理想国家日本の条件 自立国家日本 日本の誇りを取り戻そう! 桜 咲久也

マスコミで報道されないような
情報と日記です(^▽^)/
世界と日本の危機を伝える・・

関東大震災--政府が「不在」といっていい状態だった

2013年11月10日 12時56分41秒 | 旧・政治・経済、報道

関東大震災--

政府が「不在」といっていい状態だった

   

子供たちに伝えたい日本人の近現代史               

「発展途上」襲った大震災

2013.11.10 08:19 (1/3ページ~)産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/life/news/131110/art13111008240001-n1.htm

強い揺れで倒壊した浅草名物の「十二階」凌雲閣。関東大震災は
首都圏に甚大な被害をもたらした =大正12年9月


 ■首相死去、台風まで不運が重なった

 大正12(1923)年9月1日午前11時58分ごろ、相模湾を
震源地とする大地震が起きた。死者約10万5千人という未曽有の被害
をもたらした関東大震災である。

 地震の大きさはM7・9と推定されている。一昨年3月の東日本大震災
はM9・0と発表された。むろん震源地と陸地との距離は異なるし、
被災地の人口密集度も違う。被災者数だけで震災の大きさを計ることは
できないが、東日本大震災に比べ犠牲者の数は5倍以上にも上った。

 これだけ被害を大きくした背景には、いくつかの「不運」が重なり
合ったことがある。

 まずは発展途上の大都市が襲われたことだ。当時の日本は日清、
日露の戦争の後の比較的平和な時代だった。

しかも第一次大戦による特需もあり、東京、大阪など都市部で工業が
急速に発達した。

 このため農村から都市に出て働く人が急増していた。東京の場合、
日清戦争直後から大震災直前までに人口は約2・5倍に増えた。
横浜は約3倍だった(矢崎武夫『日本都市の発展過程』)。

 ところがそうした人口増に、都市の交通網などインフラ整備が追いつかない。
多くの人々はいわゆる下町の小さな木造住宅に住むしかなかった。

そうした住宅密集地が襲われたのだ。

 しかも発生時が正午直前で、大半の家が昼食の準備で火を使っていた。
その火が至るところで火災を発生させた。

 

 その上、あまり知られていないが、前々日の8月30日以来、
西日本が台風に襲われていたこともあった。

 当時の新聞で確かめると、30日午後、鹿児島市で建設中の私立中学の
校舎が強風で全壊、夜には福岡県の小倉が停電に見舞われた。
翌31日は大阪で豪雨となった。

 

1日朝になると大阪の雨や風は弱まり、台風(低気圧)は北東に進んだ。
大地震が起きた時間には中心が北陸の福井市付近にあったものと推測
されている。

 震源地に近い東京や横浜など関東地方も、台風に向けて吹く風の影響を
受けていた。東京・麻布の自宅で被災した作家、永井荷風は日記『断腸亭日乗』
に、この日未明には「雨歇(や)みしが風なほ烈(はげ)し」かったと
記している。この強風が火災をあおったのである。

 中でも惨状を極めたのが、東京の下町、隅田川左岸の本所被服廠
(ひふくしょう)跡だった。被服廠とは着物工場である。
当時ここにその跡地約7ヘクタールが広大な空き地になっていた。

 この空き地に主に東の地域から、家が壊れたり、火事になったりした
4万人以上が避難してきて、ほとんど身動きできない状態となった。

そこへ強風に乗った火の粉が襲い、来ている服や持ち出してきていた家具に
燃え移った。

 ほとんどの人は逃げようもなく焼死した。その数は3万8千人に上り、
震災の犠牲者の3分の1以上に達した。

 

「不運」はそれだけではなかった。これだけ大きな地震が起きたとき、
ただちに対策に当たるべき政府が「不在」といっていい状態だったのだ。

 9日前の8月23日、海軍出身の首相、加藤友三郎が急死した。

5日後、同じ海軍出身の長老、山本権兵衛に2度目の組閣の大命がくだったが、
人事をめぐるゴタゴタが続く。山本内閣が正式に発足するのは地震発生から
24時間以上過ぎた9月2日午後だった。

 

むろんこの間も外相の内田康哉が臨時首相として、内務相の水野錬太郎ら
とともに指揮をとったものの、混乱を大きくしたことは間違いない。

しかしこの組閣で水野の後任の内務相となった後藤新平は、
台湾総督府民政長官や満鉄総裁、さらに東京市長としての経験を生かし、
帝都復興院を設立、大車輪で復興の指揮をとる。

 一方で、数日後には上野公園や日比谷公園などにバラックの仮設住宅が
建ち始めた。さらに3、4週間後には露天商が400軒余りも出現、全国
から支援の物資も集まり、市民もたくましく復興に向け立ち上がっていった。
(皿木喜久)

                   ◇

【用語解説】後藤新平の復興計画

 「大風呂敷」のあだ名があった後藤は、帝都復興院に優秀な官僚を集め、
米国人で都市計画に詳しいチャールズ・ビアードを呼び、東京を欧米の
最新都市のように全面的に造り変える復興計画をつくった。

 すべてに必要な費用は40億円に上るといわれ、特に道路は東銀座から
日本橋を抜け郊外にいたる「100メートル」道路を新設するのをはじめ
大幅に拡幅しようとするものだった。しかし国家予算が15億円程度の時代に
あまりに巨額の金を要し、議会や政府内から強い反発を受け、最終的には
約4億円に縮小された。

 

 

 

 

 



最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (泣き虫ウンモ)
2013-11-10 20:37:16
雑誌「ザ・リバティ」で、指摘されててご存知の方もいると思いますが、知らない人向けに書きますね。
日本共産党(法的には認められない)1922.7.15成立
日英同盟 1923.8.17失効(破棄)
ということで、これらのことが天の警告を招いたのではないかということです。
あと、内田康哉さんという方も後に国連脱退を推進した、大衆迎合型の政治家ではないかという指摘もあります。
この方に関しては、具体的なことは知らないので何とも言えませんが、影響があったのかな?
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。