☆カトリック信仰の源泉☆エウカリスツィアの信心☆

カトリックについて、浅い部分から深い部分まで、いろいろとぼちぼち記事UPしていきますので、どぅぞヨロシクです☆

サタニストたちに言いたい

2020-12-27 21:17:45 | 悪魔 いにしえの蛇 サタン


サタニストたちに言いたい


サタンはあなたたちを愛してなどいない!
彼はあなたたちを憎んでいる!

それをあなたたちに悟られないよう
あなたたちを騙しているに過ぎない

いにしえの蛇は
かつて人祖アダムとエヴァ(イヴ)に
嘘を吹聴して、神に背くよう導いて
実際に堕罪におとしいれ
この人類に死をもたらしました

彼、サタンの偽りの吹聴は
今も、継続されていて
あなたたちサタニストに
虚しい偽りをもって、地獄の暗闇の深淵に
あなたたちの存在を突き落とそうと目論んでいます

彼は嘘つきであり
彼の約束は実現することは決してなく
昔も今も、人間を欺き
最も深刻で戦慄すべき苦しみの坩堝へ
人間の全存在を投げ込み
永遠に閉じ込めることしか目指していません

あなたたちがどれほど彼をたたえても
彼を崇めても、彼に感謝をしても
サタンはあなたたちを愛することはない!

彼は快楽や邪悪な楽しみが
死後も永遠に続くなどと吹聴して
あなたたちを錯覚させて
あなたたちを騙しているが

実際はそうではなく
死後には、恐ろしい絶望と呪いと憎悪と
存在の深みまで焼き尽くすほどの
耐え難い苦痛の炎で包まれるばかりで
地上で享受した快楽は1ミリもなく
まさに死そのものの永続でしかなくなる

プレゼピオで横たわる
幼子イエズスをよく見つめてください

あなたが愚弄しているイエズスは
あなたの永遠の救いのために
人となられたのであり

このクリスマスは
あなたを救いに来られた受肉された神を
想い起こす祝祭であることを
わかってほしい

あなたの時間はあまりない

今こそ自分の過ちや罪の全てを
心から悔い改めてほしい

受肉された神の愛であるイエズスは
どれほど罪深いあなたであろうと
悔い改めるあなたを
ご自分の永遠の生命の喜びに入らせようと
両手を大きく広げて
あなたを迎え入れようとされています

イエズスはあなたを愛しています!
誰よりもあなたを愛しています!

これまでどれほど主を侮辱したにせよ
恐れないでください
目をそらさないでください

あなたを愛して
あなたに存在を与えたイエズスに
あなたを赦そうとしておられるイエズスに
あなた自身を委ねてください

あなたを永遠の死と絶望から
救おうとされるイエズスに
心から立ち帰ってください

イエズスという聖なる御名は
主があなたを救うという意味です

イエズスは
あなたに尊い存在を与えられた神であり
あなたの罪を赦して救うために
自分自身を贖いのいけにえとして十字架でおなくなりになり
あなたを死の墓から引き出して
ご自分の生命の豊かさに招き入れるため
死者の中から復活され
あなたの心の扉を叩き続けておられます

イエズスは永遠の愛で
あなたを愛しておられます

しかし
サタンはあなたを愛さない。永遠に!

あなたの時間があるうちに
イエズスをあなたの心のプレゼピオに
迎え入れてください

あなたの全存在を
イエズスに明け渡してください

そして永遠の愛の至福に
自分の全存在が入れるよう
この地上で努めてください

あなたの存在は
神のまなざしにおいて
本当に価値のある大切な存在ですから
本当の意味で、自分を大切にしてください

神の赦しを信じてください
自分をあきらめないでください
神はあなたを本気で救いたいのです🌹




あなたの教会のプレゼピオからバフォメットを取り除きなさい

2020-12-27 21:10:01 | クリスマス



ベトレヘムの星が
バフォメット化してるプレゼピオが増えているかも


今回の2020年版ローマの聖ペトロ広場のプレゼピオは
世界中の多くの信者さんたちから
かなり酷評されてましたね

今回のこけし風プレゼピオはさておき
昨年2019年版ローマの聖ペトロ広場のプレゼピオは
星がバフォメット風になっていたことは
自facebookでも以前取り上げていました



最近は
わかってか、わからないでか、は不明ですが
プレゼピオにかかげる星が
ベトレヘムの星というより
バフォメットの星(☆の逆さ状態)
といった感じの教会が
なんだか増えつつあります

今年のうちの所属教会のプレゼピオも
バフォメットの星状態でピカピカしてました



サタニストは
それが意味することを知っているので
キリストへの愚弄と嘲笑のうちに
それを見てほくそえんでいるでしょうが

キリスト者たちは
司教も司祭も修道者も信徒も含め
およそほとんど気づいていないようです

無意識のうちに
悪霊の影響を受けて
サタニストが崇める
バフォメットの形で(☆の逆さ状態)
星をそのような風にしているのか

意味をよく把握している人物が、準備に関わって
それとなくそのようになるよう形を整えているのか

どちらなのかは定かではありませんが
お世辞にも良い兆候とは言えないです



この投稿に気づいた人は
自分の所属の教会のプレゼピオの
ベトレヘムの星が
バフォメットの星になってないか
チェックしてみてください

星がバフォメット状態であれば
あえてサタニストたちを喜ばせたままにせず
バフォメット状態から通常の☆状態に変えるか
今後は星の形状そのものを変えるか
どちらかにするようにしてもらいたいです

というのも
彼らにとっては
星がバフォメットの状態は
十字架を逆さまにした状態と
同じ意味合いをもつからです
(主キリストに対する愚弄と嘲笑の意味)

そんな些細なこと
どうでもよかやんか、と思われるかもですが

たとえてみると
わからないからといって
キリスト者が、666のマークを身につけたり
プレゼピオの最上部に666をかかげたりしないですよね?
まして、右手や額に
獣の数字666を刻印しようとは思わないですよね?

見た目は些細なものですが
それが意味することは、とても看過できない部類です

それは、サタンのマーキングであり
「これは我々のもの、これは我々暗闇の所有物である」
という意味以外の何ものでもありません

ですので
内容はほぼ同義なので
バフォメットのピカピカのライト照明はやめましょう




Gaudete in Domino semper !

2020-12-13 16:07:04 | 幸いなおとめマリア




Gaudete in Domino semper !


主の訪れの喜びは
どれほど感動的なことでしょうか

聖母の胎内のうちにおられた主イエズスは
かつて聖母を通して
主のベトレヘムでの降誕に先立ち
聖女エリザベトとその胎内の聖ヨハネを訪れ

2人を祝福と恩寵で包み
言い尽くしがたい喜びで満たされましたが

今も、聖母を通して
主の降誕に先立ち
その来臨を待ち望む私たち1人ひとりを訪れ
私たちの霊魂、肉体、精神を
言い尽くしがたい喜びで満たしてくださいます

それゆえ、最も崇高で
愛そのものである祭壇の秘跡を
秘跡的に、あるいは霊的にいただく際
聖母が抱かれた
その愛と感謝と敬虔的感動のうちに
マニフィカトの賛歌を
へりくだりのうちにつつしんで唱えることは
とても大切な感謝の行為です


ちなみに
福者アンナ・カタリナ・エンメリックによれば
幸いなおとめマリアは
腕を胸の前で重ね合わせ
(おそらく両手首の部分が重なり合う感じでしょうね)
感動のうちに、そのマニフィカトの賛歌を口にのぼらせ
エリザベトも、この賛歌を
同じような感動のうちに共に唱えていたとのことです


Magníficat ánima mea Dóminum,
et exsultávit spíritus meus
in Deo salvatóre meo,
quia respéxit humilitátem ancíllæ suæ.

Ecce enim ex hoc beátam me dicent
omnes generatiónes,
quia fecit mihi magna, qui potens est,
et sanctum nomen eius,
et misericórdia eius in progénies et progénies
timéntibus eum.

Fecit poténtiam in bráchio suo,
dispérsit supérbos mente cordis sui;
depósuit poténtes de sede
et exaltávit húmiles;
esuriéntes implévit bonis
et dívites dimísit inánes.

Suscépit Israel púerum suum,
recordátus misericórdiæ,
sicut locútus est ad patres nostros,
Abraham et sémini eius in sæcula.

Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto.
Sicut erat in principio, et nunc, et semper,
et in saecula saeculorum. Amen.



悔い改めの愛への招き

2020-12-11 23:26:51 | 悔い改めの招き


当時徴税人であったマッテオの家で主イエズスは仰せられました

医者を必要とするのは
健康な人ではなく、病人である。

私が望むのは
いけにえではなく憐れみである。

私が来たのは
正しい人を招くためではなく
罪びとを招いて、悔い改めさせるためである。


主イエズスとつながるためには
主の憐れみの豊かさを理由に
罪人のまま(罪の状態のまま)であぐらをかいてはいけません

主の憐れみは
悔い改めて、主に立ち帰るものに注がれますが
罪の状態にあるまま放置していたり
罪に執着する自分を変えようとしないままでいること
つまり、外面的に教会に属していても
内面的な悔い改めをしていないなら
自ら、主の憐れみを拒むことになってしまいます

内面的に真摯な悔い改めをしない人々には
主が弟子たちに向けてたびたび繰り返された
次の御言葉が適用されてしまいます

あなたたちも
悔い改めなければ
みな同じように滅びる

主は私たちの心の扉をたたいています
主が求めておられるのは
私たちが、その心の扉の鍵を開ける行為です

その扉の鍵を開ける行為
それが悔い改めです

悔い改めをしないまま死を迎える人は
主が憐れみをもって、あなたのうちに入ろうとしているのを
あなたが拒んだまま
あなたが永遠の世界に入ることを意味します

さらっと言ってますが
それは考えが及ばないほど最も恐ろしいことです

罪がありながら
それらを悔い改めることなく
主を拒んだままで、自分が入る次の世界はどこでしょうか?

天国でしょうか?
悔い改めず、主を拒んだまま死んだ人は行けません

死ぬ直前に悔い改めた善い盗賊は
主から直接、天国確約されましたね
悔い改めることの大切さの代表格です

もう1人の盗賊は
十字架の主のすぐ近くにいながら
悔い改めを拒んで、主に罵声を浴びせました

身体的には主の近くにいましたが
内面的には、主から遥か遠くへ行ってしまう
悔い改めない心の頑なさの象徴となりました

煉獄でしょうか?
煉獄も死ぬ以前の悔い改めが前提ですので
悔い改めず、主を拒んだまま死んだ人は行けません

地獄でしょうか?
悔い改めず、主を拒んだまま死んだなら
そういうことになります

「燃え盛るかまどに投げ入れる」
「そこには嘆きと歯ぎしりがある」

しかも、そこに入ってしうと
それが永遠に続きますから
それはそれは想像を絶する戦慄すべきことです

黙示録では
口が酸っぱくなるほど
『悔い改め』がここかしこにちりばめられています

「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。
それで、あなたはどこから落ちたかを思い出せ。
そして悔い改めなさい」(2,4-5)

「悔い改めなさい」(2,16)

「悔い改めてその業を捨てない限り、
彼らを大きな苦しみの中に投げ入れよう」(2,22)

「悔い改めなさい」(3,3)

「悔い改めなさい」(3,19)

「彼らは悔い改めなかった」(9,21)

「彼らは悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった」(16,9)

「彼らは自分らの行ないを悔い改めようとしなかった」(16,11)

自分には悔い改めが必要ないと思い込んでいる人は
自分が見えていない人
自分を見ようとしていない人
自分というものを土の中にしまいこんで安逸のうちにいる人
外やほかのことばかり見て
自分を大切にしていない人です

神との関係性において
自分を大切にできない人は
他者を真に大切にすることはできません

誰も、持っていないものを
与えることはできないからです

主は、創造の初めから
悔い改めを求められました

旧約においても
天使や預言者たちを通じて
悔い改めを求められました

旧約から新約への移行時においても
主は、洗礼者聖ヨハネの声を通じて
「来たるべき神の怒りから逃れうるよう
悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
斧はすでに木の根元に置かれている。
良い実を結ばない木は
全て切り倒され、火に投げ入れられる。
もみ殻は消えることのない火で焼き尽くされる」
と呼びかけ
悔い改めを求められました

時が満ちた時
主ご自身が肉をまとい人となり
「悔い改めなさい」
と呼びかけ
まず第1に、悔い改めを求められました

主は新約において
使徒たちや教会を通じて
悔い改めを求められました

これら公的啓示に加えて
各時代の私的啓示においても
主ご自身、聖母、天使を通じて
悔い改めを求められました

なぜこれほどまでに
在天の方々は
悔い改めを呼びかけ続けておられるのでしょうか?

それは、地上で今、生きている私たちが
悔い改めないまま死を迎えて
永遠の死に入ってしまうことがないように

つまり、永遠の生命を失ってからでは
取り返しがつかない
死の門をくぐってから気づいても
あまりにも遅過ぎる重大な事柄のゆえに

『地獄』『炎』『うじ』

『嘆き』『歯ぎしり』『火と硫黄』

『燃え盛るかまど』『苦しみの煙は世々限りなく立ち上る』

『魂も体も地獄で滅ぼすことのできる御方を恐れなさい』

との少々ショッキングな表現を用いて

刻一刻と差し迫る個別的現実、永遠に向けて
1人ひとりが霊魂の準備を怠ることのないよう

いつくしみの愛の呼びかけ、愛の警告をして
悔い改めさせて、神に立ち帰らせるためです

愛の反対は無関心です

私たちの永遠がどうでもよかったら
こんな警告は一切出されなかったでしょう

それゆえ
悔い改めの呼びかけは
永遠を見据えた愛にほかなりません

人それぞれに時間が与えられています
その終わりの時は人によってまちまちですので
いつ、自分の最期が来るのかわかりませんから
いつ、自分の終末が訪れてもいいように
悔い改めが必要なのは
来年でもなく、明日でもなく
今この時です

1つひとつの罪を悔い改めて
憐れみの主に心の扉を開いて
永遠の生命に入れる備えをしておきましょう

悔い改めは、救いの土台です

外面的な慈善にうちこんで
人々の賞賛や感心の的になりながら
内面的な悔い改めを後回しにすることほど
霊的に危険なことはありません

悔い改めは、愛です

その愛なしに、なされる外面的善は
ほとんど意味をなさなくなってしまうことほど
もったいないことはありません

主は、外面ではなく
内面をごらんになられます

口先だけで唱えられた1000の祈り(のようなもの)よりも
痛悔の愛と敬虔のうちに心をこめた1つの祈りのほうが
主の聖心にはここちよい香のように受け入れられます

成聖の恩寵の状態にない、1000の善業よりも
成聖の恩寵の状態でなされた1つの善業が
本来的に最も大切であり
死後、その真の価値を知ることになります

主に立ち帰る悔い改めの愛は
あらゆる善業の起算点となるからです

教会人としては
成聖の恩寵の状態での
心をこめた1つの善業でいいというのではなく
成聖の恩寵の状態での
1000倍、10000倍の善業
いやいや1000000倍の善業を目指しましょう

それは、より多くの霊魂の救いに関わることだからであり
救いの協力者とされた私たち1人ひとりの
主から委ねられた愛の責務だからです

自分の罪を見て気づいていながら
見ないふりして過ごすのはやめにしましょう

キリスト者でありながら
悔い改めの愛を身にまとわないなら
主の救いの協力者として働くことも
霊的な効果をあげることもできません

まず、十字架の主の御前に身を投げ出し
いまだ痛悔していない罪、うやむやにしてきた過ち
それらをあらいざらい主にさらけ出して
心からの悔い改めをしてください

思い当たるものがない?
それは糾明不足というものです
表面的な疑似糾明ではなく
ちゃんと深掘りした本当の糾明が必要です

祈りのうちに真摯に綿密で誠実な糾明をしてください
そうすれば、悔い改めるべきものが見いだされます

糾明は霊的なチェックです
チェックをうやむやにしなければOKで
次の段階、痛悔、決心、告白、償いに進むことができます

最初の段階となる
霊的なチェック(糾明)は本当に大切です
それを手抜きしたり怠ったりすると
またやり直し、仕切り直し、といった状況になりかねません

大事な委ねられたものごとをないがしろにしたり
軽んじてうやむやにしてしまうと
後々取り返しのつかないことになりかねません

私たちにとって
主から委ねられたもののうち
最も大事なことはなんでしょうか?

それは
私たちの霊魂です

私たちの霊魂は
私たちのうちに刻まれた神の似姿です

私たちの果たすべき愛の責務は
それを細心の注意をはらって
恩寵の助けに協力しつつ
主が望まれるとおりに形造り
豊かに成長させ
キリストのフォルムに少しでも近づかせることです

また、それにより
キリストの救いの道具因として
自他の救いに自らが役立つものとなり
委ねられたタラントを豊かに増し加えて
後々、神に栄光を帰して
『神のものを神に返す』ことができるようにすることです

これこそ
私たちにおいて
何ものもキリストの愛よりも優先させない神的愛の配慮
私たちにおける御子の似姿を最優先させる神的愛の配慮であり
私たちにおける最重要事項
私たちにとって、永遠の生命に直結すること
私たちが自他にとって
天来のあらゆる祝福の源となるものです

主の訪れを待ち望む人の第一歩は
悔い改めです

悔い改めは
冷えた心に、愛の炎をともす行為です

悔い改めは
私たちを神の愛のランプに変容させる恵みです

悔い改めのうちに
十字架の主の御血に浸されて
「自分の衣を洗い清める人々は幸いである。
彼らは生命の木についての権利を授けられ
門を通って都に入ることができるだろう」(黙示録22,14)
と言われているとおりです

מרנא תא‎
Amen. Veni, Domine Iesu !

私が来たのは
正しい人を招くためではなく
罪びとを招いて、悔い改めさせるためである。

.

フランシスコ教皇聖下による聖ヨゼフへの祈り

2020-12-11 23:02:27 | 聖ヨゼフ



フランシスコ教皇聖下による
聖ヨゼフ特別年における聖ヨゼフへの祈り
(『使徒的書簡 Patris Corde 』より)


Salve, Redemptoris custos
et sponsus Mariae Virginis.
Tibi Deus suum Filium commisit;
in te Maria fiduciam suam reposuit;
tecum Christus vir factus est.
O beate Ioseph,
etiam nobis monstra te esse patrem,
atque duc nos in vitae itinere.
Impetra nobis gratiam,
misericordiam et animum,
et tuere nos ab omni malo. Amen.

サルヴェ
贖い主の守護者
おとめマリアの浄配よ
神はご自分の御子をあなたに委ね
マリアはご自分の信頼をあなたに寄せ
あなたと共に過ごされたキリストは
大人へと成長されました
あぁ、幸いなヨゼフよ
あなたが私たちの父でもあることを示し
人生の旅路を歩む私たちを導き
私たちに恩寵、憐れみ、気力をもたらし
あらゆる悪から私たちをお護りください
アーメン


※この祈り文の中で
「神はご自分の御子をあなたに委ね」と
さらっと記載しましたが

教皇聖下は
Tibi Deus suum との文のうちに
『あなただからこそ』
神はご自分の御子を委ねられた
ということを
強調されておられるようですので

そんな意味合いをこめて
特に、この聖ヨゼフ年にあたり
全教会の守護者であり
私たちの慈父である聖ヨゼフに
敬愛のうちに呼びかけようと思います🍀


ちなみにフランシスコ教皇聖下は
この聖ヨゼフへの祈りについて
前ふりで次のように紹介しました

『Imploremus denique
a sancto Ioseph gratiam gratiarum:
nostram conversionem.

要約すれば私たちは
聖ヨゼフから恩寵の中の恩寵を
(あらゆる恩寵のうち最たる恩寵)
つまり、私たちの回心を
切に願い求めなければなりません

Ad eum nostram dirigamus orationem:

それゆえ彼に向かって
私たちの祈りをお捧げいたしましょう

Salve, Redemptoris custos
et sponsus Mariae Virginis.
Tibi Deus suum Filium.....(祈り文省略)』


いろいろ求めたいことは
人それぞれあるでしょうが
(家族、自分、心配事、人間関係、
健康面、経済面、環境面、なんやかんや)
大切なことはただ1つ
私たち自身の本当の回心
悔い改めによる霊魂の救い
そこにフォーカスしてください
といった意味で
限定的に「nostram conversionem」
と表現されたんだと思います

そこをうやむやにしたまま
他のを求めるんじゃなくて

そこに向き合うことで
他の物事も新しい視野で
希望に満ちたとらえかたができて

霊的にも現実的にも
実り豊かな人生を送れるようになり

やがては
善い死の恵みをいただいて
天上の家族の一員として
私たち1人ひとりも迎えられるようになる
といったことなんでしょうね🍀