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麻布市兵衛町一丁目、現在の地番でいうと六本木一の六の五、そこに作家永井荷風の住んでいた偏奇館はあった。
生前、荷風が幾度かその住まいを替え、移り住んだ場所のなかでも、いちばん長く居を構えることになったところだ。大正九年から昭和二十年の、およそ二五年もの間、荷風はそこに住み、名作『墨東綺譚』などを著した。
今そこには、マンションが建ち、その建物の前に過去の記録を伝える小さな立て札がひっそりと立っているばかりである。
初秋のある日、私は溜池方面から六本木通りをのぼり、偏奇館跡を訪ねた。
実は、そこを訪ねるわけがもうひとつあった。妻の祖父母がかつて、荷風と同じく麻布市兵衛町に住んでいたことがあった事実を知ったからである。
その場所がどの辺にあったのかも確かめたかった。伝え聞くところによると、祖父母と荷風との家は近隣同士で、同じ町会のよしみで面識ももあったというから奇縁というほかない。
妻の祖父母がそこに住んだのは昭和十五年から敗戦の年のわずかな間であったらしいが、ある理由で、荷風も祖父母も昭和二十年三月九日をもって、この地を去っている。
ある理由というのは、その日の東京大空襲によって、この一帯がすべて灰燼に帰してしまったためである。
* * *
ところで、荷風の時代の麻布市兵衛町一丁目あたりの風景はどうだったのだろうか。
それを知るための手がかりになるのが、江戸末期の文久年間に作られた「切絵図」である。地図を見ると、市兵衛町の通りが、ちょうど、尾根沿いの高台にほぼ南北に切り開かれているのが分かる。その通りに沿って、大久保長門守、酒井但馬守、その南に隣接して南部遠江守といった大名の屋敷の名が見える。
また、その尾根沿いの道から屋敷の間を縫うようにしての谷に下る坂道が幾筋もできている。その坂の下には町人地が、通りに沿うようにして細長くつづいている。
荷風も行き来したこれらの坂は、武家の住まいと町人地を結びつける役割を担っていた交流路であったことが知れる。こうした町割りは、山の手の江戸の町でよく見うけられる構図である。
ところで、当時の地図に見える、大名の屋敷とはどんな構えであったのだろうか。
江戸時代の大名は、その石高の大小はあったが、いずれも江戸詰めのための屋敷を幕府から拝領していた。屋敷は、その機能に応じて、上、中、下屋敷に分かれ、それらは江戸の市中や郊外に散在していた。
なかでも、東京の山の手には立地の有利さを利用して各種の屋敷が多く造られた。それらは、いずれも緑に包まれた広大な庭園を擁していた。
起伏に富んだ山の手の地形を巧に利用した大名屋敷は、たいてい、高台の尾根道、ないしは尾根道に連続する支道に面して造られた。しかも、敷地は南面しているのが理想とされた。そして、敷地内の尾根道側の平坦部分に母屋を、その南斜面を利用して、池を配した変化に富んだ回遊式庭園が造作されたのである。
このように、地形、道路、敷地、さらに、そこに位置する建物や庭がすべて一体になって構成された大名屋敷が、山の手地区に次々と建てられていった。
そもそも、大名の屋敷地が造成される以前、--それはちょうど江戸期の初め頃になるのだが--一帯は雑木林の山林であった。
林の間からは、西に富士山が見えたであろう。また、東には江戸湾が望めたはずである。雑木の林を下れば、谷あいに田や畑が点在するというような風景の広がる郊外地であった。荷風の時代になっても、村園の趣はまだ生きていて、辺りには柿、無花果、石榴などの古木が多く残っていたらしい。
* * *
今改めて、荷風の偏奇館があった場所を「切絵図」で探してみると、そこに御組坂と明記された坂がある。その坂を下った先に、大井左近邸と明記されたている敷地がある。偏奇館はその辺りにあったことが分かる。
表通りから坂を下るちょうど角に、伊藤左源太邸と記された屋敷の名が見える。その脇を下る御組坂の名は、その坂を下り切った、地形的にはちょうど谷底にあたる地域に、当時、御先手組の組屋敷があったことから、そう呼ばれていたものである。
地図には御先手与力同心大縄手と記されている。縄手というのは、幕府から拝借した土地をいい、いわば、そこに官舎としての組屋敷があり、その屋敷には、武装した武士集団が住まっていたのである。先手組というのは、幕府の御家人階層からなる戦時の先頭部隊で、常時は放火盗賊を取り締まる役目を負っていたものだ。
東京の城南地区の起伏に富んだ谷あいの細い窪地を利用して、この種の居住地が開かれていた例はほかにも多く見られる。
時代は下って、明治になると、地図に見られるような大名屋敷は、時の政府によっておおむね上地される。
それらは敷地規模はそのままに、政府の公共施設に転用されるケースが多かった。あるものは外国の大使館に、またあるものは華族や皇族の屋敷、あるいは政府の高官の屋敷に変わっていった。
その例を、麻布市兵衛町の、現代に至るまでの変遷のなかで見ると、本多氏の屋敷は溝口邸から現スペイン大使館に、大久保邸が現住友会館に、曽我氏の屋敷が大村伯爵邸から現スウェーデン大使館に、そして、南部藩の上屋敷は、静寛院宮邸から東久邇宮邸、それが、さらに林野庁の公有地に転用され、現在は民間の再開発地という目まぐるしい転変ぶりである。
ここで、荷風がこの地に移り住んだ大正九年という時代に視点を合わせてみよう。
現在もそのまま名前が残る御組坂と呼ばれる坂は、住友邸に南接した田中邸と記された屋敷の敷地の脇を下っている。
荷風の日記にも時折出てくる田中邸である。現在は外人用のマンションになっている石垣で囲まれた敷地がそれである。
その坂を下って行くと、坂は二つに分かれる。それを右手に進むと、坂が突き当たり、道は一層狭くなって右に折れる。
当時は、住友邸のちょうど裏側にあたっていた。荷風の住んだ偏奇館は、その辺りにあったのである。
「貴人の自動車土を捲いて来るの虞なく、番地は近隣一帯皆同じければ訪問記者を惑すによし。偏奇館甚隠棲に適せり」(断腸亭日乗)と荷風らしい記述でこの地を紹介している。それほどに閑静、迷宮の地であったのである。
記録によると、偏奇館は三七坪ほどの敷地に建つ瓦葺き木造二階建ての西洋風の建物で、板張りの外壁はペンキで塗り込められていたという。そもそも偏奇の名は、ペンキをもじった名前であった。
庭のある家の回りは生垣(カナメモチか)で囲まれ、すぐ後ろの崖下には竹薮があった。その地所は広部銀行の所有で、それを借地したものであった(のちに購入)。
今は建物が建て込んでいて、その辺の地形を見わたしにくいが、荷風の住まいがあった場所は、崖の上に広がるちょっとした空間であった。
現在もその辺の事情は変わりがない。家の窓から外を眺めると、崖下を見下ろすように、谷底に広がる谷町、すなわち、江戸期の先手組の組屋敷の敷地跡が見わたせたはずである。 大正九年、この地に移って間もなく、荷風は窓外の風景を、日記の中で「空地は崖に臨み赤坂の人家を隔てて山王氷川両社の森と相対し樹間遥に四谷見附の老松を望み又遠く雲表に富嶽を仰ぐべし」と記し、さらに、夕暮れともなると、暮靄蒼然として、崖下の町の様子は、あたかも、英泉の版画を見る思いであると感想を述べている。
決して広いとはいえない家の庭には、各種の潅木が植わっていた。
西向きの窓の外にプラタン樹が三本、門前には夾竹桃。ほかにツツジ、藤、山吹、秋海棠、卯の花、ビワ、柿、椎、百日紅、石榴、椎、樫、松、ドウダン、石榴、カナメ、桐、楓、山茶花、八ツ手、薔薇などが、時には花を、時には実を結んだ。
なかでも、秋海棠は大久保余丁町の実家にもあった因縁でこれを愛した。秋海棠はまたの名を断腸花とも言ったことから、大久保の実家を断腸亭と称し、自らの日記も「断腸亭日乗」と銘々したほどであった。
荷風は草花も慈しんでいた。苔むす庭には春の福寿草、胡蝶花、夏の紫陽花、紅蜀葵、ムベ、秋の菊、萩、鳳仙花、コスモス、石蕗と季節に応じた草花が花を咲かせ、それを楽しんだ。西日を避けるために、家の西南に夕顔の棚を設けもした。
時折、庭の草をむしり、秋には散り敷いた落葉をかき集め、焚き火をすることもあった。 春には鴬の囀りも聞かれた。そして、夏には蝉時雨、秋は百舌鳥やコオロギのすだく声が無聊を慰めてくれた。一時期、セキセイ・インコも飼っている。
また、荷風は近隣の家の様子も日記に書き付けている。向こう隣にはトタン葺きの小家が三軒並んでいた。「一軒は救世軍の人にてもあるにや、折々破れたる風琴を鳴し、児女数人賛美歌を唱ふ。そのとなりは法華宗の信者にて、朝夕木魚を打鳴して経を読む。そのまた隣りの家にては、猿を飼ふ、けたたましき鳴声絶間なし」という具合であった。
そして、隣接した家は大工であった。その庭には柿、桃、梅などの果樹があった。鶏も飼っている。紅葉の頃ともなると隣家の落葉が風に舞い落ちては庭を埋めた。
御組坂を上がり、市兵衛町の表通りに出ると、通りの向こう側に赤煉瓦塀に囲まれた東久邇の宮の屋敷が見えた。
震災の頃まで、そこには、南部藩以来の向鶴の定紋の付いた長屋門が残っていた。塀の際には老桜が数株あり、花の季節になると一斉に見事な花を咲かせた。
荷風は二十有余年という間、山の手の隠れ家、偏奇館を根城に、下町の陋巷へと遊行した。それは彼の日記を紐解けば、自ずから頷けることである。毎日のように、銀座、浅草、吉原、玉ノ井、深川へと出かけた行動が記されている。
その際、荷風はたいてい家から狭い崖道伝いの坂道を下り、谷町の電車通りに出ている。現在の六本木通りである。
そこでタクシーを拾い、あるいは、市電に乗って、銀座方面に向かったのである。時折、溜池まで歩き、虎ノ門駅から銀座線に乗ることもあった。
谷町に下りる坂を道源寺坂という。現在もその坂の名と寺は健在で、坂の名称は、その途中にある道源寺という寺名から由来していることが分かる。
また、坂下には西光寺という、これまた現存する梅花星のごとく咲くと荷風も記した小さな寺がある。その坂沿いに茅葺き屋根の家が並んでいた。
下町からの帰路は、この谷町コースの来路をとることもあったが、新橋経由、愛宕下から江戸見坂、あるいは溜池側から霊南坂を上ることもあった。
それにしても、荷風は、なぜこうした坂を登った台地に住まいを選んだのだろうか、とふと疑問がわく。
そう言えば、荷風が生まれ育った家は、確か、東京の高台であったことを思い出した。それは、ちょうど武蔵野台地のはずれの小石川に位置し、いわば、自然山水の景の優れた場所であった。
その屋敷というのは、元旗本の屋敷を買い上げたもので、古びた庭がだだひろく広がり、ところどころに、古木が暗い陰をつくっているといった風情のところであった。敷地四五〇坪というから現在からすれば、かなりの広さであったことが分かる。
その屋敷の建つ台地の下には江戸川の水景が望め、台地から谷地に下る坂の斜面には、由緒ある寺の数々が散在していたのである。 荷風はその家に住み、当時はまだ、一般の東京人はそうしなかった洋風の生活をそこでしていたのである。
幼い頃、こうした台地の家に住み、洋風の生活をし、台地の上から、東京を見つめていた荷風にとって、同じような環境の麻布市兵衛町の高台は、思いつきで選んだ場所ではなかったといえそうである。
荷風は、前述したように、偏奇館の建物を西洋風に仕立て、壁にモダンなペンキを塗りたてて、そこで洋風の生活を送ったのであった。
ところで荷風の偏奇館があった市兵衛町の町名は、この地の名主であった黒沢市兵衛の名からとったもので、明治になってから一丁目と二丁目に分かれたという。
しかしながら、現在、この一帯の変貌は著しい。かつての風景はこのところの再開発で消滅してしまった。ただ、「荷風偏奇館跡」を記す碑がひっそりと立つばかりである。
生前、荷風が幾度かその住まいを替え、移り住んだ場所のなかでも、いちばん長く居を構えることになったところだ。大正九年から昭和二十年の、およそ二五年もの間、荷風はそこに住み、名作『墨東綺譚』などを著した。
今そこには、マンションが建ち、その建物の前に過去の記録を伝える小さな立て札がひっそりと立っているばかりである。
初秋のある日、私は溜池方面から六本木通りをのぼり、偏奇館跡を訪ねた。
実は、そこを訪ねるわけがもうひとつあった。妻の祖父母がかつて、荷風と同じく麻布市兵衛町に住んでいたことがあった事実を知ったからである。
その場所がどの辺にあったのかも確かめたかった。伝え聞くところによると、祖父母と荷風との家は近隣同士で、同じ町会のよしみで面識ももあったというから奇縁というほかない。
妻の祖父母がそこに住んだのは昭和十五年から敗戦の年のわずかな間であったらしいが、ある理由で、荷風も祖父母も昭和二十年三月九日をもって、この地を去っている。
ある理由というのは、その日の東京大空襲によって、この一帯がすべて灰燼に帰してしまったためである。
* * *
ところで、荷風の時代の麻布市兵衛町一丁目あたりの風景はどうだったのだろうか。
それを知るための手がかりになるのが、江戸末期の文久年間に作られた「切絵図」である。地図を見ると、市兵衛町の通りが、ちょうど、尾根沿いの高台にほぼ南北に切り開かれているのが分かる。その通りに沿って、大久保長門守、酒井但馬守、その南に隣接して南部遠江守といった大名の屋敷の名が見える。
また、その尾根沿いの道から屋敷の間を縫うようにしての谷に下る坂道が幾筋もできている。その坂の下には町人地が、通りに沿うようにして細長くつづいている。
荷風も行き来したこれらの坂は、武家の住まいと町人地を結びつける役割を担っていた交流路であったことが知れる。こうした町割りは、山の手の江戸の町でよく見うけられる構図である。
ところで、当時の地図に見える、大名の屋敷とはどんな構えであったのだろうか。
江戸時代の大名は、その石高の大小はあったが、いずれも江戸詰めのための屋敷を幕府から拝領していた。屋敷は、その機能に応じて、上、中、下屋敷に分かれ、それらは江戸の市中や郊外に散在していた。
なかでも、東京の山の手には立地の有利さを利用して各種の屋敷が多く造られた。それらは、いずれも緑に包まれた広大な庭園を擁していた。
起伏に富んだ山の手の地形を巧に利用した大名屋敷は、たいてい、高台の尾根道、ないしは尾根道に連続する支道に面して造られた。しかも、敷地は南面しているのが理想とされた。そして、敷地内の尾根道側の平坦部分に母屋を、その南斜面を利用して、池を配した変化に富んだ回遊式庭園が造作されたのである。
このように、地形、道路、敷地、さらに、そこに位置する建物や庭がすべて一体になって構成された大名屋敷が、山の手地区に次々と建てられていった。
そもそも、大名の屋敷地が造成される以前、--それはちょうど江戸期の初め頃になるのだが--一帯は雑木林の山林であった。
林の間からは、西に富士山が見えたであろう。また、東には江戸湾が望めたはずである。雑木の林を下れば、谷あいに田や畑が点在するというような風景の広がる郊外地であった。荷風の時代になっても、村園の趣はまだ生きていて、辺りには柿、無花果、石榴などの古木が多く残っていたらしい。
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今改めて、荷風の偏奇館があった場所を「切絵図」で探してみると、そこに御組坂と明記された坂がある。その坂を下った先に、大井左近邸と明記されたている敷地がある。偏奇館はその辺りにあったことが分かる。
表通りから坂を下るちょうど角に、伊藤左源太邸と記された屋敷の名が見える。その脇を下る御組坂の名は、その坂を下り切った、地形的にはちょうど谷底にあたる地域に、当時、御先手組の組屋敷があったことから、そう呼ばれていたものである。
地図には御先手与力同心大縄手と記されている。縄手というのは、幕府から拝借した土地をいい、いわば、そこに官舎としての組屋敷があり、その屋敷には、武装した武士集団が住まっていたのである。先手組というのは、幕府の御家人階層からなる戦時の先頭部隊で、常時は放火盗賊を取り締まる役目を負っていたものだ。
東京の城南地区の起伏に富んだ谷あいの細い窪地を利用して、この種の居住地が開かれていた例はほかにも多く見られる。
時代は下って、明治になると、地図に見られるような大名屋敷は、時の政府によっておおむね上地される。
それらは敷地規模はそのままに、政府の公共施設に転用されるケースが多かった。あるものは外国の大使館に、またあるものは華族や皇族の屋敷、あるいは政府の高官の屋敷に変わっていった。
その例を、麻布市兵衛町の、現代に至るまでの変遷のなかで見ると、本多氏の屋敷は溝口邸から現スペイン大使館に、大久保邸が現住友会館に、曽我氏の屋敷が大村伯爵邸から現スウェーデン大使館に、そして、南部藩の上屋敷は、静寛院宮邸から東久邇宮邸、それが、さらに林野庁の公有地に転用され、現在は民間の再開発地という目まぐるしい転変ぶりである。
ここで、荷風がこの地に移り住んだ大正九年という時代に視点を合わせてみよう。
現在もそのまま名前が残る御組坂と呼ばれる坂は、住友邸に南接した田中邸と記された屋敷の敷地の脇を下っている。
荷風の日記にも時折出てくる田中邸である。現在は外人用のマンションになっている石垣で囲まれた敷地がそれである。
その坂を下って行くと、坂は二つに分かれる。それを右手に進むと、坂が突き当たり、道は一層狭くなって右に折れる。
当時は、住友邸のちょうど裏側にあたっていた。荷風の住んだ偏奇館は、その辺りにあったのである。
「貴人の自動車土を捲いて来るの虞なく、番地は近隣一帯皆同じければ訪問記者を惑すによし。偏奇館甚隠棲に適せり」(断腸亭日乗)と荷風らしい記述でこの地を紹介している。それほどに閑静、迷宮の地であったのである。
記録によると、偏奇館は三七坪ほどの敷地に建つ瓦葺き木造二階建ての西洋風の建物で、板張りの外壁はペンキで塗り込められていたという。そもそも偏奇の名は、ペンキをもじった名前であった。
庭のある家の回りは生垣(カナメモチか)で囲まれ、すぐ後ろの崖下には竹薮があった。その地所は広部銀行の所有で、それを借地したものであった(のちに購入)。
今は建物が建て込んでいて、その辺の地形を見わたしにくいが、荷風の住まいがあった場所は、崖の上に広がるちょっとした空間であった。
現在もその辺の事情は変わりがない。家の窓から外を眺めると、崖下を見下ろすように、谷底に広がる谷町、すなわち、江戸期の先手組の組屋敷の敷地跡が見わたせたはずである。 大正九年、この地に移って間もなく、荷風は窓外の風景を、日記の中で「空地は崖に臨み赤坂の人家を隔てて山王氷川両社の森と相対し樹間遥に四谷見附の老松を望み又遠く雲表に富嶽を仰ぐべし」と記し、さらに、夕暮れともなると、暮靄蒼然として、崖下の町の様子は、あたかも、英泉の版画を見る思いであると感想を述べている。
決して広いとはいえない家の庭には、各種の潅木が植わっていた。
西向きの窓の外にプラタン樹が三本、門前には夾竹桃。ほかにツツジ、藤、山吹、秋海棠、卯の花、ビワ、柿、椎、百日紅、石榴、椎、樫、松、ドウダン、石榴、カナメ、桐、楓、山茶花、八ツ手、薔薇などが、時には花を、時には実を結んだ。
なかでも、秋海棠は大久保余丁町の実家にもあった因縁でこれを愛した。秋海棠はまたの名を断腸花とも言ったことから、大久保の実家を断腸亭と称し、自らの日記も「断腸亭日乗」と銘々したほどであった。
荷風は草花も慈しんでいた。苔むす庭には春の福寿草、胡蝶花、夏の紫陽花、紅蜀葵、ムベ、秋の菊、萩、鳳仙花、コスモス、石蕗と季節に応じた草花が花を咲かせ、それを楽しんだ。西日を避けるために、家の西南に夕顔の棚を設けもした。
時折、庭の草をむしり、秋には散り敷いた落葉をかき集め、焚き火をすることもあった。 春には鴬の囀りも聞かれた。そして、夏には蝉時雨、秋は百舌鳥やコオロギのすだく声が無聊を慰めてくれた。一時期、セキセイ・インコも飼っている。
また、荷風は近隣の家の様子も日記に書き付けている。向こう隣にはトタン葺きの小家が三軒並んでいた。「一軒は救世軍の人にてもあるにや、折々破れたる風琴を鳴し、児女数人賛美歌を唱ふ。そのとなりは法華宗の信者にて、朝夕木魚を打鳴して経を読む。そのまた隣りの家にては、猿を飼ふ、けたたましき鳴声絶間なし」という具合であった。
そして、隣接した家は大工であった。その庭には柿、桃、梅などの果樹があった。鶏も飼っている。紅葉の頃ともなると隣家の落葉が風に舞い落ちては庭を埋めた。
御組坂を上がり、市兵衛町の表通りに出ると、通りの向こう側に赤煉瓦塀に囲まれた東久邇の宮の屋敷が見えた。
震災の頃まで、そこには、南部藩以来の向鶴の定紋の付いた長屋門が残っていた。塀の際には老桜が数株あり、花の季節になると一斉に見事な花を咲かせた。
荷風は二十有余年という間、山の手の隠れ家、偏奇館を根城に、下町の陋巷へと遊行した。それは彼の日記を紐解けば、自ずから頷けることである。毎日のように、銀座、浅草、吉原、玉ノ井、深川へと出かけた行動が記されている。
その際、荷風はたいてい家から狭い崖道伝いの坂道を下り、谷町の電車通りに出ている。現在の六本木通りである。
そこでタクシーを拾い、あるいは、市電に乗って、銀座方面に向かったのである。時折、溜池まで歩き、虎ノ門駅から銀座線に乗ることもあった。
谷町に下りる坂を道源寺坂という。現在もその坂の名と寺は健在で、坂の名称は、その途中にある道源寺という寺名から由来していることが分かる。
また、坂下には西光寺という、これまた現存する梅花星のごとく咲くと荷風も記した小さな寺がある。その坂沿いに茅葺き屋根の家が並んでいた。
下町からの帰路は、この谷町コースの来路をとることもあったが、新橋経由、愛宕下から江戸見坂、あるいは溜池側から霊南坂を上ることもあった。
それにしても、荷風は、なぜこうした坂を登った台地に住まいを選んだのだろうか、とふと疑問がわく。
そう言えば、荷風が生まれ育った家は、確か、東京の高台であったことを思い出した。それは、ちょうど武蔵野台地のはずれの小石川に位置し、いわば、自然山水の景の優れた場所であった。
その屋敷というのは、元旗本の屋敷を買い上げたもので、古びた庭がだだひろく広がり、ところどころに、古木が暗い陰をつくっているといった風情のところであった。敷地四五〇坪というから現在からすれば、かなりの広さであったことが分かる。
その屋敷の建つ台地の下には江戸川の水景が望め、台地から谷地に下る坂の斜面には、由緒ある寺の数々が散在していたのである。 荷風はその家に住み、当時はまだ、一般の東京人はそうしなかった洋風の生活をそこでしていたのである。
幼い頃、こうした台地の家に住み、洋風の生活をし、台地の上から、東京を見つめていた荷風にとって、同じような環境の麻布市兵衛町の高台は、思いつきで選んだ場所ではなかったといえそうである。
荷風は、前述したように、偏奇館の建物を西洋風に仕立て、壁にモダンなペンキを塗りたてて、そこで洋風の生活を送ったのであった。
ところで荷風の偏奇館があった市兵衛町の町名は、この地の名主であった黒沢市兵衛の名からとったもので、明治になってから一丁目と二丁目に分かれたという。
しかしながら、現在、この一帯の変貌は著しい。かつての風景はこのところの再開発で消滅してしまった。ただ、「荷風偏奇館跡」を記す碑がひっそりと立つばかりである。
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