1年以上前になるけど、
2010年5月22日(土)、広島は国際会議場へ、
山田洋次監督の講演会を聞きに行ってきました。
第106回日本精神神経学会の市民公開講座として、
防衛大の野村總一郎教授と、山田洋次監督が講演されたのだ。
http://www.bunkacky.jp/bosyu/detail.php?q=1&enc=%A1%FD&ht%5B%5D=3&hky=&id=539
演題は、『寅さんとメンタルへルス』
山田監督が、寅さんこと渥美清さんとの交流を通して、
色々感じられたことをお話になったのである。
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寅さんの映画は、国民に親しまれているけれど、
特に、精神的弱者、肉体的弱者の方にも愛されている、
それは、渥美清さんのお人柄によるものではないか、
というところから講演は始まった。
渥美さんは、
精神薄弱の10歳くらいの男の子からファンレターをもらって、
自分の声を吹き込んだテープを男の子に返信したそうな。
「あきらくん(という男の子宛てだったそうだ)。
あきらくんは、体が弱くて辛い毎日を送っているだろうけど、
おじさんも、子供の頃、病気がちだったから、
あまり学校に行けなかったんだよ。
色々な人のおかげで、
今こうして映画に出られるくらい元気になったから、
自分の体を大切にして、元気でいることが、
自分を愛してくれている人への恩返しだと思っているんだよ」
と、10歳の男の子と同じ目線にたって、語りかける内容だったそうな。
渥美さんの死後、男の子のお祖母さんから届けられたテープを聴いて、
監督は涙されたそうである。
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渥美清さんは、実はとても病弱だった方で、
小学校は6年間のうち、4年間くらいしか学校に行けなかったとか。
そのあと結核になって、
中学もようやっと卒業したくらいだったそうである。
あんまりにも勉強ができなかったので、
ぐれて、浅草でワルになっていたのだそうだが、
警察官の一言で、ワルをやめる決心をしたそうな。
「お前は、ワルの世界では出世できないよ。
なぜなら、お前は、顔が個性的で、
指名手配になったらすぐお縄になるから、
かたぎの世界に行くほうがいいよ」
それで、勉強もできないし、旋盤工になるのも性に合わないので、
ストリップも仕事の合間に見れるしね、ということで、
浅草のストリップ劇場の裏方として、仕事することにしたそうである。
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山田監督と、渥美さんは対称的な育ち方をされていたので、
お互いに興味をもって、もっと相手のことを知りたい、と思い、
多くを語り合ったそうだ。
山田監督は、満州引揚げで、お父さまが満鉄に勤務されていた、
当時としては中流の上の暮らし。東大法学部にも入ったインテリ。
監督のお兄様は現在も健在で、会場にもいらしていた。
お兄様が広島の基町高校の先生で、そのご縁で広島に講演に来ていただいたのだそうだ。
一方、
渥美さんは、東京の下町生まれ下町育ちで、根っからの下町っ子。
家族縁が薄くて、二人のお姉さま、1人のお兄様、
ご両親も早くに亡くしてしまった。
「自分(山田監督)は、子供の頃にチーズが好きだった、という話をしたら、
渥美さんは、目を丸くして、
『チーズとかバターなんていうものは、
東京の下町では、戦前にはお目にかかることがなかった』、と言った。
それから、食事のごとに、
『監督は、子供の頃からチーズを食べていたような人だからなあ』
と言われて、
不良にいじめられる級長のような気分でした」
と、監督はおっしゃった。
山田監督は、渥美さんをどう映画で活かせるかと考えて、
寅さんのイメージを作り上げたのだそうだが、
寅さんは、山田監督と渥美さんが、二人で作った男で、
二人で共有して、共感して、支えてきたから、48作も続いたのだそうである。
~続く~
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