶりを遺憾なく発揮した我々。はたして兎人になれるかどうか。

うさぎとの触れ合いには食べ物が必須。宿ではうさぎ用のペレットをカップ1杯100円で販売している。
妻と私と、さっそく1つずつ購入。カップを片手に、島の南側の海岸沿いにある宿から、時計回りに歩くことにした。

宿の周囲、木陰でくつろぐうさぎ。夏の昼間のことなので、エサでもなければ涼しいところで休んでいる。道理でうさぎをあまり見かけなかったわけだ。

地面がよほどひんやりしているのか、お腹をつけてぐったり。

日陰という日陰が、暑さを避けてくつろぐうさぎたちでいっぱい。
大久野島がうさぎ島と呼ばれるほどになったのは、かつて島にあった小学校で飼っていた数羽のうさぎが放たれ、野生化したことがきっかけらしい。
島には天敵らしい天敵がほとんどいなかった(といってもカラスは飛んでいるしヘビもいるようだが)ことから、うさぎの数は一気に増え、現在では200羽とも300羽とも言われるまでに至っている。
ただ、中にはペットだったうさぎが島に捨てられる例もあったようで、毛が長かったり耳が折れていたり、明らかに違う品種の血が混ざったうさぎも見られる。
そういう点からすれば、この島が「うさぎ島」となった経緯は決して好ましい話とは言えない。なお、現在ではペットのうさぎを捨てることは固く禁じられている。
ただ、うさぎが繁殖したと言っても、素人目で見た限り、島の植生が荒れているようには見えない。夏なので芝生の草は少なめだが、それでもちゃんと生えている。うさぎが食べ尽くしたなどということはない。

今ではうさぎで知られる大久野島だが、かつては旧日本軍の毒ガス製造施設が秘密裡に置かれていた。戦後施設は解体され、貯蔵されていた毒ガスも処分されてはいるが、島には往時の廃墟が各地に残っている。
これは宿舎のすぐ近くにある貯蔵庫跡。施設保護のため木の柵が置かれ、人の立ち入りが禁じられてはいるが、うさぎはお構いなしに入り込んでいる。
さて、ここからは島を時計回りに歩いてみよう。宿にはレンタサイクルもあるようだが、自転車で走っていてはうさぎたちと触れ合うことはできないので、暑くても自分の足で歩くことにする。

こちらも貯蔵庫跡。

かつての様子を示す写真が示されていた(フルサイズはこちら)。写真だからまだいいが、これが現実に私の目の前にあったとしたら、立ちすくむか、あるいは身震いが止まらないかも知れない。

しばらく歩くと日本庭園跡に出た。とても庭園があったようには見えないが、とにかく跡らしい。

道路上でたたずむうさぎたち。大久野島は自家用車の乗り入れが禁止になっているが、島の関係者の車がたまに走っているし、自転車もいる。事故でもあったら大変だ(なので道路上でのエサやりは避けること)。

さらに歩くと、大きなコンクリート造りの廃墟が現れた。ここが島内最大の長浦毒ガス貯蔵庫跡だ。施設は戦後火焔放射で焼き払われており、中は黒こげになっている。

長浦貯蔵庫跡の案内板(フルサイズ画像)。施設の規模が大きかっただけに、その処理も非常に大がかりなものだったようだ。
しかし貯蔵庫跡は今も安全とは言い難く、中に入ることはできない。

島にはほかにも戦争遺跡があるという。そんな中でもうさぎたちは今日も元気に生きている。その様子を見に、さらに先に進むとしよう。
(参考資料)
■ 休暇村大久野島ウェブサイト「大久野島のご案内」
■ 毒ガス島歴史研究所