私が父の会社をとりあえず継いで、数年経ったら弟(私の甥にあたるのだが)に会社を任せる。
それが父の描いていた青写真だったと思う。
でも私は仕事を放棄し、離婚までして縁もゆかりも無い遠い奈良に逃げ込んでしまった。
諸事情は勿論あるが、逃げたということに変わりはない。
それが私が一生背負う負い目だ。
盆暮れには帰省したが、その度に「帰ってこい」としか両親は言わない。
しごく当たり前のことだ。
父はいつも私の頭をコツンと叩き、
「このダラ娘」(富山弁でダラはバカのこと)と笑っていた。
本当はコツンではなくゴツンと思いきり叩きたいだろうに・・・と、哀しそうな笑顔を見る度に思ったものだった。
その父が、先週本当にあっけなく逝ってしまった。
文字通り「突然死」・・・大動脈が破裂して一瞬で。
恐らく本人も自分が死んだとは気が付いていないでしょうと、看取った医師が言っていたそうだ。
父の遺志で密葬にしたが、準備や親戚の接待で気忙しくして哀しむ時間を減らした。
そうでもしないとおかしくなりそうだった。
最後の別れの時、家族それぞれが頭をなでたり、握手したり・・・
思い思いのお別れをした。
私も父の冷たい手をとり、私の頭をコツンと叩いてもらった。
帰省した時の私と父の別れの儀式。
そうやっていつも奈良に帰っていったのだから。
でも、悔しい事に、そのコツンにはただの手の重みしか感じられなかった。
悔しさやはがゆさ、そして私を想う気持ち・・・いつも温かい親心を私は楽しんでいたのに。
その時初めて思えた。
父は逝ってしまったんだと。
しばらくは後処理で富山と奈良を行ったり来たりの生活になる。
その度に、もう父は私の頭を小突いてくれないことがどんなにか寂しいか・・・
それを乗り越えられた時、本当の意味で父の死を受け入れられるのかもしれないな、と思う。
それが父の描いていた青写真だったと思う。
でも私は仕事を放棄し、離婚までして縁もゆかりも無い遠い奈良に逃げ込んでしまった。
諸事情は勿論あるが、逃げたということに変わりはない。
それが私が一生背負う負い目だ。
盆暮れには帰省したが、その度に「帰ってこい」としか両親は言わない。
しごく当たり前のことだ。
父はいつも私の頭をコツンと叩き、
「このダラ娘」(富山弁でダラはバカのこと)と笑っていた。
本当はコツンではなくゴツンと思いきり叩きたいだろうに・・・と、哀しそうな笑顔を見る度に思ったものだった。
その父が、先週本当にあっけなく逝ってしまった。
文字通り「突然死」・・・大動脈が破裂して一瞬で。
恐らく本人も自分が死んだとは気が付いていないでしょうと、看取った医師が言っていたそうだ。
父の遺志で密葬にしたが、準備や親戚の接待で気忙しくして哀しむ時間を減らした。
そうでもしないとおかしくなりそうだった。
最後の別れの時、家族それぞれが頭をなでたり、握手したり・・・
思い思いのお別れをした。
私も父の冷たい手をとり、私の頭をコツンと叩いてもらった。
帰省した時の私と父の別れの儀式。
そうやっていつも奈良に帰っていったのだから。
でも、悔しい事に、そのコツンにはただの手の重みしか感じられなかった。
悔しさやはがゆさ、そして私を想う気持ち・・・いつも温かい親心を私は楽しんでいたのに。
その時初めて思えた。
父は逝ってしまったんだと。
しばらくは後処理で富山と奈良を行ったり来たりの生活になる。
その度に、もう父は私の頭を小突いてくれないことがどんなにか寂しいか・・・
それを乗り越えられた時、本当の意味で父の死を受け入れられるのかもしれないな、と思う。