4/26 聖徳太子の国家戦略
聖徳太子の十七条の憲法(二条)に、以下のように述べられています。
「二に曰く、篤(あつ)く三宝を敬え。三宝とは、仏と法と僧なり。
すなわち四生の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おおむね)なり。
いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざらん。
人、はなはだ悪しきもの少なし。よく教うるをもて従う。
そ三宝に帰(よ)りまつらずば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)す。」
意味:二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。三つの宝とは仏・法法・僧団のことである。
それはあらゆる衆生の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。
いかなる世においても、いかなる人であっても、仏法を尊ばないということがあるだろうか。
はなはだしく悪い人というものは少ない。よく教えるならば、仏法に従うであろう。
仏法によらなければ、何によって曲がった心を正すことができるであろうか。
聖徳太子は、神道という宗教の祭主である天皇家にありながら、仏教を取り入れられました。
なぜ、聖徳太子は「神道国」であった日本に本格的に仏教を導入し、「国体の変更」とも言えるような大改革をなされたのでしょうか?
それは、日本に仏教を受け入れ、国教に据えることで、日本を世界水準の文明レベルへと引き上げようとされたのではないでしょうか。
明治維新を通じて、日本が西洋文明を導入し、西洋列国に追いつこうとしたのと似ているかもしれません。
釈迦が帰天して百年後、インド大陸を統一したアショーカ王は、民族宗教ヒンドゥ教を尊びながらも、仏教に深く帰依し、仏教をインド全土に広め、「法(ダルマ)の政治」をなされました。
聖徳太子も神道を尊びながらも、日本を仏教国とすることで、日本の文明レベルを引き上げると共に、日本に「精神の柱」を打ち立て、奈良・平安時代の仏教を中心とした文化の興隆をもたらしました。
先日、NHKで『大仏開眼』という歴史ドラマが放映されていましたが、聖武天皇は自ら「大仏建立」を発願され、「天皇御袖に土を入れて、持ち運びて(大仏の)御座に加える」というほど、深く仏教に傾倒されていました。
明治期、戦前の「富国強兵」が成功した根源には、日本に「精神の柱」があったからです。
戦後、日本の強さを恐れた占領軍GHQの政策によって、徳育の排除、政教分離等が徹底され、日教組やマスコミ、文化人等によって、それが加速され、日本は「精神の柱」が骨抜きになった「クラゲのような国家」になってしまいました。
私は国家も、人と同じだと思います。国家のパワーの源泉は「精神の柱」であり、精神が骨抜きになった国家は衰退し、国防も弱体化することは避けられません。
幸福実現党は、聖徳太子がなされた「精神の柱」を国家に打ち立てる大事業に匹敵する幸福維新を成し遂げて参ります。
幸福実現党 政調会長 黒川白雲 氏